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消した返信  作者: reika1021


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5/10

第5章:夜に白欄ひらく

朝の街は、まだ乾ききらない眠気を歩道に残していた。羽澄ことりは駅前の横断歩道で信号が変わるのを待ちながら、かばんのなかのスマホを指先で探りかけてすぐにやめた。


空は白く曇っていて、ビルの窓は光を跳ね返すよりも鈍く抱え込んでいるように見えた。東京の朝は早くから人の足音で満ちているのに、ことりの胸の中だけがまだ昨夜の続きに取り残されていた。


送れなかった言葉は、もう画面にはない。けれど、消したはずの一文が起きてからずっと、喉の奥に薄く貼りついている。


送れなかった言葉は今日、声の近くまで来ていた。


昨夜、自分でそう思ったことをことりはまだ覚えていた。覚えているだけで少し恥ずかしく、同時に、もう知らないふりをするには遅い気もした。


信号が変わる。人の流れが一斉に動き、ことりもその中に混ざった。


濡れていないはずの横断歩道の白い線は、雲の光を吸って冷たく見えた。靴底がアスファルトに触れるたびに、街の小さな震えが足元から伝わってくる。


株式会社未白編集室が入るビルに向かう道中、ことりは何度も鞄の持ち手を変えた。スマホを取り出す理由はない。


それなのに、画面を見ないでいることがひとつの我慢みたいになっていた。


ビルの入口に近づくと、ガラス扉に朝の街が薄く映り、ことりの姿も重なった。髪の先だけが、少し風に乱れている。


大丈夫そうな顔をしている。少なくとも、外からは。


ガラスの中の自分を一瞬だけ見て、ことりはすぐに視線を外した。大丈夫そうな顔を作るのは、最近少し上手くなりすぎている。


編集部に入ると、室内にはまだ朝の温度が残っていた。昨日までの紙の匂いと消し忘れた機械の熱が薄く混ざっている。


ことりは自分の席に鞄を置き、スマホは出さずにノートとペンだけを机に並べた。


今日は白い入力欄を見ない時間を少しでも長くしたかった。見ればきっとまた何かを書きたくなる。


パソコンを開くと、前日に仕上げた暮らしの記事の管理画面が立ち上がった。雨の前の気配から始まる導入文は、公開準備の状態で静かに残っていた。


ことりは文章を読み返した。濡れていない傘の匂い、袖口に宿る冷え、部屋にたまった空気を少しだけ外へ逃がすこと。


真瀬凪人の言葉を借りて自分の文章になった部分で、そこを読み返すとまた昨日の声が戻ってくる。


「ちゃんと、ことりさんの文章になってたよ」


あの一言は画面に残っていない。チャットではなく、声で聞いたからだ。


それなのに、文字で届いたどの言葉よりも今朝のことりの中に深く残っていた。声は消せないのだと思った。


入口のほうで扉の開く音がして、ことりは顔を上げないまま背中だけでその気配を感じた。


真瀬だった。たぶん。


足音の重さと鞄を置く前のわずかな時間から、それが真瀬だとわかってしまう自分が少し怖かった。人の気配を感じることはこんなにも勝手な近さを生むのだろうか。


「おはよう」


声が届いた。


「おはようございます」


ことりは画面を見たまま返した。昨日より自然に聞こえただろうか。


真瀬はすぐには何も言わなかった。自分の席で鞄を置き、上着を椅子にかける音がする。


その無音に近い動作の一つ一つがことりの朝に入り込んでくる。近くもないのに遠ざけられない。


しばらくして、真瀬が言った。


「昨日の雨の記事、今日の昼前に出せそう?」


ことりはようやく顔を上げた。真瀬は自分のデスクの横でパソコンを開く手を止めていた。


「はい。最終確認だけです」


「なら、急がなくていい。昨日の最後、少し疲れてたから」


ことりの喉が小さく詰まった。昨日の最後。


それが原稿のことなのか、自分の声のことなのか、一瞬わからなくなった。


「原稿、そんなに出てました?」


「文章というより、間かな」


「間」。ことりはその言葉を胸の中で繰り返した。


文字の誤りではなく、行と行の間。声と声の間。言いかけて飲み込んだものが残る場所。


「気をつけます」


「気をつける、とは少し違うかも」


真瀬は静かに言った。責めるような響きはなかった。


ことりは返事を探したけれど、見つからず結局うなずくことしかできなかった。


