11話 笑子さんへの遺産
笑子さんへの遺産
礼子のことを思い出そうと、とにかく、記憶をさかのぼってみた。どうも、思い出せない。しかし、一番最初に社長に会ったとき、彼女は「始めまして。」とは言わなかったことを、笑子は思い出していた。
それでもいつしか、笑子は寝ていたのだろう。朝、目が覚めたのだから、それまで寝ていたことになる。慌てて、寝ている礼子の方を見ると、顔の赤みが取れていた。
「どうだい?」
医者が顔を出した。
「先生、顔が。」
「ほんと、赤くないね。どれ?」
ひたいに手を置くと、それで起きたのか、礼子が目を開けた。
「あれぇ……。」
「おはようございます、社長。」
「えみこさん、ついていてくれたの?」
「ええ、まぁ。」
「ありがとう。」
「熱は下がってますな。今日一日、無理をしなければ、明日から仕事に復帰できますよ。」
「ありがとうございます。」
礼子はベットの上に起き上がって、ペコンと頭を下げた。
「お役に立てて、幸いですよ。じゃ。」
医者は部屋から出て行った。
「社長、息子さんの連絡先は?」
「どうして?」
「どうしてじゃありませんよ、倒れてから、どこに連絡したらいいのかわからなくて、困ったんですよ。」
「ああ、家に帰らないとないわ。全部、家に置きっぱなしだし。」
「まったく。社長、近藤さん、やめるんですか?」
笑子は同僚の名前を出した。
「ええ。彼女は、主人の親戚なの。だから、私とも一応親戚。でも、今度、親の介護に専念したいって言うから。」
「うちの息子と、メル友なんですか?」
「そう。最初にあなたが辞表を出した時に、知り合って。直接会ったのは、あの時だけだけど。ちょこちょこメールのやりとりしてた。」
「で、私とはいつ、知り合ったんですか?」
「やっぱり、記憶にない?」
「ありません。でも、最初に会ったときに、初めましてっていいませんでしたね。」
礼子はちょっと笑った。
「ふふ。……あれは、高校生のころかなぁ。私は荒れていてねぇ。外見も今とは比べ物にならないほど、派手でねぇ。家族はみんな忙しくって、誰も構ってくれなかったせいかしら。寂しくてねぇ。当時は、職員室にも呼び出されてばかりだった。ある日。校長室の鍵が盗まれたの。」
「鍵?」
「そう。その鍵は職寝室にあったから、疑われてねぇ。取ってないって言っても、信じてもらえず、ひっぱたかれたの。そのときに、あなたが来た。」
「お前が取ったんだろう!」
その男性教諭は机をドンと叩いた。
「知るかよ!」
「どこにやったんだ!」
「あたしじゃねぇってば!」
「嘘をつくな!」
バシッ
頬を叩いたその音は、職員室の隅まで聞こえていた。
「待ってください。」
その子は、半分濡れたような状態で、スカートから水を滴り落としながら、そこに立っていた。
「なんだ。」
「これ。」
彼女の手の中にあったのは、鍵だった。キーホルダーで、間違いなく校長室のものだと一目でわかった。
「それは……どこにあった?」
「校門の噴水の中です。男子生徒が投げていました。」
「そうか。」
男性教諭は手を差し出したが、彼女は鍵を手の中にしまいこんだ。
「謝ってください。」
「え?」
「彼女に。彼女は、なにもしていません。」
「だが、こいつがその男子と組んでいなかったとはいえないだろう!」
「言えます。名前は上げませんが、彼は真面目な子です。」
「ふん!こいつに取ってくるように脅されたんだろう!」
「違います。知らないんですか?」
「なにをだ?」
「彼を脅しているのは、校長のご子息ですよ。彼女じゃありません。」
職員室は沈黙に包まれた。
「……。ほんとか?」
「本当だ。」
どこからか声がした。振り返ると。
「校長!」
「校長室の金庫が開けられていた。あれは、私が自分でセットした番号で、知っているのは副校長と息子だけだ。あいつの誕生日だからな。」
校長は寂しそうにいった。
「疑って、申し訳なかった。」
校長は礼子に頭を下げた。笑子は校長に鍵を渡して、職員室を出て行った。
「結局、叩いた先生は謝ってくれなかった。私の親は怒って、私を転校させた。校長は学校を辞めて、息子も転校して行ったと後から聞いた。金庫の中身はテスト用紙だったの。あなたにお礼を言わなきゃいけないと思いながら、結局声をかけられずに、月日が流れた。」
笑子はなんとなく思い出していた。赤い髪をしていた少女を。
「どこの大学に入ったのかも、知っていた。そのまま、この会社に就職して、結婚して、会社を辞めた。子どもができて、幸せに暮らしているのだと思っていた。だから、あなたがこの会社に来た時はびっくりしたわ。それで、知ったの。だんなさんが亡くなったことを。」
「よくそんな昔のことを覚えていましたねぇ。」
ちょっとあきれたように笑子は言った。
「おおげさかもしれんしけど、世界の全部が敵に見えたあの頃、誰も信じてくれなかった。これもあとから聞いた話だけど、みんな誰が取ったのか、知っていたみたい。」
「そうですね。結構、目立つ話でしたしね。おそらく、先生方も一部は知っていたのでしょう。」
「でも、誰も助けに来てくれなかった。あなた以外は。それも、制服までぬらしながら。」
「あのあと、風邪を引きましたよ。しばらく寝込むはめになりました。完全に治ってから学校に行って見ると、もう校長とその息子はいませんでした。」
「私もよ。翌日には学校を辞めていたから。転校して、不良はやめて、大学にも行った。先代の社長と知り合って、結婚して、子供も生まれた。あの人はもういないけど、会社はうまくいって、大きくなった。この幸せは、あなたが与えてくれたものでもあるの。そして、私はこの会社をあなたに譲ることにした。」
「は?」
「私が死んだら、あなたが社長よ。ずっと秘書をしてきているから、仕事内容はわかっているでしょう?あれだけやめるのを阻止したしね。」
「たしかに、仕事内容はわかってはいますが。」
「よろしくね。」
礼子はにっこりと笑った。しかし。
「いりません。」
「笑子さん……。」
「聞きましたよ?副社長から。あさっての会合の相手、どうしてうちと提供を組んでくれたのか。水泳で勝負したそうですね?そして、それに勝った。」
「あ、あら、だって、泳ぐのが得意だって言うから。若い者にも負けないって言うし。」
「あちらの社長と、玲子さんでは十歳も離れているんですよ!心臓麻痺でも起こしたらどうするんですか!」
「でも、死ななかったわよ。」
「そういう問題ではありません。そのせいで、風邪まで引いて!とにかく、そんな方法で契約を取り付けている社長の後は継げません。」
「えー。」
「えーじゃありません。元気が出てきているなら、さっさと寝てください。明日から、バリバリ仕事してもらいます。」
「あなた、やめない?」
「目を離しても大丈夫になったら、やめます。」
笑子は穏やかに微笑んだ。礼子も、それを聞いて安心したようにベットに横になった。




