読切短編 三十二回目の朝
この録音を再生しているなら、君はもう何も覚えていない。——そして、これからも思い出せないはずだ。
機器の前に座り、私は話し始める。声は少し掠れている。それだけが、ここが病室であることを示す、かすかな手がかりだ。
「たぶん、俺の名前はもう君には関係ない」
記憶修復センターの決まりでは、術後の患者に「自己同一性の再構築」を促すため、事前に本人が録音した音声を聞かせる。私の担当医はそう説明した。穏やかな声で、何度も繰り返し。
だから私はしゃべり続ける。
「七月に、彼女に会いに行ったこと。蒸し暑い日で、駅前の自販機の前で、彼女は缶コーヒーを落として笑った。彼女が笑うと右の頬だけに窪みができたこと。そのことを、今の君に教えておきたい。忘れないでほしい——いや、もう無駄か」
録音の中の声は苦く笑う。
ここまで聞いた君は、こう思っているはずだ。かわいそうな男が、失われた記憶について語っている、と。
でも少し待ってほしい。
「手術の前日、俺は医師に頼んだ。〈消したい記憶を指定できますか〉と。先生は言った——可能だが、それは本当に消したいものですか、と」
私の手が、膝の上で音もなく強く握り込まれる。爪が食い込む感覚だけがやけに鮮明だ。
「消したかったのは、彼女との記憶じゃない。彼女を傷つけた、あの夜の記憶だ。俺は怒鳴って、彼女の言葉を最後まで聞かなかった。あの十分間だけを、俺の脳から抜いてもらった」
録音はここで三秒ほど途切れる。呼吸の音だけがわずかに残る。
「でも、精度は完璧じゃなかった。前後の記憶も薄れた。彼女の笑い方も、彼女の名前も、もうすぐ消える。だから俺は、消える前に録音した。君が覚えていられるように」
再生時間は、残り十二秒を示している。
「君は俺だ。この録音を、今日で三十一回聞いたはずだ。明日で三十二回目だ。毎朝聞いて、涙が出て、夕方にはまた忘れる。明日の朝もきっと再生ボタンを押す」
再生ボタンに触れていた私の指が止まる。
「彼女の右頬に、窪みがあったことだけ——覚えていてくれ」
録音が終わる。
静寂の中で、私の目から涙が一筋落ちる。なぜ泣いているのか、私にはわからない。だが、頬の奥がじんと痛む。
ただ、もう一度再生ボタンを押したい衝動だけが、胸に残っている。




