予選の決着、そして本戦の壁
予選決勝の組み合わせが掲示板に貼り出された瞬間、2人に、ある種のやりにくそうな空気が流れた。
「マジか、黒瀬かよ」
淀川大学の鳴海晴臣が、貼り出された【Dブロック予選決勝戦】の枠を見てポツリと溢した。
朝、アップ場で「絶対に勝ち上がろう」と誓い合ったばかりの二人が、こともあろうに予選で、どちらか一人が確実に脱落するという残酷な枠で結ばれていたのだ。
「やりにくいな」
蓮二が面の紐を準備しながら声をかけると、鳴海も道着の襟を正しながら「ほんまそれな」と短く返した。
「でも、ここで負けるわけにいかんからな。淀大の枠、削るわけにいかんし」
「俺も一緒。普通に勝ちにいく。」
そこには過剰な友情も感傷もない。
ただ、同じ1年生の中で「少し手の内を知っている、面倒な実力者」と当たってしまったという、純粋な競技者としての火花だけがあった。
第2コートのマットの上、二人が対峙する。
「構え!」
「始め!!」
主審の合図と同時に、鳴海が仕掛けた。
鳴海の最大の武器は、その圧倒的なコンビネーションの数だった。
単発の突きや蹴りで終わる拳士が多い中、鳴海は左ジャブから右ロー、そこからさらに上段への裏拳、さらにスイッチしての左ストレートと、淀みなく次から次へと異なる軌道の連撃を組み立ててくる。
(……手数が多いな)
これまでの相手とは完全に次元の違う連撃が、蓮二の視界を埋め尽くすように迫る。
鳴海はコンビネーションを次々に変えながら、蓮二を強引にマットの端へと押し込もうとしていた。
しかし、蓮二には圧倒的な「目の良さ」があった。
激しい連撃の嵐の中でも、蓮二の視界は驚くほどクリアだった。
高校時代に叩き込まれたミリ単位の体捌きを駆使し、首をわずかに振る、上体を数センチだけ傾けるといった最小限の動きで、鳴海の放つ無数の拳と蹴りを、まるで編み目をすり抜けるように紙一重ですべて見切っていく。
何発繰出しても、蓮二の面にクリーンヒットさせることができない。
鳴海の目の奥に、微かな焦りが生じた。
(そこだ)
鳴海が4発目の左中段突きから、5発目の右ストレートへと繋ごうとした、そのわずかなコンビネーションの繋ぎ目。
蓮二の「眼」が、鳴海のガードがほんの一瞬だけ下がった瞬間を完璧に捉えた。
蓮二のもう一つの武器――「突きの正確性」が牙をむく。
相手の激しい動きに一切ブレることなく、蓮二の右直蹴りが最短距離の軌道を走り抜け、鳴海の胴を正確無比に撃ち抜いた。
バチィィィン!!!
「胴あり!」
先取点は蓮二。
だが、名門・淀大の鳴海もそこからさらにギアを上げてきた。
取り返えそうと死に物狂いでコンビネーションの手数を増やし、怒濤の猛攻を仕掛けてくる。
蓮二はその猛攻を驚異的な目の良さで凌ぎきり、正確なカウンターを狙う。
互いの意地と技術がぶつかり合い、どちらも一歩も譲らないまま、無情にも試合終了のブザーが体育館に鳴り響いた。
「そこまで、1-0! 勝者、黒瀬(大南大学)!」
予選決勝、激戦の末の決着。
面を外した二人は、特に抱き合うこともなく、実戦を終えた拳士同士としてサバサバとした礼を交わした。鳴海は肩で息をしながら、少し苦笑いを浮かべて蓮二に近づいてきた。
「あー、やっぱり強いわ。何発打っても全部見られてる気しかせんかった」
「鳴海のコンビネーション、最後まで止まらんからマジで焦ったわ」
「どの口が言うてんねん、完璧にポイント持っていかれたわ。……あ、そうや黒瀬。お前、墨川の沢村先輩ともし当たる時は気つけや。去年1年生にして関西優勝した今の関西最強の人やで。」
鳴海が少し声を潜め、真面目な顔で言った。
「別コートでやってる時ちょっと見たけど、入ったと思ったらもう打たれてるぞ」
「……沢村先輩、か。分かった、ありがと」
ドライだが、確かな実力を認めた者同士の情報交換。
関西の頂点へと続く本当の地獄が、ここから静かに幕を開けようとしていた。
