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消した返信  作者: reika1021


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9/10

第9章:夜に保留する恋

朝の空は薄い灰色の奥に青を隠していた。羽澄ことりは、株式会社未白編集室が入るビルの前に立ち止まり、ガラス扉に映る自分の顔を一度だけ見た。


昨日の沈黙は、まだ身体のどこかに残っている。何かを言いかけて、言い切らず、けれど完全には隠せなかったあの時間が、朝の冷えた空気の中でかすかに輪郭を持っていた。


ことりは鞄の持ち手を握り直した。今日は「白い入力欄の夜」の初稿を最終調整して公開候補として提出する日だった。


仕事の節目が来る、と思うと少しだけ背筋が伸びる。


けれど同時に、何かが終わってしまうような気もしていた。あの企画を真瀬凪人と一緒に見ている時間が今日でひとつ区切られてしまうのだ。


編集部に入ると、室内の空気はまだ薄かった。窓際には朝の光が均一に広がり、机の上のペンや紙の輪郭を淡く浮かび上がらせていた。


ことりは席に座ってパソコンを開き、「白い入力欄の夜」のファイルを立ち上げた。昨日書き直した後半が画面に表示された。


送れない言葉を抱え続けることは優しいだけではない。相手を守るために消したはずの一文がいつの間にか自分の胸を締め付ける夜もある。


ことりはそこを読み返し、呼吸を整えた。怖さを残した文章だった。


真瀬に言われた通り、明るくしすぎず、読者を安心させる前にまずその暗さの中に立たせるように書いた。


それが正しいのかは、まだわからない。けれど今の自分には、これ以上きれいに整える方が嘘に思えた。


入口の扉が開く音がした。ことりは画面から目を離さず、その音だけを聞いた。


真瀬の足音だった。朝の編集部に入ってくるその音を、もう知らないふりはできない。


「おはよう」


「おはようございます」


返事は自然に出たが、声を出したあとに残る沈黙の濃さが昨日までとは少し違っていた。


真瀬は自分の席に向かい、鞄を置いた。いつもと同じ動作なのに、ことりにはどこか慎重に見えた。


気のせいかもしれない、と思っても、もうその言葉だけで片づけることはできなかった。


少しして、真瀬からチャットが届いた。「初稿、今日出す前に最後だけ見せて」


ことりはその文を読んだ。最後だけ。


短い依頼だった。仕事としては普通だった。


しかし、ことりは「最後」という言葉が胸の奥で静かに響くのを感じた。この記事の最後なのか、この曖昧なやり取りの最後なのか、ことりは勝手に重ね合わせてしまう。


入力欄に「お願いします」と打つ。そこで止まった。


続けて「今日で一度区切りですね」と書きかけた。仕事の意味なら自然だと思った。


しかし、その一文は画面の中で少しだけ寂しそうに見えたので、ことりは数秒間眺めた後、削除した。


「お願いします。少し整ったら共有します」


と送信する。安全な文章だった。


真瀬からは「了解」とだけ返事が来た。


短い返事。いつも通り。


ことりはその四角い吹き出しを見つめた。いつも通りのはずなのに、今日は少し遠く感じられた。


午前の仕事は静かに進んだ。ことりは、白い入力欄の夜の最終稿に向かい、余計な説明を削って残すべき揺れだけを残した。


消す作業なのに、今日は以前とは違っていた。怖くて削るのではなく、届けるために削るのだ。


それでも、削るたびに胸のどこかがざらつく。言葉を整えることと自分の気持ちを隠すことは紙一枚ほどの近さで隣り合っている。


ことりは一文を書き足した。「送らなかった言葉が増えすぎたとき、人は相手から遠ざかっているのではなく、自分の本音から遠ざかっているのかもしれない」。


打ち終えて、長く見つめた。これは残す。


近い。けれど、残す。


共有フォルダに最終稿を入れる前に、ことりは一度だけ画面から離れた。給湯スペースに行き、紙コップに水を入れた。


窓の外では隣のビルの非常階段に薄い光が当たり、鉄の手すりは冷たそうでそこだけ朝が遅れているように見えた。


ことりは水を飲んだ。味のない冷たさが喉から胸へ落ちていく。


今日この初稿を提出すれば、真瀬とこの文章について何度もやり取りする時間は少なくなる。新しい記事はまた生まれるし、仕事の会話は続く。


でも、白い入力欄の「夜」という近すぎるタイトルを真瀬と一緒に見ている時間は終わる。


そのことが思ったより寂しかった。


デスクに戻って共有し、チャットを開いた。


「最終稿を入れました。確認をお願いします」


送信した瞬間、胸が少し軽くなり、同じ分だけ空白ができた。


真瀬が資料を開く気配がしたが、ことりは見なかった。


今日は、待っている自分をなるべく見ないようにしたかった。見てしまうと、仕事の返事以上のものを待っていることまで認めなければならない。


