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その八十八
森本さんという方は守衛をやっていた病院で看護師をされていた当時四十前後の婦人である。この看護師さんはよく当直のシフトに入っていた。
朝の守衛の仕事に患者様の自転車の整理というものがあった。この病院は駐輪場のスペースが極端に狭く、たちまち鮨詰めの状態になってしまうのだ。
前日の夕方に当直のシフトに入るために自転車で病院に来ていた森本さんの自転車は翌朝の帰る頃になると二重にも三重にも列ができてしまっているその駐輪場のもっとも奥のほうに追いやられてしまっていた。
森本さんという婦人は、モモヨくんや、ややぽちゃロリ熟女さんよりは大きかったけれど、それでもぼちぼち小柄だった。だからぼくは森本さんが当直明けのときは事前に自転車を奥から引っ張りだしておいたのである。
その好意を森本さんはいつも喜んでくれていた。そしてある日の当直明けに、
「どれがいい?」
とレジ袋に数本入っていたお飲み物をみせてきた。
「一本あげる。どれでもいいわよ」
「じゃあ、これがいいです」
ぼくはいま飲んでいるこの「マドレーヌ・ウォーター」を希望した。
「あっ、これはわたしがね、口つけちゃってるの。飲みかけなのよ」
「だから、これが欲しいんです」
一瞬キョトンとした森本さんはそのあとキャキャッと笑った。そして、
「環さんて、おもしろいですね」
というと、そのマドレーヌ・ウォーターを手渡してくれた。その場で目をまるくしてがぶ飲みすると、また森本さんはキャキャッと笑ってくれた。ぼくはそのあと守衛室にもどり、森本さんが、
「環さん」
とぼくを呼んでくれたことの余韻にしばらく浸った。森本さんはそれまでぼくを「守衛さん」と呼んでいたのである。
「おれの名前、知ってくれてたんだな」
とぼくは思った。
ぼくはそれまでまったく縁のなかった人と仕事という場ではあるが面識を持ち、やがて職務外のちょっとした交流のなかで名前を知ったり名前を知られたりし、いい人と思われたり、おもしろいと思われたり、スケベ大人物だとか大スケベ人間だとかと思われたりしていくことに、ある種の感動と歓びと不思議さを感じていた。
ぼくは病院に行くのが楽しくなる。森本さんに会えるからである。例によってまたぞろ森本さんを好きになったのである。わたくし環三千世は、けっこうすぐ異性を好きになってしまうのである。ピーク時には年間百人くらい好きになったこともあるのだ。
とはいえ森本さんは人妻だった。中二と小五と小二の子どもさんがいた。忙しいママだったのである。
だからぼくは、きっと先のような感動も歓びも忘れるよう懸命に務めたのだ。
当時はそうしなければ、生き残っていけなかったのである。まだ若かったのである。当時から軽くおじさんキャラみたいな感じだったけれど、おじさん的なものをテコにして、こじ開けていく感じだったけれど、それでもまだまだ若かったのだ。
しかしあれからもう十年が経つのである。十年まえに守衛をやったのは、きっと隠者としての環境に何かしらの不備が生じていたからだろう。だが、そのあと流れが変わった。悪運が残っていたのだ。
そして、さまざまな偶然と幸運と運命により、ぼくはこの十年を隠者としてどうにか完走することができたのである。
そうなのだ、キャオなのだ――こんにちのわたくし環三千世は、人妻だろうとなんだろうと、それはそれとして、先のような心の震えを謙虚にありがたく貴重なこととして享受することができるはずなのだ。
美意党の連中が労働を押し付けてくるのであれば、先手を打ってしまえばいいのである。
おれはあのとき、夢のような仕事を隠者力をもって呼び寄せたのだ。なるほどたしかに雑用とかもちょびちょびやらされてはいた。仕事中は図書館とかにも自由に行けなかった。それでも当時だって思えばなかなか立派な隠者だったのだ。メンタリティーも行動基準もその都度その都度の腹の括り方もあからさまな隠者だったのだ。筋金入りの隠者だったのだ。本物の隠者だったのだ。真の隠者だったのだ。
「声高にいうことじゃないけどな……」
時刻を確認すると、バスが来る時間はもうそろそろだった。急いでバス停にもどる。
バス停にはよれよれの背広を着たサラリーマンふうの中年がたたずんでいた。しかし勤め人を装っているが、この中年がサラリーマンでないことは明らかだった。なぜならば髪の毛がロイヤルブルーで顔色がスカイブルーだったからである。
おそらく暗闇大臣は宮野涼子(似)の部屋におもむくためにバスを待っているのだろう。やはりあの娘のヤモリにかこつけたお誘いも宇宙のバグの例のあれなのだ。
「バス遅いですなぁ」
と暗闇大臣が話しかけてきた。
「まったくですなぁ」
ぼくは暗闇大臣には気づいていないふりをする。
殉教するにはまだ早い。この運命を正面から受けてやる。そしてぼくはまた夢のような状況を呼び寄せてみせる。真の隠者として労働の外側へ脱出してみせる。
待っていたバスが向こうに見えた。運転手は女子だった。ぼくはちかづいてくるバスに、暗闇大臣と競うように愛想よく手を振った。
(完)




