第43話 陽輪
夕暮れは、
気付けば完全な夜へ変わっていた。
《月翼獅子/ルナ・グリフォン》との戦闘を終えたヒナ達は、
保護した女性――セリニスを連れ、
ティーナ村へ戻っていた。
森は静かだった。
虫の声。
冷たい夜風。
白い月明かりが、
木々の隙間から静かに落ちている。
まだ満ち切っていない月。
だが。
妙に近い。
そんな気がした。
「ぅ……」
不意に、
コトハの身体が揺れた。
長時間の浮遊魔法維持。
魔力切れ寸前だった。
「あっ……!」
魔法が途切れる。
空中で傾いたセリニスを、
ヒナが反射的に抱き留めた。
「っと……危な」
その瞬間だった。
ぞわり。
ヒナの背筋を、
言葉に出来ない違和感が走る。
「……?」
静か過ぎる。
腕の中の少女は、
確かに生きている。
だが。
呼吸音が妙に薄かった。
鼓動も。
熱も。
曖昧。
そこにいるのに、
“生き物の音”だけが存在しない。
さらに。
微かに混ざる、
知らない匂い。
温泉でもない。
薬草でもない。
森でもない。
空白みたいな匂い。
本能が、
嫌悪する。
ヒナは僅かに眉を寄せた。
「……コトハ」
「ご、ごめんお姉ちゃん……
ちょっと魔力が……」
息を切らし、
汗だくになっているコトハ。
対して、
腕の中のセリニスだけが異様に静かだった。
ヒナは少し考え込み、
ロイドを見る。
「あたし見てるから、
父さん達呼んできてくれる?」
ロイドはセリニスを見下ろす。
やはり妙な違和感が残っていた。
だが、
明確な敵意は感じない。
「……分かった」
「すぐ戻る」
コトハは小さく頷き、
ロイドと共に村へ向かって走り出した。
二人の足音が遠ざかる。
再び静寂。
虫の声だけが、
夜へ溶けていた。
ヒナは、
介抱しているセリニスを見下ろす。
“やっぱり変なんだよね、この子……”
左耳へ触れる。
いつものピアス。
無意識の癖。
その瞬間。
――キィン……
音が鳴る。
低い。
長い。
胸へ残るような、
鈍い音色。
ヒナの指が止まった。
いつもの音じゃない。
澄んでいない。
まるで。
警告みたいだった。
「……何、これ」
小さく呟いた、
その時だった。
「……お姉ちゃん」
コトハの声。
ヒナが反射的に振り向く。
息が止まった。
そこにいたのは――
コトハだった。
「……え」
ヒナの腕の中にいたはずのセリニスは、
いつの間にか、
完全にコトハの姿へ変わっていた。
変化した瞬間すら、
認識出来なかった。
冷たい汗が頬を伝う。
“何も感じ取れなかった”
ヒナの感覚は、
今まで一度も外れた事が無い。
殺気。
呼吸。
視線。
空気。
全てを読んできた。
なのに。
目の前の存在だけは、
“そこにいるのに分からない”。
本能が、
初めて警鐘を鳴らしていた。
ヒナは咄嗟に距離を取る。
だが。
もう一人のコトハは、
本物そっくりの笑顔で首を傾げた。
「急に離したら痛いよ……
お姉ちゃん?」
声も。
仕草も。
表情も。
完璧だった。
だが。
月明かりへ伸びる影だけが、
僅かに歪んでいる。
「んふふ」
少女が笑う。
だがその声は、
僅かに重なっていた。
女の声。
子供の声。
知らない誰かの声。
「この子……
良いマナだねぇ」
「擬態するのも簡単だぁ……」
ヒナの喉が、
小さく鳴る。
怖い。
違う。
気持ち悪い。
“存在の仕方が違う”。
そんな嫌悪感だった。
もう一人のコトハは、
月明かりに照らされたティーナ村を見渡した。
「ティーナ村ねぇ……」
「見つからないわけだぁ……」
視線が、
村全体を舐めるように動く。
「神獣の加護。
太陽側の結界。
月蝕残滓まで混ざってる」
「そりゃあ、
あのお方でも場所を掴み切れないわけだ」
ヒナの瞳が僅かに揺れる。
何を言っているのか、
分からない。
だが。
この存在が、
この村を知り過ぎている事だけは分かった。
「いい匂いするよねぇ、この村」
「温泉と薬草と……
月光花かな?」
ヒナの身体が僅かに強張る。
それは、
村の人間しか知らない空気だった。
“いつから見ていた?”
理解不能の不気味さが、
静かに広がっていく。
「そのピアス触るの、
癖なんだ?」
不意の一言。
ヒナの指が止まる。
見られていた。
その事実が、
異様に気持ち悪かった。
その時。
森の奥から、
足音が戻ってくる。
「ヒナ!」
ロイドだった。
その後ろには、
息を切らし、
汗だくになったコトハ。
さらに、
ゲンとミツキの姿。
そして全員が、
二人のコトハを見て止まった。
「わ、わたしがいる……?
何で……?」
コトハの顔が青ざめる。
もう一人のコトハだけが、
静かに笑っていた。
ロイドの腰元で、
《スヴェード・クシフォス》が微かに震える。
だが、
抜けない。
まるで。
“斬るな”
そう警告しているみたいだった。
ロイドは理解する。
敵意が薄い方が危険だ。
戦場経験が、
そう告げていた。
ミツキが静かに呟く。
「……私の中のざわつきは、
これだったのね」
ゲンも低く言う。
「神獣様の加護が騒いでいた」
「何かあるとは思っていたが……」
神獣。
加護。
理解出来ない単語ばかり。
ヒナだけが、
何も知らない。
家族も。
ロイドも。
目の前の存在ですら。
自分だけが、
何も分かっていなかった。
ロイドが低く問う。
「……どうやってこの村を見つけた」
もう一人のコトハは楽しそうに笑う。
「何回迷ったと思う?」
「何回、
“月の匂い”を見失ったと思う?」
その声には、
怒りも殺気も無い。
ただ、
気味が悪いほど穏やかだった。
不意に。
もう一人のコトハの視線が、
ヒナの左耳へ向く。
その瞬間だけ。
虫の声が止まった。
空気が変わる。
「……あぁ」
「それが陽輪か」
その瞬間だけ、
声色が低くなる。
ヒナは無意識に左耳へ触れる。
――キィィン……
今度の音は、
さらに低かった。
長く。
不快なほど、
胸の奥へ残る。
ヒナの表情が僅かに歪む。
怖い。
“陽輪”
先程聞いたその言葉が、
頭から離れなかった。
月明かりの下。
もう一人のコトハだけが、
静かに笑っていた。
――続く。




