叩いて開かれよ神の門
お待たせしました。
今度王女の設定を展開していくにつれて再度史料と照らし合わせ、それを参考にep2の時系列説明を微修正しました
エリウテミスが物心ついた時から、その記憶に母はいなかった。
母について知っているのは、子どもの頃父がよく口にしていたことだけ。
北の草原を統べる遊牧民アスグーザーヤ、その一部族の姫だとか。
金の艶を帯びた褐色の長髪に繊細な体、踊る時は火の躍動を彷彿させるとか。
その踊りは美しいが、身体が弱いせいで父は一度しか見たことないといつも嘆いていた。
母のことを口にする父はいつも悲しそうな顔をしてた。
だから父を喜ばせるため、踊りを学ぼうとした。
最初は父もそれを許可していた。
北からも南からも踊るの上手い人を宮殿に呼び、好きに師を選ばせた。
外に出さないことに対して、せめてもの償いでもあっただろう。
幼いエリウテミスの日々は、クルンシュトゥからの教えと踊りの練習でいっぱいだった。
あれから6年と少しの間送ってきた平和な日常が、今ではエリウテミスの心の支え。
その後に訪れる決壊から正気を保つ唯一のすがりとなった。
毎年自分の誕生月に、父に踊りの練習成果を披露する約束だった。
でもその年のお披露目は、惨劇の中で幕を引いた。
エリウテミスはその晩、父が自分を見る目をはっきり覚えている。
最初は笑ってた。
驚きも隠せなかった。
けれど次第にそれは哀傷にすり替わっていく。
その中から虚無も滲み出る。
父の面持ちはしばらくそのまま固まっていた。エリウテミスにはその理由がわからなかった。
踊りが終わる頃、師範と従者やその場にいる衛兵たちも拍手している中、父は目の前まで突っ走り、自分を抱きしめた。
その腕に入れた力は凄まじく、呼吸すらも苦しく腰も折れそうになった。
困惑の中で一瞥できた、父の眼に湛えるのは欲望だった。
まだ状況を理解できていない師範たちは前に出て、王が感銘を受けている間に甘言を申し出ようとした。
その一瞬だけ、父は我に返ったようだ。
そして嫌悪は湧き出る。
嫌悪。
嫌悪。
血。
嫌悪。
やがて怒りが溢れ、その顔は噴き出る血と激昂で染め上げた。
いつの間にか父は帯剣を抜き出していたんだ。
一番近くまできた師範の何人かは切り伏せられ、他は恐怖の余りに腰を抜かした。
それでも足りなかったように、父は叫びを上げながら後ろの奴隷を次々と切り捨てていく。
衛兵たちが数を揃えて止めに入るまで既に七、八人はピクリとも動かなくなった。
血の海で呆然と佇んでたエリウテミスも彼らに保護され、その場から連れ出された。
その後クルンシュトゥから聞いたが、その夜の死傷者は十人以上出た。
生き残った師範たちも直ちに職を解かれ、出身地に追い返されたそうだ。
もっともそんな事を経験したのに自らこの宮殿に身を置くような人間はいるはずもない。
その時から、エリウテミスの寝室はもう主殿じゃなくあの塔に移された。
父とはもう昔のように気楽に会えない。伝言は全てクルンシュトゥか衛兵たちに任せた。
お互いあれ以来何度か顔を合わせる場を設けようとしてたが、父の自分を見つめる眼はあの晩から変わることはなかった。
身体の成長とともに、その奥に燃え滾る欲望の意味も分かるようになった。
自分がこれから辿る未来をクルンシュトゥに問うと、いつも切ない顔をされる。
その表情より明瞭な返事はない。
だからある日、エリウテミスはクルンシュトゥに訊ねた。
自分の身体の成長を止められる手段はないかと。
婦人は答えた。いずれ向き合うはずの未来は止めることはできないが、遅らせることはできると。
けれどその方法は巨大な苦痛をもたらし、毎日それを経験しないと効果がないと。
エリウテミスは決意を固めた。
惨めになる自分を見たくないからか、それとも惨めになっていく自分のたった一人の家族を見たくないからか、もう分からない。
どの道地獄だ。
クルンシュトゥがツテを頼り、秘密裏にある薬を取り寄せた。
それはこの地では知られていない、遙か東方由来の薬だった。
毎日部屋の整理時、その薬を入れた壺を奴隷にこっそり持ち込ませていた。