別の原稿を開き、暮らしの記事の小見出しを確認する。しかし、文字はうまく頭に入ってこなかった。


乾いたタオルの選び方、朝の支度の整え方、小さな習慣で部屋を軽くする方法。


どれも平和な言葉だった。ことりは、そこに自分の胸のざわめきを混ぜないように慎重に目で追った。


真瀬からの返信はしばらくして届いた。「いいと思う。最後の一文、残して」


最後の一文。


ことりは最終稿の末尾にスクロールした。そこにはさっき迷いながら残した言葉があった。


送れなかった言葉は消えたわけではない。いつか自分の声で伝えるために、まだ胸の中で名前を待っている。


ことりはその一文を見つめた。


名前を待っている。自分で書いたのに、今読むと胸が苦しい。


真瀬はそこを残して、と言った。仕事の指示として。


しかし、ことりはどうしてもそれだけでは終われなかった。自分がずっと消してきた言葉を、真瀬が「残して」と言ったように聞こえてしまうのだ。


入力欄を開き、「ありがとうございます。そこ、迷っていました」と打った。


これは送れる。前にも似たような言葉を送ろうとしたことがあった気がするが、今日は少し違っていた。今回は、最後の一文そのものが自分の核心に近かった。


続けて「残してと言われて、ほっとしました」と打った。


しばらく見つめる。


「ほっとしました」は本当だった。


でも、仕事の文章として収まるかどうかは、ことりには分からなかったし、真瀬がどう読むかも分からなかった。


消すか迷い、親指が止まる。


結局、後半だけ消した。


「ありがとうございます。そこ、迷っていました」


送信する。


真瀬からの返事は少し遅れた。「迷っているところが、この企画の芯だと思う」


ことりは、画面を見たまま動けなかった。


「芯」。何度も聞いてきた仕事の言葉だった。


けれど、今日はその奥に別の意味を探してしまう。真瀬はことりが迷っていることを否定しない。


それどころか、その迷いごと見ている。


ことりは返信を打たなかった。打てなかった。


昼が近づくにつれ、編集部には人の気配が増してきた。誰かの椅子が動く音、プリンターが紙を吐き出す音、カップの底が机に触れる音。


白い入力欄の夜は公開候補として提出され、作業としては一区切りついた。


ことりは管理画面を閉じ、別の仕事に移ろうとしたが、胸の中ではまだそのファイルが開かれたままだった。


真瀬は自分の席で画面を見ており、ことりからは横顔だけが見えた。


今日は少し遠い。


席の距離は変わっていないのに、記事の提出後、真瀬はまたただの先輩編集者にしか見えなかった。


いや、戻ったわけではない。ことりが勝手に、同じ文章を見ている間だけ近く感じていたのかもしれない。


その考えが胸に落ちると、少し冷えた。


昼休み後、編集部の空気はいつもより動きが速かった。別の記事の公開準備が重なり、ことりは暮らし記事の修正に入った。


真瀬とは必要な連絡だけを交わした。「確認しました」「共有済みです」「こちら反映します」


短い文面が続く。どれも正しい。


正しい言葉ばかりだと、なぜこんなに遠くなるのだろう。


ことりは、画面の端に表示されている真瀬の名前を見ないようにした。見ないようにしても、名前は視界に残る。


真瀬凪人。


夜の画面に残る名前。その文字列だけで、ことりの胸の奥が静かに反応してしまう。


午後、外の光が傾き始めたころ、真瀬が席を立って、ことりのデスクの近くを通った。


いつもなら足音がわずかにゆっくりになることがあったが、今日はそのまま通り過ぎた。


ほんの小さなことだった。


それだけで、ことりは自分が期待していたことに気づいた。立ち止まってほしかったのだろうか。何か言ってほしかったのだろうか。


自分で自分に呆れる。提出が終わったら仕事が次へ移るのは、当たり前のことだ。


真瀬は、誰かを特別扱いするために仕事をしているわけではない。彼の優しさは、きっと必要なところに、必要なだけ置かれるものだ。


それを自分だけのもののように受け取っていたのは、ことりの方だった。


胸の中が少し静かに沈む。落ち込むというほどではない。


ただ、薄く遠くなる。近いと思っていたものが光の加減でそう見えていただけかもしれない、と気づいた時のあの小さな寒さだった。


ことりは修正に集中した。文字を整え、見出しを短くし、余分な説明を削った。


削るたびに心も少し平らになり、平らになりすぎて何も感じていない顔になっていった。


夕方が近づく前に真瀬からチャットが届いた。「白い入力欄、提出おつかれ。次の企画は少し間を置いてからでいい」


ことりはそのメッセージを読んだ。


「提出おつかれ。少し間を置いてからでいい」


気遣いだった。間違いなく。


それなのに、なぜか少し距離を感じた。一区切りを告げる文章にも見えた。


ことりは入力欄に「ありがとうございます」と打った。


続けて「少し寂しいです」と打ってしまい、すぐに息を止めた。


何が? 企画が終わることが? 真瀬とのやり取りが減ることが?