真瀬はそれ以上続けなかった。いつも通り、踏み込みすぎる前に一歩引いた。


その引き方が、ことりの中の言えない場所を逆に明るくする。


午前の仕事は滑り出しが早かった。ことりは公開前の記事を確認し、見出しの温度を少し抑え、導入文の最後にあった言葉をひとつだけ削除した。


消すことは得意だった。文章でも返信でも。


しかし、今日は削るたびに自分の中の別の何かまで減っていく気がした。必要な調整と怖くて消すことの境目が以前よりわかりにくくなっていた。


記事の公開準備を終えたころ、真瀬がデスクの横を通った。ことりは声をかけるつもりはなかった。


それなのに、言葉が先に動いた。


「真瀬さん」


呼んでから、ことりは息を飲んだ。


真瀬が足を止め、ゆっくりこちらを見た。


「何?」


「昨日の原稿、ありがとうございました。あの、袖が冷える感じという表現、助かりました」


言えた。仕事の話として。


けれど、声のどこかに小さな余熱が混ざった気がして、ことりはすぐに画面から視線を逸らしたくなった。


真瀬は一拍置いた。


「使えたならよかった」


短い返事だった。


それだけなのに、ことりは胸の奥で何かが緩むのを感じた。派手ではなく、見えない糸が少し解けるような緩み方だった。


「ことりさんの感覚に合っていたんだと思う」


真瀬が続けた。


ことりは思わず顔を上げた。真瀬はいつも通りの表情をしていた。


いつも通りだから困る。真瀬の言葉は静かなまま、不意に心の奥深くに触れてくる。


「そう、ですか?」


「うん。俺が言ったのはただの材料でしょ」


「材料」ことりはその言葉を少し好きだと思った。


自分の文章に混ざったものを、奪うのでもなく与えるのでもなくただ「材料」と呼ぶ、その距離感がよかった。優しさを押しつけない人は言葉の渡し方まで静かだ。


「じゃあ、ちゃんと料理できたってことですか?」


と言ってから、ことりは少し驚いた。自分から軽口のようなものが出てしまったのだ。


真瀬も少しだけ目元を緩めた。


「できてたと思う」


そのやりとりはなんでもない、仕事の延長で笑い話にもならないほど小さいものだった。


けれど、ことりはあとでこの短い会話を何度も思い出すのだろうと思った。何でもないものほどあとから形を変えて残る。


昼の気配が近づくにつれ、編集部の空気は少しずつ濁りを帯びていった。パソコンの熱と紙の匂い、そして人の動きが増えるにつれ、朝の白さは失われていった。


ことりは次の企画メモを開き、「白い入力欄」という言葉をテーマの仮置きとして打ち込んだ。


打った瞬間、指が止まった。


白い入力欄。それは記事のメモではなく、最近の自分そのものだった。


何度も言葉を立たせては消し、何もなかった顔に戻る場所。空白なのに、一番熱を持つ場所。


ことりはその言葉を消そうとしてやめた。仕事のメモとしてなら残してもいい。


残す。最近、その判断が少しだけ変わり始めている。


昼過ぎ、公開した記事の反応を見ながら、ことりは小さく息を吐いた。数字は悪くない。


真瀬に報告する必要はある。仕事として。


ことりはチャット欄を開いた。昨日から何度も開いている場所なのに、今日はいつもより白さが鋭く見えた。


「雨の記事、公開しました。反応も悪くなさそうです」


そこまで打って、送れる。


続けて「昨日、見てもらえてよかったです」と打った。


これは朝声で言ったこととほとんど同じだ。だから送ってもおかしくない。


しかし、送信の前で指が止まる。文字にすると、声で言うよりも長く残る。


声は空気に溶けるが、文字は画面に残る。


残るものを真瀬に渡すことがまだ少し怖かった。


ことりは後半を消して、「雨の記事、公開しました。反応も悪くなさそうです」だけを送った。


数分後、真瀬から返事が来た。「見た。冒頭で止まってくれている人が多そう」


仕事の返事だった。的確で、短い。


ことりはほっとした。ほっとしたのに、どこか物足りない。


自分が何を待っていたのか考えたくなかった。


入力欄に「ありがとうございます」と打った。いつもの言葉だ。


今日はその先に何も足さなかった。足さなかったのではなく、足す勇気をあえて使わなかったのだ。


送信して、画面を伏せる。


午後の光が少しずつ色を失っていく中、ことりは「白い入力欄」という仮テーマに戻った。美容や暮らしの記事からは少し外れるけれど、恋愛記事の次回案にはなるかもしれない。


