1 「明日も仕事なんです」
「お疲れ様でしたー……」
まだ明るい室内に声をかける。それに答える声はない。それだけみんな精一杯。暗い顔でパソコンに向かい、ペンを持って一生懸命書き込む。そうして作ったデザインも、ほとんど通らない。
夢見た職業。その現実に押しつぶされそうだった。
繁華街のネオンだけが輝く道を、ただ歩く。精一杯力を入れていないと、今すぐにでも膝から崩れ落ちてしまいそうな疲労感。それでも、頭の中では、今日のデザインのことを考えていた。
帰ったら、昨日考えたデザインを修正する。上司にアドバイスされたところを直して、できれば新しいデザイン案を複数考えておきたい。
ご飯なんか食べている暇はないし、寝る時間も惜しい。コンビニで買った半額シールのおにぎりと、少しだけ身体のことを考えた栄養ドリンク。
一歩、一歩、止まりそうになりながら、足を動かす。
そんな彼女の耳に、ドサッと何かが落ちる音が聞こえた。それは、薄暗い路地から聞こえてきた音だった。
荷物でも落ちたのだろうか。野良猫や野生動物のいたずらだろうか。気にしないように通り過ぎようとしたところで
「……う……っ」
小さな声が聞こえた。それは、確かに男性の声だった。
気にしてはいけない。そんな暇なんてない。
しかし、もし明日のニュースでこの辺りのことが放送されていたら。事故死、なんて見た日には、きっと罪悪感で何もできなくなる。
少しだけ。野生動物の物音だとわかれば、何もなかった、で終わるだけ。ほんの数秒ではないか。
路地に踏み入れる。街灯も当たらないような暗さの中、頼りになるのはスマホの明かりだけだった。
舗装もされてないような、踏みしめる度にジャリジャリいう土を踏みながら、奥へ奥へと進んでいく。
「……っ」
その時、地面に倒れた男を見つけた。
「大丈夫ですか!」
思わず駆け寄る。頭から血を流した男性。でも、苦しそうに顔を歪めている。まだ生きている。
「救急車……っ」
持っていたスマホで救急車を呼ぼうとした瞬間
「お嬢さん」
それは、上から降ってきた声だった。
「ダメだよ。関わっちゃ」
すぐ隣のビルの上。倒れている男性が落ちてきた、と思えそうな場所。そこに、人影があった。
「だめ、って……」
人が死ぬかもしれないのに。降ってきた言葉を理解できず、でも倒れている男性を無視もできず、スマホを握りしめて立ち尽くす。
ザッ、と音がした。はっと振り返ると、大通りに続く道を男たちに遮られていた。
「運の悪いお嬢さんだね」
その声がすぐそばで聞こえた。いつの間にかビルから降りてきていた。
「残念だけど」
これはやばい。そう感じたのは、本能的なものだったのだろうか。
「ごめんなさい!」
慌てて頭を下げた。
「あの、見なかったことにするので。警察にも言わないし、全部忘れるので!」
忘れられるだろうか。いや、忘れないといけない。これはきっと、見てはいけないものだったのだ。
「明日も仕事なんです。帰らなきゃ」
「……明日も?」
暗闇の中、野生動物の瞳孔が見えた。冷たく輝くその目が、わずかに細められる。
「明日が来ない、なんてことは考えないの?」
低くもなく、かといってハスキーでもなく、落ち着いた声音。でも、どこか楽しそうな弾むような声が耳に流れ込む。
「え?」
よくわからなかった。明日は普通に来るし、そういうものではないのか。
「ハハッ」
男の声が少し高くなった。
「本当に考えてないみたいだ」
その意外そうな声に、あ、と思った。もしかして、今から殺されるのではないか、と。明日が来ないって、そういうことなのではないか。
「このまま誘拐したら困る?」
「困り、ます」
それはそう。誘拐されて困らないタイミングなんてないし、殺されるかもしれない事実を前に大人しくついていけるはずもない。
「じゃあ困ってもらおうか」
そう言って、男が手を伸ばす。反射的に目を閉じると、男が取ったのは彼女の手だった。強引に引っ張るわけでもなく、優しく誘導されるように引かれる。状況が全く理解できないのに、身体は動いてしまう。気づくと路地の外に車が止められていた。
「どうぞ」
乗れ、ということか。命令されたわけでも、脅されたわけでもないのに、乗るしかない。この男だけなら振り切って逃げることはできるかもしれないが、周りには男たちが大勢いる。数人だが女性もいる。
これでは逃げることもできない。大人しく車に乗り込むと、それは内装からもわかるくらいの高級車だった。
男は隣に座り、何も言わずに車が動き出す。運転手が別にいるらしい。
「明日は何するの?」
車内で彼が聞いてきた。まるで世間話のように。
「仕事です」
「どんな仕事?」
「……デザイナー」
そう答えて、つい胸が痛んだ。何がデザイナーだ。デザイナーらしいことなんて何ひとつしていないし、一生懸命考えたデザインもボツばかりではないか。
「行かないと困る?」
「困ります」
「どうして?」
どうして、か。自分が明日会社にいかなかったら、誰が困るのだろう。
「引き継ぎとか、しないと」
出てきた答えが、情けない。先輩のアシスタントのようなことばかりしていて、自分がいなくても同期や後輩がいる。彼らに引き継ぐことしか、思い浮かばなかった。
「おもしろいね」
彼はそう告げた。
「君は、明日が必ず来ると信じているみたいだ」
まるで、明日が来ることを信じていないように、男は言った。答えに困って黙り込むと、男はそれ以上何も言わなかった。
2話は3日夜に更新予定です。




