12食目 表舞台への階段
短めです
マンションの401号室。玄関のドアを開けた瞬間、天根蓮の鼻腔をくすぐったのは、柔らかな出汁の香りと、冬の訪れを告げるような柚子の清涼な匂いだった。
リビングに足を踏み入れると、そこには既に日常の一部となった「温かな気配」が満ちている。キッチンでは、エプロン姿の橘椿が、迷いのない手つきで小鉢に彩りを添えていた。
「おかえりなさい、天根君。今日は少し早かったわね」
椿は振り返り、蓮の顔を真っ直ぐに見つめた。その瞳は、挨拶を交わすのと同時に、彼の肌の艶、目の輝き、そして歩幅の微かな揺れまでをスキャンするように細められる。
「……顔つきがいいわね。何かあった?」
「……分かるか」
蓮はスポーツバッグをソファーの脇に置き、軽く肩を回した。全身の細胞が歓喜に震えているような、奇妙な全能感が身体の芯に残っている。
「予定通り、今日からメインピッチに合流した。一軍の練習に参加してきたよ」
「そう……。どうだった?」
椿は手を止め、わずかに首を傾けて先を促した。その問いは、単なる世間話ではない。彼の主観的な感覚が、彼女の構成する栄養素とどう噛み合ったのかを確認するための、技術的な問いかけだ。
蓮はリビングの椅子に腰を下ろし、自身の両手を見つめた。
「……完璧だった。一軍のスピードは、これまでいたBチームとは次元が違う。パスの強度も、寄せの速さも。……でも、不思議なんだ。俺には、そのすべてがスローモーションに見えた」
蓮の声には、確かな熱が宿っていた。
「一歩踏み出す瞬間に、どこに重心を置けば最短でトップスピードに乗れるか、脳を通さずに身体が理解してる感覚だ。橘。あんたが作った俺の身体、今、かつてないほどに研ぎ澄まされてるのが分かる」
「そう。私の仕事が役立っているようで安心したわ」
椿は、どこか満足げに、それでいて淡々とテーブルに料理を並べていく。
今夜のメインは、薄く引かれた真鯛のカルパッチョ。そこに、低温調理でしっとりと仕上げられた鶏ささみの梅和え、さらに蒸し上げたばかりの、色鮮やかな季節の温野菜が並ぶ。
どれもが、激しい運動後の筋組織の修復と、神経系の疲労回復を緻密に計算された「作品」だった。
「……そういえば」
蓮は、ふと思い出したように口を開いた。
「練習後に、桐生さんに誘われたんだ。……あ、桐生さんってのは、一軍のエースな。その人に、駅前の新しいラーメン屋に連れてってやるって言われた。一軍合流の歓迎会だってさ」
椿の手が、わずかに止まった。彼女は困ったように眉を下げ、小さな溜息を吐きながら微笑んだ。
「……あら。一軍のエースから直々の誘いなんて、光栄じゃない。チームの輪に入るのも、選手のメンタル管理としては重要よ」
「……ああ、そう思ったよ。でも、今日は断った」
蓮の言葉に、椿は驚いたように顔を上げた。
「断ったの? せっかくの好意を?」
「急だったしな。……何より、今のこの研ぎ澄まされた感覚を、一杯のラーメンで濁らせたくなかった。食事の周期を崩したくないから、調整させてくれって言って、帰ってきたよ」
蓮の真っ直ぐな視線を受け、椿は一瞬だけ呆気に取られたような顔をした後、くすぐったそうに視線を外した。
「……ストイックね、相変わらず。でも、天根君。一つだけ言っておくわ。私はあなたの『食』を管理しているけれど、あなたの『人生』を縛るつもりはないのよ」
彼女は蓮の向かいの席に座り、お茶を注ぎながら続けた。
「外食は、決して悪じゃない。それも一つのコンディション調整よ。仲間と笑って食べる時間は、脳内のドーパミンを分泌させ、ストレス耐性を高めるわ。……もし、また誘われるようなことがあったら、前もって相談して。その前後の献立で、脂質や塩分を完璧に相殺してみせるから」
「……相殺、か。頼もしいな。了解した」
蓮は箸を取り、手を合わせた。
「いただきます」
まずは、真鯛の一切れを口に運ぶ。
淡白ながらも深い旨味と、微かに香るオリーブオイルの風味が、疲れた身体に吸い込まれていく。咀嚼するたびに、自分というエンジンに最高級の燃料が充填されていくような、静かな充足感があった。
「美味っ……。やっぱり、外で食わなくて正解だったよ」
「……お世辞はいいわ。さあ、冷めないうちに野菜も食べなさい」
椿はいつものように素っ気なく応じるが、その口元はわずかに緩んでいる。
食卓を囲む二人の間には、穏やかな時間が流れていた。それは、支配でも依存でもない、プロフェッショナル同士が互いの才能を認め合い、磨き合うことで生まれる、極めて純粋な「信頼」の空間だった。
「……あぁ、そういえば今週末、一軍合流後、初めての公式戦があるんだ」
蓮が何気なく告げると、椿は箸を止めた。
「あら、そうなの。いよいよ本格的なデビューね。頑張ってね」
「……見に来るか?」
蓮の問いは、彼自身にとっても少し意外なものだった。
今まで、誰かに自分の試合を見に来てほしいと願ったことなど一度もなかった。ピッチに立てば自分一人の世界。歓声も、視線も、すべては雑音に過ぎないと思っていた。
だが、今の自分の肉体を「作り上げた」彼女にだけは、その成果を確認してほしいという、奇妙な独占欲に近い感情が芽生えていた。
椿は少しだけ目を見開いた後、至極当然のことのように頷いた。
「は? ……当たり前でしょ。あんたの栄養、誰が管理してると思ってんの。ピッチの上で、私の計算がどれだけ正確に体現されているか、自分の目で確認しに行くわよ」
彼女の言葉に、蓮は思わず苦笑した。
「……そうか。やっぱり、あんたはそう言うよな」
「当たり前じゃない。練習だろうと試合だろうと、私はその日の最適な食事を作り続けるだけ。……それが、あなたの側にいる私の役割なんだから」
椿は立ち上がり、キッチンから追加の温菜を持ってきた。
「さあ、しっかり食べて。明日の練習は、今日よりもさらに強度が上がるはずよ。細胞の一つ一つまで、私のメニューで満たしておきなさい」
「……ああ。そうするよ」
蓮は、再び箸を動かした。
柚子の香りが、鼻を抜ける。
窓の外では冬の冷たい風が吹いていたが、この401号室の中だけは、春のような暖かさと、これから始まる伝説への静かな高揚感に満ちていた。
この時、二人はまだ知らなかった。
この「完璧な信頼」が、一瞬の焦りと、過剰なまでの献身によって、音を立てて崩れ去る日が来ることを。
そしてその崩壊こそが、二人をさらに深淵な、逃げ場のない関係へと誘うことになることを。
「……っ、これも美味いな。橘、おかわりあるか?」
「……食べ過ぎも禁物よ。でも、タンパク質の追加なら、あと半分だけ許可するわ」
柔らかな笑い声が、夜の静寂に溶けていった。
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