淀川大学の鳴海との激しい削り合いを制し、予選を突破した翌日
その日の大南大学は、決して歓喜に沸いてはいなかった。
1年の相沢剛と西川光輝は、予選で完敗。先輩方までが、他校の執念に足元をすくわれ、次々と予選で姿を消したのだ。
勝ち残ったのは、神谷主将、鷹野先輩、東堂先輩、そして1年の蓮二の、わずか4人のみ。
さらに本日発表された本戦での蓮二の相手は鳴海から忠告されていた昨年王者墨川大学の沢村が初戦の相手であった。
大学に戻ってからの最初の練習日。
道場には、普段以上の重苦しい、そしてジリジリとした殺気が満ちていた。
予選で散った先輩たちも、悔しさを爆発させている同期の相沢や西川も、言葉数は少なかったが、その目に宿る執念は普段の比ではなかった。
ギィ……と、道場の重い扉が開き、大南大学を率いる片岡監督がゆっくりと姿を現した。
その瞬間、道場内の空気が一瞬で凍りつく。
片岡監督は、予選で大半が脱落した状況を前に、静かに部員たちを見渡した。
誰もが叱責を覚悟し、頭を下げて拳を握りしめる。
しかし、片岡監督の視線が止まったのは、1年の蓮二だった。
片岡監督の低く、重い声が道場に響く。
「綺麗に戦おうとするな。この大南の道場で、泥にまみれてその眼をさらに研ぎ澄ませ。鷹野のスピード、神谷の正確性、東堂の狂暴な動きをすべて肥やしにしろ。お前の眼の使い方を間違えるな」
その一言が、道場全体の導火線に火をつけた。
「蓮二、防具つけろ!」
いつもは仏のように笑う東堂先輩が、この日は一切の冗談を排した冷徹な声で蓮二を呼び出した。
本線が別日の「尼崎ベイコム」で行われるまでの数週間、大南大学の道場は、文字通り地獄の空間と化した。
バチィィン! ドカァッ!
荒木先輩の狂暴な突進が容赦なく蓮二を襲う。鷹野先輩は変則的なステップから、容赦のないスピードで何度も蓮二の懐へ奇襲を仕掛けてきた。
片岡監督はパイプ椅子を置き、腕を組んだまま、じっと蓮二の動きを見つめている。
その沈黙の視線が、何よりも重いプレッシャーとなって蓮二の背中にのしかかる。
蓮二は、持ち前の「目の良さ」をフル回転させ、先輩方の異次元の踏み込みをどう見切るか、どうやって自分の「正確な突き」を合わせるか、狂ったように泥臭く拳を振り続けた。
悔し涙を流した同期の相沢や西川も、ミットを持ち、声を枯らして蓮二の練習をサポートした。
「黒瀬! まだまだいけるぞ!」「足止めんな!」
散っていった仲間たちの悔しさと、少数精鋭ゆえの執念。それがすべて、蓮二たち4人の拳に上乗せされていくような、濃密で過酷な数週間だった。
そして迎えた、本線の日。
兵庫県尼崎市――ベイコム総合体育館(尼崎ベイコム)。
4面のコートが雑然と並び、怒号のような声援が飛び交っていたあの予選会場とは、すべてが違っていた。
高い天井、綺麗に整備された板の間、そしてフロアの中央に厳かに設置された、限定された特設コート。
『これより、男子一回戦第一コートの試合を行います。選手はコートへ入ってください』
アナウンスの音声が厳かに響き渡る。
片岡監督がコートサイドの椅子にどっしりと腰を下ろすのが見えた。
蓮二はすっと息を吸い込み、道場で少し傷のついた面の紐をきつく締め直した。
張り詰めた緊張感の中、アドバイスを求めようとベンチの片岡監督に視線を送る。
片岡監督は、ただ一言、静かに告げた。
「楽しめ」
多くは語らない。
その短い言葉だけが、蓮二の背中をポンと押した。
マットの向こう側、すでに防具をつけて静かに佇んでいる男、墨川大学2年・沢村 仁。
鳴海が警告したその男の前に、蓮二はゆっくりと歩みを進めた。
「構え!」
「始め!!」
主審の鋭い合図が、静まり返った体育館に響く。
蓮二はじりっと自分の間合いへと踏み込んだ。沢村の構えは遠い。いつもよりわずかに一歩、深く踏み込んだ――そのコンマ数秒の刹那。
(――来たッ!!)