その中身は泥状の液体、動物の内臓をすり潰したような口当たりと生臭さ。
味は到底喉を通れるようなものではない。
その量を毎日飲めなければならなかった。
今でもたまに飲んだ後身体が拒絶し嘔吐してしまう。
毎度そんなことが起きると、エリウテミスは顔を壺にうずめるように泣きじゃくる。
そして思ってしまう。
こんな冥界の水を飲むくらいなら、いっそ身体を父に差し出せば、何なら今すぐ死の使者に導かれてもよいと。
でもこれは自分が選んだことだ。
だから泣き止んだあと、涙と鼻水も混ざったあの黒い泥を少しずつまた飲み込む。
クルンシュトゥの言う「苦痛」はそれだけではなかった。
食欲の減少、関節と筋肉の突発的な痛み、そんな小さな歪みも日常に入り込んだ。
匂いを遮るため部屋に焚く香も増やした。
身体に問題が起きる度、踊りの練習で気を逸らせるようにもなった。
あの晩から続いてきた地獄を、エリウテミスそうやって耐えてきた。
けどそれもいよいよ限界だ。
身体の成長はゆっくりでも確実に進んでいる。その兆候も現れた。
父の方もしびれを切らして執拗に医者と祈祷師を送ってくる。
もうあの薬でもどうにもならない局面まで来てしまった。
失意と混乱に苛まれる中、打つ手はとうとう神に祈る以外何もなくなった。
だからあの日、古来よりバビロンの守護神である木星が窓から顔を覗かせた時に、自分の手巾を投げ出した。
読み書きも刺繡もクルンシュトゥから教わったこと。
あれに縫った一文は最後のあがきだった。
「んでマルドゥク神は俺を指名したわけか」
闘技場から逃げ出した三人は、混乱に乗じて河岸に停まってる円形船を一隻盗んだ。
積荷から動きやすそうな服を拝借したブラヴァーセは着替えたいがため、操縦を妻たちに任せた。
「うぉおお、これ本当に…回っちゃう…」ハヌシスが漕ぎながら失笑した。
「今一応追われる身だから真面目にやってくれ。頼んだぞナイル川生まれ!着替え終わったらこっちも一緒に漕ぐから!」
するとイシテは振り向いてくんくんと嗅いできた。
「匂いがまだきついな…あんた向こう岸まで泳いで来いよ」
「全部終わったら風呂入るから今は勘弁してぇえええ」
川の上でゴタついてたが何とか力合わせて東側に着いた。
脱いだ血塗れの服は川に捨て、三人は岸に上がる。
西の衛兵たちはまだ闘技場の方へ集結している、向こう側から追って来る人影もない。
あの混乱で指揮系統が麻痺しているかもしれない。
乗り込むなら今こそ好機。
「あ、そうそう、これも渡さないと」
イシテは懐から一枚の金貨を取り出した。
盗賊の親玉から取ったものだ。上に歯形がついている。
「?」
ブラヴァーセは困惑な表情を見せる。
「部屋に置いてったものじゃないか、何でこんな時に?」
「こ・れ・が!」
ハヌシスも続いて小物入れから似たような金貨を二枚取り出し、放り上げては掴んでの繰り返しをしながら自信満々の笑みを浮かばせた。
「王宮への通行証ってわけさ」
「話まだ途中だったね。あの王女って事情説明のあとひたすら謝ってたの」
「で気まずいんだよ。いたたまれないって言うんだっけ?だからその場で言ってやった。てめぇを拾ったらまた助けに行くってさ」
「そこでほら、さっき闘技場の彫像をひっくり返したら階段になったじゃない?あの仕掛けを教えてくれたのよ。
何でもあの老婦人から聞いたらしい」
「あの婆さん何やら奴隷たちを統括してるって、だから色んな情報が耳に入るっぽい」
「この金貨のこともね。
ハヌセがまた来るって言い切ったから、今度は三人で潜入できる手だてはないかって訊いてみたの」
「流石にてめぇを闘技場から誰にも気付かれずに助け出せる方法はないから、その後騒動が大きくなるのも想定できた。そんな中また今回みたいにうまく潜り込むのは無理があるって言われた」
「だから『通行証』の話を思い出した。その正体は何なのか、もし闘技場にあるのだとしたらついでにパクって来れるし」
「でもそれ訊いたらさー、あの王女様が難しい顔をしたのよ」
「通行証あるのはあるけど、手元に一個しかないって言われて…」
