高校生編
体育館の床を叩く、鋭い風切音。
「――ハッ!」
裂帛の気合と共に繰り出された上段突きが、空間を寸分の狂いもなく撃ち抜いた。
全国高校拳法選手権。
男子自由演武、決勝コート。
その中心に、香川県代表・蒼嶺高校の黒瀬蓮司がいた。
高校時代の黒瀬は、後の大学時代に見せる「殴り合いの王者」という姿からは想像もつかないほど、美しさとキレを極めた「形のスペシャリスト」だった。
拳法の名門として知られる蒼嶺高校。
その拳法部は、1ミリの妥協も許さない厳しい技術鍛錬で知られていた。
突き。
蹴り。
受け。
崩し。
そして、そこから繋がる一連の動作。
黒瀬は来る日も来る日も基本を繰り返した。
何千回、何万回と同じ動きを繰り返し、身体に正確な軌道を刻み込んでいく。
高校1年生の時には、すでに香川県大会の同級生部門で優勝。
周囲からは、「若き天才」と呼ばれていた。
だが、この全国大会の舞台は、蒼嶺高校にとってあまりにも過酷な戦いとなっていた。
誰よりも泥臭く部を引っ張り、黒瀬と共に全国の頂点を目指してきた主将の安井が、予選敗退という苦杯をなめたのだ。
「蓮司、あとは頼んだぞ。俺の分まで、お前の演武を全国に見せつけてこい」
予選のコート脇。
悔しさを押し殺しながら黒瀬の背中を叩いた安井の笑顔が、黒瀬の脳裏に焼き付いていた。
男子で決勝に残ったのは、自分一人。
安井の想い。
そして、年生の朝倉直哉と桐生拓真の期待。
すべてが黒瀬の双肩にのしかかっていた。
そして、部活動の風景を思い出せば、いつも一番に声を張り上げていた後輩の女子部員たちの姿もあった。
のちに同じ大南大学へと進学しさらに拳法の道を極めていくことになる情熱を秘めた水野莉央。
そして、彼女と共に男子に負けじと、毎日泥臭い基本練習に必死に食らいついていた白石ひなた。
蒼嶺高校の道場は、安井主将の厳しさと、莉央やひなたたちのひたむきな気迫が混ざり合う、最高の空間だった。
(みんなが見てる。安井のためにも、ここで引くわけにはいかない……!)
決勝コート。
全国から集まった選手たちが、それぞれの学校、仲間、指導者、そして自分自身の誇りを背負って立っている。
黒瀬もまた、その一人だった。
誰か一人を倒せば終わる戦いではない。
ここにいる全員が、自分自身の限界を超えるために戦っている。
(まだだ……もっと深く。もっと鋭く……!)
黒瀬は静かに呼吸を整える。
そして、再び構えた。
一瞬の呼吸のズレ。
わずかな軸のブレ。
拳の角度。
踏み込みの深さ。
ほんの僅かな違いが、演武の完成度を左右する。
黒瀬は、それらすべてを極限まで研ぎ澄ませていく。
上段突き。
中段突き。
受け。
蹴り。
そして、それらを一つの流れへと繋げていく。
何万回と繰り返した動作が、コートの上に美しい残像を描いた。
予選で落ちた安井の悔しさ。
莉央やひなたたちが部活動で流した汗。
朝倉や桐生と共に積み重ねてきた日々。
蒼嶺高校の仲間たちが託してくれた想い。
そのすべてを拳に乗せた、渾身の演武だった。
最後の技を終える。
静寂。
黒瀬はゆっくりと構えを解いた。
そして――
電光掲示板に、結果が表示される。
「第4位 黒瀬蓮司(蒼嶺)」
黒瀬は、しばらくその数字を見つめていた。
全国4位。
誰もが認める結果だった。
だが。
(届かなかった……)
拳を強く握りしめる。
全国の頂点まで、あと一歩。
あと、0.5点。
その数字が、黒瀬の胸に突き刺さった。
(あと一歩……あと0.5点、何が足りなかったんだろう……)
蒼嶺高校を全国4位へ導いた。
それだけでも十分な結果だった。
それでも、黒瀬の胸に残ったのは達成感ではなかった。
悔しさだった。
全国一になれなかった。
ただ、それだけだった。
コートを降りる。
その瞬間――
ポンッ。
力強い手が、黒瀬の肩を叩いた。
「蓮司、ナイス演武。最高にかっこよかったぞ」
振り返る。
そこにいたのは、主将の安井だった。
自分が予選で敗退し、一番悔しいはずなのに。
神谷は真っ直ぐに黒瀬の目を見つめ、最高の笑顔を浮かべていた。
「安井……ごめん。一番、獲れなかった」
黒瀬の声が震える。
安井は、そんな黒瀬の肩をもう一度強く叩いた。
「気にするな」
そして、真っ直ぐに言った。
「お前は蒼嶺の、俺たちの誇りだよ」
その言葉を聞いた瞬間。
張り詰めていた黒瀬の目から、涙が溢れそうになった。
グッと奥歯を噛み締める。
ここで泣くわけにはいかない。