沢村の身体が、爆発的なスピードで目の前に迫る。
後ろに引いていたはずの上体が、バネのように鋭くしなって前方へと突き出され、一瞬にして距離をゼロにされた。沢村の右の直突きが、蓮二の面を目がけて一直線に突き出される。
道場で荒木先輩たちの突進を浴び続け、研ぎ澄ましてきた蓮二の『眼』が、その超高速の軌道に反応した。
蓮二は瞬時に首を右へ振り、紙一重でその右突きをかわす。
しかし、沢村の真骨頂はここからだった。
蓮二が頭を振ってかわしたその瞬間、沢村は踏み込んだ勢いのまま、まるで蓮二のかわす動きを最初から予測していたかのように、左の順突きを流れるような速度で追撃してきたのだ。
防具の格子の向こう、沢村の冷徹な眼光が蓮二を捉えていた。
(しまっ――)
かわした体勢から次のディフェンスへ移る、そのわずかなエアポケット。
蓮二が必死に腕を滑り込ませようとした瞬間には、すでに沢村の左拳が、蓮二の胴プロテクターの芯を完璧に捉えていた。
バチィィィン!!!
体育館の天井に、信じられないほどの重い破壊音が響き渡る。
「胴あり!」
主審の腕が沢村に上がる。
速すぎる。道場でどれだけ対策を積み重ねてきてもなお、沢村のスピードは蓮二の想定を遥かに凌駕していた。
「構え直して、始め!」
取り返さなければならない。
蓮二は持ち前の突きの正確性を信じ、鋭い一歩を踏み出す。
しかし、沢村はその出鼻すらも完全に支配していた。
蓮二が拳を突き出す動きそのものを読まれているかのように、沢村のカウンターの突きが、鋭く蓮二の胴へと突き刺さる。
ドカァッ!!
「胴あり!」
間髪入れずに奪われる2本目。
そこからの記憶は、圧倒的な実力差の前に白く染まっていくようだった。
こちらの攻撃は、あの深く遠い構えにことごとく届かず、触れることすら叶わない。
逆に間合いを詰めようとすれば、踏み込みからの容赦ない連撃で、面白いように的確にポイントを奪われていく。
天性の「目の良さ」も、「突きの正確性」も、沢村仁という怪物の前では完全に無力化されていた。
バチィィン!!!
「胴あり!」
非情な打撃音が響くたび、沢村のポイントだけが積み重なっていく。
そして――。
「そこまで!!」
主審の鋭い制止の声と同時に、試合終了のブザーが鳴り響いた。
時間切れではない。
有効打によるポイント差が開きすぎたことによる、完全な「コールド負け」だった。
面を外した蓮二の視界が、激しい呼吸とともに激しく揺れる。
目の前に立つ沢村仁は、冷徹な眼光を崩さないまま静かに礼を交わした。
何もできなかった。
予選を無双し、淀大の鳴海を破り、大南の仲間たちの期待を背負って上がった尼崎の舞台。
そこで待っていたのは、手も足も出ずに叩き潰されるという、残酷すぎる現実だった。
コートの下に戻ると、片岡監督はただ静かに蓮二を見つめていた。
かける言葉もないほどの完敗。
これが、関西学生拳法界のトップランナーの一角、沢村 仁の本当の恐ろしさだった。
蓮二の初めての公式戦は、己の無力さを骨の髄まで知らされる、あまりにも苦い惨敗という形で幕を閉じた。
しかし、この尼崎の床に刻みつけられた屈辱が、蓮二の拳を、そして大南大学でのここからの歩みを、さらに狂暴に変えていく導火線となる。
宿敵・沢村仁。その名前は、蓮二の胸の奥深くに、消えない炎として激しく焼き付けられた




