第4話 極東からの眼差し
1919年7月
セーヌ川を撫でる夏の風は生温かく、パリの街は未だ終わらない祝祭の熱気に包まれていた。六月二十八日のヴェルサイユ条約調印を経て、第一次世界大戦の「勝者」たちは、手に入れた新たな世界地図を囲んで毎夜のようにシャンパンの栓を抜いている。
しかし、ヴァンドーム広場に面した最高級ホテル・ル・ムーリスの一室には、その喧騒から完全に切り離された、冷たく重い沈黙が満ちていた。
「……結局のところ、彼らが創り上げた国際連盟とは、白人資本主義国が世界を分割支配し続けるための、都合の良いサロンに過ぎなかったということです」
静かに、しかし押し殺したような怒りを滲ませて語ったのは、「招かれざる客」としてこの部屋を訪れた日本人だった。
日本全権代表団の随員、勝良正男。三十代半ばの若き外交官は、仕立ての良いサヴィル・ロウのスーツに身を包んでいるが、その黒い瞳の奥には、西欧文明に対する深い幻滅が渦巻いていた。
彼と対峙して革張りのソファに深く腰掛けているのは、中欧の若き外交官、カール・フォン・エーデルシュタインである。カールの目の前のローテーブルには、ホテルが用意した英国製の紅茶ではなく、勝良がカバンに忍ばせて持ち込んだ日本茶が、磁器のカップに注がれて置かれていた。立ち上る淡い緑色の湯気は、西欧の香り高い茶葉とは異なり、どこか青臭く、泥臭い大地そのものの匂いがした。
「人種差別撤廃提案は、一顧だにされませんでした」
勝良は、自分のカップを見つめながら自嘲気味に口元を歪めた。
「我々日本は、明治の開国以来、西欧の『自由』や『民主主義』といった普遍的な価値を信じ、必死に近代化を推し進めてきました。今次大戦でも協商国側として多大な血を流し、ようやく『五大国』の一つとしてこのパリに迎えられた。我々は、文明の列に真の意味で加わろうとしたのです」
勝良の声が、わずかに震えた。
「国際連盟規約の前文に、ほんの一言、『各国の平等及びその国民に対する公正待遇の原則を是認し』という文言を入れる。ただそれだけのことでした。委員会では、出席者十六名中十一名の賛成を得た。過半数です。しかし、議長を務めた米国のウィルソン大統領は、自分たちが不利になると見るや『このような重要事項の決定には全会一致を要する』という前代未聞の強弁を振るい、我々の提案を握り潰した」
カールは深く、ゆっくりと頷いた。
ウィルソンが掲げた『民族自決』という美しいスローガンが、いかに欺瞞に満ちたものであるか。それは敗戦国として帝国の解体を宣告されたカール自身が、この数ヶ月間、骨の髄まで味わわされてきた事実だった。
「勝良殿。あなたの怒りは痛いほど理解できる。彼らにとっての『世界』とは、自分たちの肌の色と、自分たちの資本が及ぶ範囲のことだけだ。それ以外は、搾取の対象か、あるいは手駒でしかない」
カールの言葉に、勝良は鋭い視線を上げた。
「我々中欧も同じです」
カールは言葉を継いだ。
「我々が命懸けでウィーンで宣言し、成立させた『ダニューブ連邦(中欧連合)』の暫定承認。あれも、英仏が我々の理念を認めたから得られたものではありません。彼らにとっては、東で猛威を振るい始めたソビエト・ロシアのボリシェヴィキに対する『防波堤』が必要だった。それだけの理由です。用済みになれば、今度は西側の巨大な金融資本が、我々の土地と工場を二束三文で買い叩きにくるでしょう」
カールは立ち上がり、マホガニーの執務机に広げられた巨大な世界地図の前に立った。
「勝良殿、今日あなたを秘密裏にここへ招いたのは、他でもない。我々中欧と日本は、ユーラシア大陸の西と東という地理的な隔たりこそあれ、現在の地政学的・社会的な立ち位置において、奇妙なほどに共通点を持っているからです」
「共通点、ですか」
勝良が怪訝な顔をして立ち上がり、カールの横に並んだ。
「ええ。まず、西欧列強の圧力に対抗するため、上からの急激な近代化と工業化を成し遂げたこと。しかし、その急速な資本主義化の歪みとして、国内に深刻な貧富の差を抱え込んでいること。日本でも昨年、米の価格高騰による大規模な暴動(米騒動)が起き、社会不安が火を噴いていると聞いています」
勝良は痛いところを突かれたように、短く息を吐いた。
「そして何より重要なのは」カールは地図を指で叩いた。「内側には、古い共同体の魂がまだ生き残って