今から二十年ほど前、シャマシュシュムーキン王が妃と共にこのバビロニアに君臨した。
父の死によるエジプト属国諸王の決起、兄弟の継承問題がもたらす国内の混乱。そんな中で有事の際に備えて、ウキン王は西から来た職人に四枚の金貨を打たせた。
その金貨こそが王宮への通行証、王の信頼に足る者の証。
手にする者は如何なる状況においても身分・出身を問わず王家の密使として宮殿へ自由に出入りできる。
王と王妃はそれぞれ二枚を保有していた。
のちに闘技場永世優勝者カラフォンソを近衛隊に迎えた際、王は自分が所持するうちの一枚を授けた。
その一枚はカラフォンソの失踪とともに紛失。
王女エリウテミスが現在所有している一枚は、母から受け継いだ物。
それが取り出された時イシティーシアは思い出した、壁にある模様はどこで見たのか。
「この極印、ムシュフシュだったのか!」
「名前知ってたのか!そう、マルドゥクに仕えている聖獣」
イシテの語りは続く。
「盗賊から同じようなものを一枚手に入れたと教えたら、王女もすっっっっごく驚いた」
「でこれがその紛失した一枚じゃないかって推測してた」ハヌシスが思わず補足する。
「何がともあれこれで二枚は手に入ることになった。けど一枚で通れるのは一人だけ。」
「でもお前ら今三枚手にしてるじゃん。残りのそれどっから盗って来たんだ?」
「一応王女から聞いたんだ。一枚は王の手元にあってもう一枚は王妃と一緒に埋葬された」
「墓を荒らしたのか?!」
「まぁ流石にそれをやる時間はなかったよ。でも王妃の遺体は庭園に埋められたまでは聞けた」
「うん。僕としても娘の前で母の墓をあばくとか言いたくないし、掘り出すにしても病死の遺体は危険だ。
王女を連れ出すだけなら二人でも問題はないはず。だから人数についてはこっちで善処すると言った」
「じゃどうやって……」
「王宮を出る前にあのクルンシュトゥという婦人が渡してきたのよ。これが王妃の持ってたもう一枚だって」
「えええぇ…」
「そんでどうやって手に入れたのって訊いたら、なんか王妃を埋葬する時、手癖の悪い奴隷がいて、くすねたのを目撃したんだってさ」
「不問にする代わりに渡してもらったけど、こんな貴重な物返すにしても処刑されかねないし、どこに置いても安心できない。だからずっと肌身離さず持ち歩いてたって」
「あの婆さんが言うには、あたしたちが去った後王女が久しぶりに嬉しそうにしてたから、話を全部聞いた。これをこの場で差し出せたのも、きっとマルドゥク神の御意思。
そんでめちゃくちゃ感謝されたのよ。ホレ~」
ハヌシスは金貨をブラヴァーセに向かって放り投げた。
それを受け取ったら、イシティーシアも笑って三枚目を手渡した。
「馬はまだ預けてるけど、宿の荷物は全部片付けて、貴重品は城外に隠した。
いつでも発てる」
「バビロンの宝は持てるだけ頂いて行こうぜ、大将」
街道の果てはもうすぐそこまで。
目の前に立っているのは歩哨と衛兵。そして水に隔たれた孤独な根城。
「止まれ!この先はっ」
「知ってる!つい先日お邪魔したばっかりだ」
「隊長!こいつあの賊です!」
「死にに来たのか!女も連れおって!」
あの隊長と呼ばれる縮れ毛が剣を抜くと、他の衛兵たちも武器を手に構えた。
それに対してブラヴァーセはゆるりと手のひらを広げて見せる。
午後の太陽は横から射し、燦爛たる光は指に集い、放たれ、すべての視線を奪った。
「我はブラヴァーセ。
太陽神の御前に、バビロン守護の使いである証を示す。
神の威光を継ぐ者が定めし律条に則り、我らにはここを通る権利がある。
マルドゥク神の御名の許に汝らに命ずる」
「道を開けィ!」
この章で少しバビロン神話に関する言葉が出てくるが、読みづらかったらすみません。
それ以外に使った言葉の説明も少々
アスグーザーヤ(Ašguzāya):スキタイ人のアッカド語読みの一つ。
ヤトラウ(jtrw):古代エジプト語で「川」を意味する。そのままナイル川を指すことも。
さていよいよ終章が来ます。次は長くなりそうです。
ご期待ください