その曖昧さが怖かった。あまりに本音に近かった。


消す。すぐに消す。


「ありがとうございます。少し置いてから次を考えます」


そう送る。


送った後、ことりは画面を閉じた。胸の奥に、消した言葉だけが残る。


少し寂しいです。


たったそれだけなのに、送れなかった。今までよりも短く、今までよりも近い。


夕方の編集部には白い灯りが少しずつ増し、窓の外のビルは影を深くしてガラスに映る室内の輪郭がはっきりと見えてきた。


ことりは仕事を片付けながら、真瀬と話さないまま時間が過ぎていくのを感じていた。会話がない日は珍しくない。


けれど、今日はその沈黙が少し痛かった。


少し前まで、真瀬の短い返信の奥に何かがあると思っていたし、今も思っている。


でも、もしかするとそこにあるのは、ことりが見たいと思っていたものだけなのかもしれない。


そう考えると、胸が軽く締め付けられた。


送れば変わってしまう。送らなければ、このまま薄まっていく。


第9章のどこかで、ことりはその言葉を頭の中に置いた。文章ではなく、自分の状況として。


このまま何も言わなければ、真瀬との距離は仕事の中で自然に元に戻っていくのだろう。白い入力欄の夜が終わり、次の記事に移り、また別の企画を整える。


そうして今のこの熱は、時間の中で少しずつ薄れていくのかもしれない。


それは安全だ。きっと。


しかし、それを想像したとき、ことりは安全よりも先に寂しさを感じてしまった。


夜の手前で真瀬がことりのデスクの横にやって来た。手には資料を持っている。


ことりは顔を上げた。


「白い入力欄に、提出後に一点だけ補足を入れた」


「補足ですか?」


「公開時のリードで、記事本体に触れすぎないように。読者が自分の話として入れる余地を残すように」


真瀬は資料を置いた。仕事の説明だった。


ことりはその紙を見た。リード文には余計な情緒が足されていなかった。


短く、静かで、けれど記事の温度感を損なわない文章だった。


「ありがとうございます。すごくちょうどいいです」


「よかった」


真瀬はそう言った。


そのまま戻ろうとする。ことりは小さく息を吸った。


ここで終わるのが普通だった。ありがとうございます、で終わるのが正しい。


でも、今日の寂しさはその正しさの中に置いておけなかった。


「真瀬さん」


声が出た。


真瀬が足を止める。


「何?」


ことりは資料の端を見つめた。目を見ると、言葉が逃げそうだった。


「白い入力欄の夜が終わったら、少し静かになりますね」


言ってしまった。


仕事の話としても通じるし、企画が一区切りついたという意味にもできる。


しかし、声には少しだけ別の感情が混ざっていた。ことりにもそれはわかった。


真瀬はすぐには答えずに、資料を持つ手を少しだけ下げた。


「そうだね」


短い返事だった。


それだけで終わるかと思った。


けれど、真瀬は続けた。


「少し、寂しい?」


ことりの喉が止まる。


それは、ことりが消した言葉そのものだった。「少し寂しいです」


画面から消したはずの本音が、真瀬の声で戻ってきた。


ことりは顔を上げた。真瀬はまっすぐ見ているわけではなく、少しだけ視線を外していた。


その外し方が逃げ道をくれるようで、逆に胸に響いた。


「仕事の話です」


ことりが反射的に言った。


真瀬は小さくうなずいた。


「うん」


否定もしない、追及もしない。


それが優しくて、ずるかった。


ことりは少しだけ唇を噛みそうになってやめた。ここで黙ればまた何もなかったことにできる。


でも、何もなかったことにするには、真瀬の「少し、寂しい?」という問いが近すぎた。


「でも」


ことりは言葉を継いだ。


真瀬が待つ。


「仕事の話だけじゃないかもしれません」


と言った瞬間、編集部の音が遠くなった気がした。周りには人がいる。


だからこそ、声は小さかった。小さくするしかなかった。


真瀬は動かなかった。驚いた顔もしなかった。


ただ、沈黙が訪れた。浅くない沈黙だった。


ことりはすぐに何か付け足したくなった。「違います。変な意味じゃなくて。記事が終わるのが、ということです」


いくつもの逃げ道が喉元まで迫ってきた。


けれど、今日はそれを全部飲み込んだ。


真瀬は静かに言った。


「わかった」


わかった。


それだけだった。


ことりはその言葉の意味を探した。何がわかったのか、どこまでわかったのか。