書き出しを考える。誰かに送る前の言葉には、送った言葉よりも正直なものが混ざることがある。


そこまで打って、ことりは胸がぎゅっと締め付けられるのを感じた。あまりにも近い。


でも、近いからこそ書けるのかもしれない。読者に届く文章はいつも少しだけ自分の皮膚を通っている。


ことりは続けた。「消した言葉は消えたのではなく、自分の中へ戻っていく。その戻ってきた言葉に夜ほど追いつかれてしまう」。


書きながら、これはもう記事ではなく自分のメモに近いと思ったが、それでも削らなかった。


画面の中に初めて「消さない」という選択をしている気がした。


真瀬が横を通りかかった。ことりは慌てて画面を切り替えようとして、途中でやめた。


見られて困るものを書いているわけではない、とことりは思おうとした。


けれど、困るものではないのに見られたら困る文章もある。


真瀬は画面をのぞかなかった。通り過ぎる途中で、ことりの机に置かれた資料だけを見た。


「次、恋愛記事?」


ことりは少し遅れて答えた。


「まだメモです」


「白い入力欄」


真瀬がタイトルだけ読むと、声に出された瞬間、その言葉が急に体温を持った。


「仮です」


「いいと思う」


ことりの指が止まる。


「まだ中身、全然ないです」


「タイトルだけで少し残る」


真瀬はそれ以上言わなかった。給湯スペースへ向かう。


タイトルだけで少し残る。ことりは、その言葉を画面の端に置いたような気持ちになった。


自分の中にあるものはまだ本文にできないけれど、タイトルにはなってしまった。


白い入力欄の夜。


そう打ち直すと、途端に昨夜までの帰り道や自宅の暗い部屋、そして送れなかった言葉の温度がそこへ集まった。


ことりは画面を見つめた。これは記事なのか、自分の告白の下書きなのか、もうよくわからなかった。


夕方の手前、編集部の窓には外の灰色が濃く映り始めた。雨は降らなかったが、街の光は低く、空気だけが湿っていた。


ことりは「白い入力欄の夜」という仮タイトルの下に短い導入文を書いた。送信ボタンの前で止まる指は臆病なのではなく、言葉の重さを知っているのかもしれない。


書いた後、しばらく動けなかった。


これは読者向けの文章だ、と彼女は思った。


でも同時に、ことり自身の言い訳でもあった。送れない自分を責めないための静かな言い訳だ。


真瀬に見せるべきか迷った。仕事としてなら企画メモを共有してもおかしくない。


しかし、このタイトルを真瀬が読むことを想像すると胸のあたりがざわつき、白い入力欄の夜を真瀬がどう受け取るのかを知りたいと思う。


知りたくない。


ことりは共有しないまま下書きフォルダに保存した。


保存という行為は送信よりも安全だった。誰にも届かないのに、なかったことにはせずに済む。


夜に向かう色が編集部に入り始めたころ、真瀬がことりのデスクに来た。手には印刷した資料を持っている。


「さっきの雨の記事、あとで振り返りだけしよう」


「はい」


「今日は長くならないように」


「大丈夫です」


ことりはすぐに答えた。


真瀬はそれを聞いて少しだけ間を置いた。


「その『大丈夫』は、どのくらい大丈夫?」


ことりは返事に詰まった。言い方は軽いのに、そこにはちゃんと心配が込められている。


「普通に、大丈夫です」


「普通に」


真瀬は繰り返した。


その繰り返しが少しだけおかしくて、ことりは小さく笑った。自然に笑えたことに自分で少し驚いた。


「たぶん、本当に大丈夫です」


「たぶん、がついた」


「そこは見逃してください」


ことりがそう言うと、真瀬は少しだけ目を細めた。