そう思った。
けれど――
神谷の笑顔だけは、最後まで滲んで見えていた。
***
静岡からの帰路。
香川に戻った黒瀬を迎えたのは、学校で待っていた後輩たちの姿だった。
2年生の朝倉と桐生。
二人は黒瀬が持ち帰った4位の賞状を、まるで自分のことのように目を輝かせて見つめていた。
「黒瀬先輩、全国4位、本当におめでとうございます!」
「すごいです。僕たちも先輩みたいな演武ができるようになりたいです」
朝倉と桐生の真っ直ぐな言葉に、黒瀬は少し照れくさそうに頭を掻いた。
「ありがとう。でも、俺の力だけじゃないから」
賞状に目を落とす。
「みんなが一緒に頑張ってくれたおかげだよ」
その言葉を、少し離れた場所で、道着の裾を握りしめながら嬉しそうに聞いているのが、1年生の莉央とひなただった。
「あの、黒瀬先輩……!」
莉央が意を決したように一歩前に出た。
ひなたも、その隣でコクコクと深く頷いている。
「先輩の演武、本当に凄かったです」
莉央の声には、少しだけ寂しさが混じっていた。
「私たち、先輩が引退しちゃうの、すごく寂しいですけど……」
一度、拳を握る。
そして、真っ直ぐに黒瀬を見つめた。
「先輩が遺してくれた蒼嶺の伝統、私たちが絶対に繋ぎます!」
ひなたも大きく頷いた。
「私も、頑張ります!」
二人の真剣な表情を見て、黒瀬の心に温かいものが広がっていく。
「うん」
黒瀬は笑った。
「莉央、ひなた。二人なら絶対に大丈夫」
そして、少しだけ表情を引き締める。
「女の子だからって遠慮しないで、しっかりついていくんだよ」
「はい!」
二人の声が重なった。
「朝倉も桐生も、頼んだぞ」
「はい!」
朝倉と桐生も力強く返事をする。
その声を聞きながら、黒瀬は改めて思った。
この場所で過ごした3年間は、決して自分一人のものではなかったのだと。
***
部室の荷物をまとめ終えた頃。
主将の安井が、朝倉と桐生を呼び出した。
その横には、莉央とひなたも神妙な面持ちで並んでいる。
「蒼嶺高校拳法部」
神谷が、二人の前に立つ。
「次の主将は、桐生に任せる」
「……え?」
桐生が驚いたように目を見開いた。
「俺、ですか……? でも、朝倉の方が……」
「朝倉とも話して決めたんだ」
神谷は穏やかに笑った。
「桐生、お前には部を引っ張る根性がある」
そして、朝倉を見る。
「な、朝倉」
安井に話を振られた朝倉は、一瞬だけ悔しさを滲ませた。
しかし、それもすぐに晴れやかな表情へと変わる。
朝倉は桐生の肩を叩いた。
「頼んだぞ、主将」
「朝倉……」
「同じ2年として、俺もしっかり支えるから。一緒に頑張ろう」
桐生は、しばらく黙って朝倉を見つめていた。
そして――
「……分かった」
小さく頷いた。
その光景を横で見守っていた黒瀬は、一歩前に出る。
「桐生」
桐生が振り向く。
「神谷主将の任命だ。自信持っていいよ」
そして、莉央とひなたを見る。
「莉央もひなたも、新しい主将をしっかり支えてあげてね」
「はい!」
二人は力強く頷いた。
桐生は真っ直ぐに神谷と黒瀬の目を見つめ返す。
そして、静かに。
けれど、固い決意を込めて口を開いた。
「分かりました」
一度、息を吸う。
「安井先輩、黒瀬先輩……僕が蒼嶺の伝統を絶対に守ります」
「……頼んだぞ」
神谷が笑った。
黒瀬も笑う。
頼もしくなった後輩たちの姿を、二人は嬉しそうに見つめていた。
***
部室の片付けを終え、最後の一人になった黒瀬は、夕暮れ時の誰もいない練習場を見渡した。
床の感触。
莉央やひなたたちが必死に声を張り上げていた場所。
そして、安井と何度も技をぶつけ合ったマット。
この場所で過ごした3年間が、自分のすべてだった。
全国4位という結果。
そして、それ以上に重い、0.5点差の悔し涙。
高校時代。
仲間たちと汗を流し、すべてを出し切った。
それでも、あと一歩で全国の頂点を逃した。
その不完全燃焼の記憶こそが、黒瀬の心に生涯消えない猛火を宿した。
黒瀬は、静かに目を閉じる。
(ここで終わりじゃない)
拳を握る。
(俺の拳法は、まだ始まったばかりだ)
カバンの中には、全国4位の賞状。
そして、蒼嶺高校の仲間たちがくれた最高の思い出。
最後に――
一つの誓い。
「次は、誰も文句のつけられない一番になる」
黒瀬は練習場に向かって、深く一礼した。
そして、ゆっくりと背を向ける。
高校生活、最後の一歩。
黒瀬蓮司は、新たな戦場へ歩き出した。
――大南大学へ。




