81.変幻自在の―― その七
しかし、アジューカスは攻撃せず距離を取った。
逃げたわけじゃない。その手には剣と盾が握られており、いつでも斬りかかれるよう姿勢を低くしている。
勝てないと悟りながら、クランオーナーとして敗走できないと考えたのだ。
「いつでも掛かって来ていいのですよ?」
「……『毒蜘蛛』に後手を許すわけないだろう」
「随分と、懐かしい異名で私を呼ぶのですね。もしかして知り合いだったり?」
「いいや。だが知っている」
グレイは顎を引く。警戒の必要がある相手だと再認識したからだ。
ロスト・ヘブンはある意味で有名なゲームだが、実際にプレイしたことのある者は少ない。二割か三割程度だろう。
つまり、小さな界隈なのだ。
彼はそこで『毒蜘蛛』の異名を得たが、これを自ら喧伝することは無い。異名とは自然に広がるものであり、また、彼の戦闘スタイルは所謂分からん殺しだからだ。
グレイは相手を罠に掛けて殺す。グレイという男の嘘を信じ込ませ、判断を鈍らせる。
後手に回れば回るほど、毒のように彼の嘘が真実のように錯覚されていくのだ。
斃すには文字通りの先手必勝を決めるか、後手に回る隙を与えず削りきるかの二択しかない。
「知っている……なるほど? つまりロスト・ヘブンに触れたことがあるのですね」
「……触れただけだけだ。アレは俺に向いていない」
あの痛覚制限がイカレているゲームを一試合だけ遊んだことのあるアジューカスは、吐き捨てるようにそう言った。
アレは極まった奴しかまともに遊べない。
「では仕方ありません。私が先手を取りましょう」
グレイは足を踏み出した。
左手をポケットに入れ、右手にはダガーを握っている。ヒルの魔物は消えた死体の辺りで彷徨っているが、すぐにアジューカスに気付いた。
「ではまず……《スラッシュ》」
「《ガード》」
横薙ぎに繰り出されたダガーを防ぐ。しかし、その威力はアーツを使用したようには思えない。
疑問を覚えた次の瞬間、アジューカスの左手が痺れた。
「っ……(これは《インパクト》か!)」
《インパクト》は素手やハンマーなど、打撃系のスキルが無いと覚えることが無いアーツだ。その効果は単純で、どこぞの拳法のように相手の体内に衝撃を送り込む。
グレイはカスタムアーツで名称を変更し、ダガーで使用したのだろう。
武器種が違うため威力は下がっているものの、その効果は遺憾なく発揮されたようだ。
「おや……やはり頭がいいと罠に嵌めづらいですね」
そして、次の攻撃が放たれる前にバックステップで距離を取ったアジューカスは、空振りに終わったグレイの左手を見た。
ドス黒い糸が袖口から伸びており、その先端には返しの付いた小さな突起物がある。ペンデュラムのような武器だ。
よく見ればドス黒いのは糸に染みこんだ液体由来のものだと分かる。
十中八九毒物だろう。アジューカスはそう考えた。
「(恐らく暗器の類い。ますます油断できなくなった)」
「そうそう、足下にも気を付けた方がいいですよ。〈ストーンミサイル〉」
「っ、いつの間に」
「詠唱ならさっきの独り言ですが?」
おや……から始まった独り言は詠唱だったらしい。
普通ならこんな分かりにくい詠唱は使われないのだが、相手を騙すことだけ考えるのならよく出来ている。
魔法は詠唱は術式の土台。要するに、自分さえ分かっていればいいのだから。
「とはいえ……少し面白みに欠けますね」
ダガーを仕舞い、代わりに取り出したのは一冊の魔導書。人骨と宝石で装飾された革表紙は見るからに悍ましく、書かれている内容も碌なものではないと感じさせる。
実際これはまともな品では無い。
リアルではTRPGとして親しまれているクトゥルフ神話、それに触発され狂気に陥った者が作り上げた曰く付きの品。
本来ならこの宙に――この世界に存在しないモノを呼び出す禁忌の召喚魔法が記されているのだ。
無論、実際に召喚されるのは実物ではなくデータで構成された偽物なのだが……
「ふむ……まあ私のレベルでは妥当ですか。――蠢動し徘徊するものよ、地をのたうつ怪物よ、その枝を下賜したまえ。〈召喚〉」
グレイの詠唱によって虚空からナニカが産み落とされた。
てらてらと光を反射する粘液、臓物のようなピンク色の触手。先端から何本にも枝分かれしているソレの一つが、呼び出されたモノである。
ジュ、と地面が溶ける。どうやらあの粘液はとてつもなく強力な酸性らしく、触れただけで肌が焼け爛れると判るものだった。
当然ながら、アジューカスにそれをどうにかする術は無い。
レベル的には適性なのだが、酸に対する耐性を持っている異人は誰一人いないだろう。なにしろ、酸を使ってくる魔物と遭遇したことが無いのだから。
「《指令》、敵を斃しなさい」
グレイが指示をだすと、その触手状の怪物はミミズのように動き始めた。
アジューカスが側面に回れば先端をそちらに向けるので、少なくとも位置を認識する機能はあるのだろう。
「……燃えよ、燃えよ、〈ファイアーボール〉」
動きが遅いことを確認したアジューカスは、自分が使える魔法の中で一番威力の高いものを発動した。
〈ファイアーボール〉は圧縮された炎の塊だ。着弾と同時に破裂することで爆弾以上の殺傷力を持つ。
魔法に対する耐性――精神の値によっては軽傷、もしくは無傷で済むが、低ければ大火傷を負うし四肢も吹き飛ぶ。
この魔法を受けた異形の怪物は身をのたうち、収縮した体表を守るように粘液を分泌する。しかし、火傷した箇所から分泌される量は極端に少なく、剣を溶かされずにダメージを与えられるだろう。
「(よし、これなら)はあっ!」
アジューカスの剣はその体表から体内へ入り込み、甚大なダメージを与えた。
「ああ、残念。ここまで弱いとは……呼び出すモノを失敗しましたね」
「とても、残念がっているようには見えないが」
「一応残念がっていますよ? まあ、収穫はあったのでそこまでですが」
鳴き声もあげずに消えていく怪物。
グレイはその怪物から肉片を切り取ると、右手で握り潰し、手を開くと消えていた。まるで手品だ。
「《イミテイトシフト:7A》、《イミテイトシフト:2SE》」
次の瞬間、グレイの右腕から先程の怪物に似た細長い触手が生える。細かく枝分かれしているため、色と動きさえ無視すれば植物のように見える。
その触手の先端をブレイドウルフの尾剣に変化させ、彼は右腕を振るった。
「さ、どうします?」
その異形の武器を構えて、グレイは不敵に笑う。
今見せたように、彼は自分の体を変化させることが出来る。アーツ名から変化先を推測することも不可能で、もはやどれだけの手札があるのか分からない。
それでもアジューカスは逃げないし、僅かな可能性に賭けて抗うことを選んだ。
グレイが一歩踏み出す。アジューカスもまた、踏み出した。
「……《スパイラ――」
「っ、私としたことが――」
しかし、二人が武器を振るう直前、乱入した者がいる。
アジューカスはアーツを途中で止め、グレイは笑みを消して回避した。
「……外しましたか」
刃物付きの触手を容易く斬り飛ばし、彼女はグレイと相対する。
「……相変わらず、奇襲が得意なようですね、ロザリー」
「貴方に呼び捨てされたくありませんが、まあいいでしょう。斬り殺せばいいだけの話です」