「見逃す」


短い言葉だったが、その短さがいつものように胸に残った。


見逃すけれど、気づいている。


その距離感に、ことりは今日もまた救われてしまう。


振り返りは本当に短かった。真瀬は数字の動きと導入の読まれ方を確認し、次に活かす点を二つだけ挙げた。


ことりはメモを取りながら仕事としてその話を聞いていたが、ところどころで真瀬の声の低さが耳に引っかかった。


言葉の内容よりも、声の響きが印象に残る時がある。


そう思って、ことりはペンを止めた。これもまた白い入力欄の夜に入れられるかもしれない。


真瀬がそれに気づく。


「何か思いついた?」


「少しだけ」


「さっきの企画?」


ことりは一瞬迷ったが、隠す理由はない。


「はい、『白い入力欄の夜』の」


声に出すと、やっぱり恥ずかしかった。自分で書いたタイトルなのに、自分の心を読み上げたみたいになる。


真瀬は資料を見たまま、ゆっくりとうなずいた。


「いいね」


それだけだった。


もっと聞かれると思っていた。どういう内容か、誰向けか、見出しはどうするか、など。


でも、真瀬は聞かなかった。ただ「いいね」とだけ言った。


その余白がことりの中でゆっくり広がる。


「中身はまだまとまっていません」


「まとまる前のほうが強いこともあるよ」


ことりは顔を上げた。


真瀬は視線を資料から外さずにそう言ったが、その言葉はことりの心にまっすぐ届いた。


まとまる前のほうが強い。整う前の気持ち、送る前の言葉。


ことりは息を吸った。何か返したかった。


「まとまらないままでも、出していいんですかね」


仕事の話として聞いた。少なくとも表面上は。


真瀬は少し考えた。


「出し方次第。答えにしないで、途中の形で置けるなら」


途中の形。ことりはその言葉を心の中で握った。


自分の気持ちも途中の形でどこかに置けるのだろうか。答えにしなくても壊れずに存在できるのだろうか。


「考えてみます」


「うん」


振り返りはそこで終わった。真瀬は資料をまとめ、自分の席に戻っていった。


ことりは画面を見た。白い入力欄に「夜」というタイトルが保存されたまま表示されている。


消さなくてよかった、とことりは思った。


外の色が濃くなり、室内灯の白さが増して窓に映る編集部の輪郭がはっきりと見えてきた。


ことりは帰る支度をしながらスマホを手に取った。今日はまだ真瀬に余計な返信を打っていない。


打っていないのに、胸はずっと入力欄の前にある。


「お先に失礼します」


ことりが声をかけると、真瀬が顔を上げた。


「おつかれさま」


そこで終わるはずだった。


ことりは鞄を肩にかけながら少しだけ立ち止まり、言う必要のない言葉が喉の近くにあるのを感じた。


「今日の企画、残してみます」


真瀬は少しだけ意外そうに見た。


「白い入力欄?」


「はい、まだ途中ですが」


「途中でいいと思う」


真瀬はそう言った。


ことりはうなずき、返事をする代わりに口元だけで少し笑った。


その笑いがどんなふうに真瀬に見えたのかはわからないが、真瀬の視線が一瞬だけ静かになったことだけはわかった。


「気を付けて」


「はい、真瀬さんも」


今日はそれが言えた。「無理しないで」ではなく、「真瀬さんも」。


それだけで十分だった。少なくとも、今の彼女には。


ビルを出ると、雨は手前で止まっていた。空気は湿っているのに、まだ雨粒にはなっていない。


街灯の光が舗道に柔らかく落ち、通り過ぎる車の音が黒い路面を低く撫でていく。ことりは駅とは逆の方向へ少しだけ歩いた。