いるということです。しかし今、我々は外側から迫る西側の『巨大な資本』に飲み込まれて属国になるか、あるいは東側の『過激な革命』に飲み込まれて全体主義のディストピアに堕ちるか、その究極の二者択一を迫られている」
「……『緑の陣営』、でしたな」
勝良は、机の端に置かれていたダニューブ連邦憲章の写しに目を向けた。カールがウィーンの修道院で掲げた、第三の道。
「そうです」
カールは身を乗り出した。ここが勝負だった。
「日本には古来より『和』の精神があり、農村には『講』や『結』と呼ばれる強力な相互扶助の仕組みがあると聞きました。それは、我々の経済学者エミール・レーマンが理論化した『協同組合経済』と、驚くほど親和性が高いはずだ」
勝良は目を細めた。「資本家が利益を独占するのではなく、労働者や農民自身が生産手段を共同所有し、民主的に運営する……。確かに、我が国でも贺川豊彦という社会運動家が、キリスト教の友愛精神と日本の相互扶助を融合させた新しい組合運動を始めようとしています。しかし……」
勝良は地図の上の日本列島を指でなぞった。
「日本は現在、日英同盟の枠組みの中にあり、不完全とはいえ資本主義の恩恵を受けているのも事実です。我々の指導層は、なんとかして英米の作った国際秩序の中で生き残ろうとしている。カピタリズム(資本主義)でも、ボリシェヴィズム(社会主義)でもない道。
……カールの旦那、あんたの言う『協同組合』と『完全防衛』というシステムは、列強の牙から一国の生存を守り抜き、現代の経済を回すに足りる代物なのかい?」
勝良の問いは、外交官としての冷徹な値踏みだった。理想は結構だが、現実の国益を預かる者として、空想のユートピアに国を乗せるわけにはいかない。
カールは不敵に微笑んだ。
「それを、これから我々が中欧という実験場で証明してみせるつもりです。ただ、我々だけでは足りない。西の資本主義と、東の共産主義。世界がその二色に塗り潰されようとしている今、我々はその間に『第三の楔』を打ち込みたい」
カールは地図上のウィーンから、遥か東の日本へ、そして南のインド、さらに海を越えた南米へと大きく視線を走らせた。
「欧州の緩衝地帯である我々から始まり、いずれ西洋の搾取から目覚めるであろうインド、東南アジア、アフリカ、南米。そして、高度な技術と工業力を持つ日本。これらが連帯し、独自の互恵的な経済ネットワークを構築すれば、世界を三つに分ける巨大な極になり得る。日本は、その東アジアにおける最強の盾となり、盟主になり得る国だ」
勝良は再び深い沈黙に落ちた。
彼の脳裏には、パリ講和会議の議場で白人代表たちから浴びせられた冷ややかな視線と、日本国内で貧困に喘ぐ労働者たちの姿が交錯していた。欧米に追従し、彼らのルールで二流の帝国主義国として振る舞い続けることが、本当に日本の生きる道なのか。それとも、全く新しい社会システムを採用し、名実ともに世界を導く新しい極となるべきなのか。
冷めた日本茶を一息に飲み干すと、勝良は顔を上げた。その目からは、先ほどまでの迷いと絶望が消え去り、代わりに冷たい炎のような決意が宿っていた。
「……面白い。政府の中枢や軍部を説得するのは至難の業でしょう。しかし、今の日本国内には『大正デモクラシー』と呼ばれる、新しい自由と平等を求める熱気があります。民衆の力と、贺川豊彦らのような知識人を結びつければ、あるいは……国を根底から作り変えることができるかもしれない」
勝良は懐から万年筆を取り出した。
「まずは、技術と文化の非公式な交流から始めましょう。極東と中欧。我々が結びつくことが、来るべき世界の形を変える最初の楔になる」
「感謝します、勝良殿」
カールも自らの万年筆を手に取り、一枚の白紙の覚書を引き寄せた。
パリの片隅、ホテル・ル・ムーリスの一室で密かに交わされたこの数枚の覚え書きは、のちに「日・ダニューブ技術・文化交換協定」と呼ばれる歴史的文書の原型となった。
外では、戦勝国たちが古い帝国の残骸を切り分ける祝賀のパレードが続いていた。彼らは気づいていない。この小さな部屋の中で、資本主義でも共産主義でもない「第三の陣営」という巨大な緑のうねりが、欧州とアジアを跨いで静かに産声を上げたことに。
日本は、西欧への迎合という幻想を捨て、中欧という壮大な実験場を通じて、人類文明の「次の形」を真剣に模索し始めたのである。




