-13.〔千年の悩みを埋める三文字〕
喉の奥からせり上がってきた嘲笑を、赤い魔法使いは吐き出す直前で噛み潰す。
目の前の小娘が放った、あまりに幼稚で。けれども一切の濁りがない青い瞳。それが、彼の退屈な心臓をほんの僅かにノックした。
口の端を吊り上げ、魔法使いが初めて見る珍妙な生き物を観察するように、リーゼを凝視する。――そして告げる。
「……ハ。いいだろう、その安い挑発に乗ってやる。だが心せよ、オレの退屈すら埋められぬ不敬は、ただの死では償えぬと」
真剣になった赤の眼差しが物理的な質量を持ってリーゼの細い喉を締め上げる。
震える膝に少女は無理やり力を込め、奥歯を噛みしめ。本能が全力で“逃げろ”と絶叫するのを――。
――フザケないで、よ。
数万人の悪意に晒されたあの吐き気に比べれば。
怪物の機嫌を伺うなんて、なんてことない“お仕事”じゃない。
彼女は肺に残ったわずかな空気を絞り出し、恐怖を不敵な笑みへと変換する――。
「――ええ、モチロンよ。その時は、煮るなり焼くなり好きにして、いいわよ……」
「クク、……よく吠えたな、小娘。その威勢が空虚な虚勢か、それともオレの胸を打つ真実か……。いいだろう、冥土の土産に見届けてやる。――来い、全力でな!」
結局、最後まで私は“小娘”のままだった。
大沢カナとしての名は知らずとも、告げたリーゼの名も。この最強の怪物は、一度だって呼ぶ気配すら、見せなかった。心底どうでもいいのだろう……。
前世では一時死ぬほどに見聞きした自身の名。
誰かに覚えてほしい。と思ったのは、……いつぶりだろうか?
「どうした? まさか臆したか?」
これは今回の一件で私が最後に屈託して放つ、最高の嫌味だ。
「ねぇ、最凶の魔法使いさん。冥土の手土産に――やっぱり、貴方の名前を教えてくれない?」
リーゼの曲がらない、そしてどこか憐れむような青、魔法使いの歪んだ赤を、開かせる。
……面白い。死の間際に、恐怖ではなく好奇心を優先するか。と。彼は尊大に、だがおごそかな響きを伴う声で――。
「――記憶に刻め、小娘。我が名はパウロン、この世の理を統べる偉大な災厄――パウロン・ヴィンテージとな。もっとも、オマエにオレの名を残す余白など、無いのだが」
その言葉を合図に、リーゼは銀色に光る瓶の蓋を抜く。
「ぁ?」
次いで迷いなくパウロンの前へと突き出した。
パウロンの眉が、わずかに内側へ寄る。
それは最凶の魔法使いが初めて見せた、ひどく間抜けな“空白”に映る。
「さようなら、パウロン。――また1000年後に会いましょ」
「ハ……?」
銀の光が触れた瞬間、赤い魔法使いの世界は反転した。
無であったはずの彼の未来に、堰を切るような情報が流れ込む。
魔力ではなく、圧倒的な質量の記憶。
一秒、一分、一年。積み重なる千年の月日が、赤く研ぎ澄まされた自我を、無情に塗り潰していく。
「が、あ……ッ!?」
視界が銀に染まる。
続いて爆発的な色彩がパウロンを襲う。
殺戮と破壊しか選べなかった赤い思考回路に、異物の――。
匂い。
景色。
体温。
――混入。
「やめ……ろ……オレは、オレ、は……!」
最凶の輪郭が、瓶から溢れ出す過去の重みに耐えかねて、内側からパキパキと。
拒絶の叫びは、押し寄せる“日常”という名の暴力に――掻き消され。
鋭利だった瞳から凶暴な光が急速に失われていく。
代わりに宿るのは永い時間を生き抜いた者にしか宿らない、深く、そしてどこか枯れた“銀色の光”――だった。
瓶から出てきたのは実際の光ではなく、パウロンという時間そのモノ。
個の歴史という銀色の海は、傲慢に胸を張るパウロンを優しく、逃れられぬ力で包み込んだ。
1000年分の情報の集積。
それは彼を殺すための刃ではなく“正しい刻”へと固定するための鎖。
――赤いパウロンの意識が、深い銀の底へと沈んでいくのを、リーゼは感じ取る。
前回と逆転する様な光景。
途中苦しそうな様子もあり、心配して。
「……大丈夫?」
銀色の髪が、風に吹かれて頼りなく揺れる。
「おぇ……。気持ち悪いのゥ……、いったい何が起きたんじゃ……? オェ」
瞬間、リーゼは本当の意味で“戻った”のだと確信する。
必死に内から生じる不快感を堪えている、見た目十代のお年寄り。
……よかった。本当に、戻ったんだ。
鼻の奥がツンとして、リーゼの視界がじわりと滲む。
そんな感情を抱えた――その時。
「ん? なんで小娘がワシのマントを羽織っておる?」
酔いが引いてきたのか、パウロンが、ジロジロと両肩からリーゼを包む己の外套を凝視して、問う。
「……ぇっと」
「まったく、頭は痛いし、気持ち悪いし、ワシのマントは勝手に貸し出されておるしで、いったい何なんじゃ……。――して、ワシの杖や帽子は、どこじゃ……?」