まっすぐ帰る気にはなれず、いつもの帰り道へ入る前に少しだけ別の空気を吸いたかったのだ。


小さな橋の上で足を止めると、下を流れる水は暗く、建物の明かりを細く揺らしていた。


東京にもこんな風に沈黙がある。騒がしい街の奥に誰にも読まれない入力欄のような暗さが残っている。


ことりはそこでスマホを開き、真瀬とのチャット欄ではなく今日保存したメモを開いた。


白い入力欄の夜。


タイトルの下に昼に書いた導入文がある。送信ボタンの手前で止まる指は臆病なのではなく、言葉の重さを知っているのかもしれない。


ことりはその下に新しい文を打ち始めた。誰かに届く前の言葉は、まだ誰にも傷つけられていない分、自分を深く傷つけることがある。


打ち終えると胸の奥が静かになった。それは、送るためではなく残すために書いた言葉だった。


それから、真瀬とのチャット欄を開いた。


入力欄は白い、いつもの白さだった。


「今日、企画の話を聞いてくれてありがとうございました」


そこまで打った。仕事の礼としては自然だった。


続けて「途中でいいと言われて、少し楽になりました」と打った。


これは送れるだろうか。ことりは画面を見つめた。


真瀬が読んでも仕事の話として受け取れるし、白い入力欄の「夜」という企画のことだと思われるだろう。


でも、ことりにはわかっていた。途中でいいと言われて楽になったのは、企画だけではない。


自分の気持ちをまだ答えにしなくていいのだと思えたからだった。


親指が送信ボタンの近くで止まる。風が橋の上を抜け、髪の先を少し揺らした。


送れるかもしれない。今日は送れるかもしれない。


そう思った瞬間、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。


真瀬に届いた後、この文章はもう自分だけのものではなくなる。読まれ、解釈され、もしかしたら何でもないものとして返される。


それが怖かった。何でもない返事でこの小さな安堵まで消えてしまうのが怖かった。


ことりは後半を消した。「途中でいいと言われて少し楽になりました」という文章を一文字ずつ消した。


消したあとにも、その文は夜の湿った空気の中に残った。


残ったのは「今日、企画の話を聞いてくれてありがとうございました」だけだった。


ことりはしばらくそれを見つめたが、結局それも消した。


何も送らない。けれど今日は、なかったことにしたわけではない。


代わりに、メモアプリに戻る。白い入力欄の夜の下に、もう一文だけ足した。


送れない言葉があるから、まだ壊れずにそばにいられる関係もある。


打った瞬間、ことりはそれが自分の本音にかなり近いことを知った。


夜の橋の上では、車の音が遠くを流れていき、川面の光は細かく揺れ、ビルの明かりは水の中で少しだけ形を失っていた。


ことりはスマホを閉じた。手のひらにはまだ、画面の冷たさが残っている。


今日は送れなかった。けれど、消しただけではなかった。


白い入力欄の中で何度も消してきた言葉が初めて別の場所に残り、誰にも届かないままそれでも確かにことりの夜に置かれた。


帰り道に戻ると、湿った風が頬を撫でた。雨はまだ降っていなかった。


降りそうで降らない空の下を歩きながら、ことりは思った。自分の中にあるこの気持ちもまだ、名前になる手前で止まっている。


けれど、もうただの気のせいではない。真瀬凪人の言葉を待っている自分を、ことりは今夜、はっきりと見てしまった。


その事実だけが、白い入力欄よりも静かに胸の奥で光っていた。

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