しかし、真瀬はそこまで説明しなかった。説明しないことで、ことりがその場で困らないようにしているのかもしれない。


「今は、ここまででいいと思う」


真瀬は続けた。


ことりの胸が少し痛んだ。拒まれたわけではない。


けれど、受け止められすぎないように真瀬が慎重に距離を置いているのがわかった。


「はい」


ことりは答えた。


真瀬は小さくうなずいて自分の席に戻った。背中が遠くなっていく。


ことりは画面に視線を戻したが、何も読めなかった。


今は、ここまででいい。


それは優しさだった。たぶん。


けれど、それは同時に距離でもあった。真瀬はことりを困らせないために、そしておそらくは自分でも踏み込みすぎないようにするために、そこで止めた。


胸の中がひどく静かになった。


夜が近づくころ、ことりは帰り支度をした。今日は真瀬に声をかけることが少し怖かった。


さっきの会話が宙に残っている。「仕事の話だけじゃないかもしれません」。


と言ってしまった。もう取り消せない。


「お先に失礼します」


声は思ったより普通に出た。


真瀬が顔を上げた。


「おつかれさま」


その声も普通だった。普通すぎて少し苦しくなった。


「おつかれさまです」


ことりはそれだけ返して、編集部を出た。


廊下の空気は乾いていた。エレベーターの中で、ことりはスマホを開いた。


真瀬とのチャット欄には今日の仕事のやり取りが残っている。白い入力欄に「提出おつかれ。次の企画は少し間を置いてからでいい」と表示された。


ことりは入力欄を開いた。


「さっきは変なことを言ってすみませんでした」


まず、そう打った。


すぐに違うと思った。謝れば今日の言葉までなかったことになる。


消す。


「仕事の話だけじゃないかもしれないと言ったこと、自分でも少し驚いています」


打つ。これは近すぎる。


送れない。でも、消したくない。


エレベーターの扉が開き、ことりは画面を伏せてビルの外へ出た。


東京の夜は今日は少し乾いていて、頬に当たるのは湿気よりも風の冷たさだった。


ことりは駅へ向かわず、ビルの近くの細い道へ入った。そこは人通りが少なく、街灯の光が歩道に小さな円を描いている。


スマホをもう一度開く。さっきの文章が残っていた。


「仕事の話だけじゃないかもしれない」と言ったこと、自分でも少し驚いています。


ことりはその下に続けた。「けれど、嘘ではありません」。


打った瞬間、体が熱くなった。


これはもう、仕事の連絡ではない。告白ほど形にはなっていないけれど、逃げるための言葉でもない。


向き合うための返信だった。


送信ボタンが近い。近すぎる。


送れば変わる。送らなければ、あの会話は明日には薄れてしまうかもしれない。


ことりは立ち止まった。夜風が髪をなびかせ、頬に触れた。


真瀬は「今はここまででいい」と言った。あれは、私を止めるためだったのだろうか。


それとも、今すぐ答えを出さなくていいという意味だったのだろうか。


どちらかわからない。わからないまま送るのは怖い。


でも、わからないからこそ、また消してしまったら何も進まない。


ことりは親指を送信ボタンの上で止めた。何度も消してきた指だった。


今度は、消すためではなく送るために震えている。


けれど、結局押せなかった。


胸の奥が痛む。


ことりは画面を見つめたまま息を吐き、今日はまだ送れないと思った。


でも、逃げるために消すのはやめたかった。


だから、文章を消さずに下書きのまま残した。


スマホを閉じても、真瀬の名前が画面の奥に残っている気がした。


夜の街を歩き出す。乾いた風がコートの裾を揺らし、遠くの信号機の音が小さく響く。


駅に向かう道で、ことりは思った。明日、この下書きをもう一度読もう。


そのとき、まだ同じ気持ちなら今度こそ送るかもしれない。


送れば変わってしまう。送らなければ、このまま薄まっていく。


その間で、ことりは初めて、逃げるためではなく向き合うために言葉を持ち帰っていた。


夜の画面には真瀬凪人の名前が残っている。


その下に、まだ送られていない一文がある。消えていない。


ことりは、鞄の中でスマホを握りしめた。今夜の東京は、いつもより少しだけ音が遠い。


明日になってもこの言葉が残っていたら。


そのときは、もう一度自分の指で選ぼう。

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