慌てる感じで周囲をキョロキョロと見回す。今にも、地面を這いつくばって探し始めるのではないかと。思った矢先、リーゼのすぐ足元に転がっている、緑色の尖った三角帽子と古びた長物の杖に気づいた。
「あーっ!」
そして老いた心とは思えぬ俊敏な動きで物に飛びつくと、愛おしそうに帽子を抱きしめ、杖についた泥を服の袖で丁寧に拭い始める。
「おお、よしよし。ひどい目に遭わせたのゥ……。――小娘! ワシの宝物をこんな無造作に放置するとは何事じゃ!」
「……私じゃないわよ、自分でやったじゃない……」
「何ィッ? このワシがじゃとッ? そんな訳あるか! 千年経とうとワシがお気に入りの物を――、……千年、――そういえば、あのミミズはどうなったんじゃ……?」
帽子を深く被り直し、杖を大事そうに握りしめて立ち上がる。ようやくヒト心地ついたであろうパウロンが、リーゼと既に暗雲晴れた空を交互に見つつ問い掛ける。
それを見て、心の底から安堵のため息をついた。後――。
「――覚えてるの……?」
「なんとなくの。薄ら思い出せてきたような、ないような、そんな感じじゃな」
「……どっちなのよ」
「まァどちらでもよい。――で、どうなんじゃ?」
「……、――倒してくれたわよ、もの凄く迷惑な“誰か”さんがね」
「ふむ。そうか、では帰るとしようかのゥ」
エ。あまりに淡々としたその一言に、リーゼは毒気を抜かれる。
さっきまでの決死の覚悟や千年の時間を戻した、あの魂を削るようなドラマは一体どこへ行ったのか。
呆然と、徐にこの場を去ろうとしている高齢者の動向に、――問う。
「帰るって……。今の状況、本当に分かってるの?」
すると足を止めるパウロンの杖が、ぐるりと手元の先で示す、かつては美しかった広場の変わり果てた様子。
「こんな状況になっておっては、いずれ誰かが来るじゃろ。この惨状の責任をも取らされるのは、絶対にゴメンじゃからの。こういう時は、さっさとずらかるんじゃ……、の?」
パウロンの言葉に、リーゼは引きツった顔をして、――同意する。
責任どころか、事の首謀者にでもされたら、即刻死刑が確定じゃない……。
「……そうね。一秒でも早く、ここから逃げましょ。――でもいいの?」
「何がじゃ?」
「私も、一緒に行っても……」
「嫌なら来んでもよい。いや、ワシとの約束を果たすまでは、じゃな。その後の事は好きにせィ、ワシは知らん。無論マントは返してもらうがの」
「……――変態」
「バッ、なんでそうなるんじゃッ! ワシはオマエの様なちんちくりんな小娘になんぞ、興味無いわッ。ワシが欲しいのはその情報じゃと、ずっと言っておるではないか!」
「知ってるわよ」
「ふぁっ?」
知っている。目の前の魔法使いにとって、自分は目的以外に価値の無い存在である事を。
だからこそ私も、せいぜい利用してやろう。と思っているのだ。
「――ほら、逃げるんでしょ。さっさとしましょ」
ふむ。と相槌を打ち、パウロンが先んじて砕けた石畳を杖で叩きながら迷いなく崩壊した広場を歩き出す。
夕闇が迫る瓦礫だらけの景色、遠ざかっていく銀色の裏側を。
リーゼは胸の奥をチクリと刺す寂しさで、足を止めたまま見送ってしまう。
だが、その歩みが止まっているコトに気づいた緑の魔法使いは、ひどく面倒そうに首だけをこちらへ巡らせて、告げる。
「何をやっておる? リーゼ。早くせんか」
……え?
耳を疑った。
一瞬の沈黙。次いで、全身に血が巡るような熱い感覚。で。
「……っ、分かってるわよ! どうせ私が居ないと、帰り道も分からないんでしょ!」
「違うわッ。なら勝手にせィ」
空に乗って届いたその名前は、驚くほど自然で。
まるで千年前から、呼び続けていたかのように――満ちた響き。
私は大きく目を見開き、そしてゆっくりと呼吸を楽にして、から、告げる。
千年の時を経て、今、この夕焼けの下で共に歩む者の――名を。
「待ちなさいよ、パウロン!」
貴方にとっては価値の無かった、ただの名前。くどい人代名詞。
でも私達にとっては、この瞬間の為に続いた、これから始まる結びの題名だ。
「――見てなさいよ、絶対に私は理想の日常をモノにする、から……!」
この賞味期限の切れたロマンと共に、私という“元”聖女を添えて。
「……誰に、言っておるんじゃ……?」
モチロンその答えは、現時点で、未確認――。
【付記】
今話≪Episode 1≫第13話で【アホマギ】の【序章】は閉幕となります。
次話≪Episode 2≫からは【本編】が開幕いたします。
そして、ここまでご一読くださった方々に、心からの感謝の意を込めると共に。
引き続き≪アホウ・マギ≫を
よろしくお願いいたします。m(_ _)m
“R8.0415”




