第33話:空っぽの揺りかご、あるいは絶望の産声
「……行ってくる、エミリオ。無駄に動いて傷口を広げるなよ」
地下アジトの薄暗い光の下、マルコは重たい狙撃銃を肩に担ぎ直した。ベッドの上では、前回の任務で負傷したエミリオが、不自由そうに身を起こしてニカッと笑った。
「わかってますって、マルコさん。俺がいないと不安なのはわかりますけど、あんまり怖そうな顔して行かないでくださいよ。帰ってきたら、とっておきのジョークを用意しときますから」
「……ふん。期待せずに待ってるよ、兄弟」
マルコはぶっきらぼうにそう言い残し、ハッチを閉めた。それが、温かな「生身の体」を持つエミリオと交わした、最後の一瞥になるとも知らずに。
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◇ 作戦名:空っぽの揺りかご
戦況は最悪だった。NT国家の猛攻を受け、マルコの部隊は数万人の市民が避難する巨大地下シェルター「ノア」の防衛任務に就いていた。
「守り抜け! ここを抜かれれば、俺たちが守ってきた『現実』が潰えるぞ!」
マルコはひたすらトリガーを引き続けた。機械の身体を焼くような熱量も、オイルの焼ける臭いも、すべては扉の向こうにいる「質量ある命」を守るための代償だった。だが。
戦闘の最中、空が異常な黄金色に輝いた。NT国家、あるいは管理プログラム『ミューズ』による 「全市民の強制アップロード」 の発動。
「……何だ? 何が起きてる!」
背後のシェルターから、悲鳴すら聞こえない「静寂」が漏れ出してきた。マルコは胸を突く嫌な予感に突き動かされ、防衛ラインを捨ててシェルターの巨大な扉を強引にこじ開けた。
「おい、無事か! 今助け――」
言葉が凍りついた。
そこには、数万着の「衣服」だけが、持ち主の形を保ったまま床に散らばっていた。
パジャマ、スーツ、幼い子供の小さな靴。
つい数秒前までそこにあったはずの、汗の匂いや鼓動、重たい肉体という質量はすべて、淡い光を放つデジタルデータのスープ(ヒム)へと溶け、換気口を通って空へと昇っていく。
「……あ、あ、ああ……」
マルコは震える手で、近くに落ちていた小さな帽子を拾い上げた。
中身はない。温もりだけが、残酷に指先に残っていた。
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◇ ログに変わった弟分
「エミリオ!!」
マルコは狂ったように走り、地下アジトへ戻った。
脳内で「無駄だ」と冷徹に告げているのを、回路が焼き切れるほどの怒りで黙らせた。
アジトの扉を蹴破る。
「エミリオ! 返事をしろ、エミリオ!」
彼が守ろうとした「命」は、ただの「接続ログ」へと変換され、空の一部に統合されてしまったのだ。だが、そこには温かい熱も、軽口を叩く声もなかった。
さっきまでエミリオが寝ていたはずのベッドの上には、彼の軍服が虚しく横たわっているだけ。
マルコは震える手で、枕元に落ちていた一枚の紙切れを拾い上げた。
エミリオの不格好な字で、こう書き遺されていた。
『 おさるのジョークだ。ドーナツの穴を見るか、それともドーナツをただ食べるのか。……おさるはね、』
「……おさるは、どうしたんだよ。穴を見るのか、食うのか……どっちなんだよ、エミリオ!!」
マルコはメモを握りしめ、咆哮した。
このジョークにどんな「オチ」が続くはずだったのか。
答えを知る者は、もうこの地上のどこにもいない。
「誰もいない……。俺が守ろうとした『現実』は、ただのゴミ捨て場になっちまったのか」
主を失った衣服の山の中で、マルコは慟哭した。機械の瞳からは、涙の代わりにオイルが溢れ出し、冷たくなった弟分の軍服を汚した。
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◇ 砂に埋もれた亡霊、そして「処刑人」へ
それから、気の遠くなるような年月が流れた。
人類が肉体を捨て去り、精神の楽園へと昇華した後。
マルコは一人、地上に置き去りにされた。彼はサイボーグ化が進みすぎていた。純粋な魂のデータとして「ヒム」に統合される資格すら、システムから拒絶されたのだ。
錆びついた給電塔が立ち並ぶ、死の砂漠。
マルコは、かつての仲間の残骸と同じように、砂の中に埋もれていた。動力はとっくに尽き、意識は深い眠りの中にあったが、その右拳だけは、ボロボロになったエミリオの軍服の切れ端を、数百年もの間、握りしめ続けていた。
「――残念なエラーですね。まだ、こんなゴミに固執しているのですか」
その声が、静寂を破った。
空から降り立ったのは、汚れひとつない純白のドレスを纏った管理プログラム、 P1(ミューズ) 。
彼女は、人類を一つに溶かすことに成功したが、その完璧な論理に従わなかった「ゴミ(マルコ)」を見下ろした。
「あなたはデリートするには惜しいほど、強固な『執着』というバグを持っている。……マルコ。あなたは現実を愛し、物理法則を守ろうとした。ならば、その憎しみを使って、私の『箱庭』の番人を務めなさい」
ミューズの指先がマルコの頭に触れた瞬間、冷徹な再構築が始まった。
彼の記憶、絶望、そしてエミリオを失った慟哭。それらすべてを「出力」へと変換し、世界の当たり判定を強制的に書き換える権限が付与される。
「不都合な現実の処刑人」
砂の中から、一人の男が立ち上がった。
その瞳に宿るのは、知性ではない。自分を置き去りにして「光」になった世界に対する、底知れぬ復讐心。
「……いいだろう。全部、撃ち抜いてやる」
彼は、砂に埋もれていたボロボロの軍服の切れ端を、自分の首に固く巻きつけた。
もう「マルコ」という名は、砂に消えた。
あとに残されたのは、実体のないデータ共に、弾丸で「質量」を分からせてやるための、孤独な処刑人だけだった。
【第33話:状況まとめ】
シャルフリヒター(旧マルコ):
「要するに、俺は神に救われたんじゃない。この『空っぽの揺りかご』を永遠に忘れないために、処刑人という名の地獄に居座ることにしたんだ。エドヴァルト……お前が流す血の赤さだけが、あの日失った『生身の現実』を俺に思い出させてくれる。……さあ、お前の命がただのログではないことを、その体に刻んでやろう、兄弟」




