闘技場に咲く猩紅
闘技場と言う場所は、浴場とさほど変わらない。
普段どれだけ着飾っても、ここに踏み入れた時点でもう「人」という皮を脱いだも同然。
上に居座ってるのも下で闘ってるのも、叫びを発するのも血を浴びるのも、皆等しく獣だ。
決定的な違いは一つだけ。
それが「上」と「下」を隔てる高さ。
殺し合うための最下層と一般客席の床の落差は約二丈。泥煉瓦で築き上げた壁はきれいに削られ、人は素手で登りきることは不可能。
客席一階の前には木製欄干もあるが、それはあくまで興奮したバカの転落を防ぐため。そもそも試合中に狙われながら工具を使い登ろうとしても、衛兵は目をつぶってくれないだろう。
こんな安心感に守られて、「上」にいる奴らは自分が文明であると勘違い、「下」で発生するすべての野蛮を娯楽だと嘲る。
ここで流がされる血は観客を官能的に満たす、ただそれだけの意義を持つ。
首都ニヌエとの緊張状態が長く続いてるこの現状、人々は疲弊するどころが、逆に異常な熱狂を燻った。
人は流血が見たいと渇望する、だからここは血の池と化す。
昨日未明、ブラヴァーセは王宮で捕まった。
そして今、最下層と連結してる地下の屯所に収容されている。
てっきり処刑されるかと思ったが、いや、実際に死を宣告された。
でも実行待ちの拘留中に、王宮から命令が来たそうだ。
「闘技場開放に際し、バビロンの民を喜ばせられる者はすべてそこに投入する、その賊も含む」との御達しだそうだ。
おかげで一日は生き延びれた。
まあ、下手したらそれも今日までだけどね。
この屯所の構造は至って簡単。闘技場最下層に繋がる出口と、囚人や奴隷を輸送する地下道から通じる入口しかない。
もっとも、今朝入口側からの咆哮と騒ぎから察するに、動物や物資の搬送もあそこを使うと見た。
寝床は一人ずつ木造の仕切りに分けられてるが、一日中自由に動ける範囲としては狭い。逃走を防止するためか、兵士が見張りをしていて勝手にそこから出ることも許してくれない。
家畜小屋の方がまだ幾分思いやりがあるだろうにと、ブラヴァーセは苦笑する。
昨日連れ込まれてから水しか与えられてない。もうすぐ死ぬ奴に食糧を渡すつもりないみたいだ。
ずばり、逃げられない。
ここは闘技場に出るしかない。
ブラヴァーセは腹をくくった。
狭い所での乱闘は苦手意識はあるが、何とか逃げる隙と経路を見つけなければ………
『ガチャン』
寝床の前に兵士が来て、床に二つの物を放り込んだ。
剣と盾だ。どっちも青銅製。
剣は質素な直剣。刃渡りはおおよそ肘から指先までの長さ。
盾もケチケチせずにちゃんと胴を隠せるほどの大きさの楕円形。
「驚いた。ちゃんとした金属物だね。
メシもくれないからてっきり本番も木造の剣でごっこさせると思ったのに」
「減らず口を叩くな。用意が出来たらさっさと出ろ。順番に並んで入場するんだ。」
ブラヴァーセは「はいはい」と応じながら服をはたき、武器を手にする。
盾はあまり使い慣れないが、捕まった時の薄い一枚のままである以上、服の防御力は裸同然。
攻撃はすべてこれで受けないと死を意味する。ちゃんと盾の裏にある固定用の縄に右腕を通し、使い勝手を確認した。
屯所の出口へ向かう人々を見て、ふっとハヌシスの顔が脳裏をよぎる。
自分がこんな所に出てると知ってたらさぞ悔しいだろう。あいつ血みどろも金銀財宝と同じくらい好きだから。
むしろなんとかしてあいつをここに呼び出したいな、そしたら生き残る可能性も大いに伸びるのに。
実際に近接戦ではイシテが強いのに、ハヌセの殺しっぷりはやけに威圧感がある。
一対多の戦闘では重宝される資質だ。
でも今更来るはずもない人間のしたり顔を思い浮かべても仕方ない。「やれやれ」とブラヴァーセは嘆きながら闘技場最下層に足を踏み入れる。
立ち入った瞬間、もう死の匂いが鼻につく。
地面は完全に乾いてるのに、何故か死臭がこの場を漂う。
毎年ここで大量の人が死んでいくことを嫌でも想起させてくれる。
地面に薄く敷いた砂は一体どれほどの血を吸ったか、赤い河がどこまで溢れていったのか。ついついそんな想像をしてしまうが、本当は知りたくはない。
ブラヴァーセは盗賊だ、盗賊は常に活路を見据える。
けれどこの場から生き残るためには、冷酷さと残忍さが必要だ。
だから思考を切り替える。「自分」という意識をこの時この場所から引き剥がそう。
そして、その剝離した視点から周りを見渡す。
背後からまだ人がぞろぞろ入ってきている。全部頭数に入れるとここにざっと六、七十人くらい。
肌色も顔つきもそれぞれ。
格好から見るにーー罪人、奴隷、流浪者。
個人個人の詳細は聞く気もなかったが、およそそんなところか。
金か、名誉か、自由か。
欲しい物はなんであれ、こんな掃き溜めみたいな所からは何も持っていけやしない。
なら上はどうなんだ?
ブラヴァーセは視線を観戦席のへ向ける。
皆同じ表情をしている。血を欲しがる表情だ。
むしろ参戦する連中より暴力を求めているのは観客の方だったかも。
観戦席の一箇所、ちょうど屯所出口の向かい側に、斜めに突き出している大きい柱が立てている。
柱には女神らしき姿が彫ってあるーー恐らく「天の主」だろう。
その頭が支えているのは観戦席一階から突出している部分。今一人の男がそこに立っている。
その男ーー装備から見るに恐らく兵士長だろう、最下層のこっちに向かって片手を高く挙げた。
次第にその周りの観客たちから、やがて場内の全員が静まり返った。
でも彼らの表情は変わらない。
沈黙がかえって険悪さをもたらす。
男は手を挙げたまま、大きな声をこの闘技場内に響き渡らせる。
「親愛なるバビロンの同胞よ、皆名誉と悦びを浴びるためここに集まれり。
今回もまた、我々は闘いに長けた選りすぐりを呼び寄せた。
我らが君主、シャマシュシュムーキン王の名の下に、
私は此度の闘技大会の対戦形式を宣告する。
武器と方法は問わぬ。最後に立っている一人を除き、全員が倒れて血を流し尽くすまで。
全ての戦士を同時に投入し、イシュタル神が求めたのは ーー 大乱戦!
その溢れんばかりの熱血で、来年の豊作をもたらしょうぞ!」
「乱戦」の言葉が出た時点でもう歓声は上がってた。あれだけ大声の持ち主でも最後の一言はかき消されそうになるくらい。
絶えずに歓声と叫びが続く。
どう切り開くか考えてる最中に、背筋からの寒気が警鐘を鳴らした。
後ろから気配が迫る!
右手は意識より先に反応し背後へ向かって盾を構えた。
「ドパンッ!」という音と共にブラヴァーセは後ずさる。
どうやら開始の号令はなく、そのまま勝手に始めるのはバビロン流儀のようだ。
勢いに任せてそのまま後ろからの襲撃者と距離を開けたのに、また横から新手が攻撃を仕掛けてきた。
ブラヴァーセは身体を左に逸らすことで振り下ろされた剣を躱し、すぐさまに右手を水平になぎ払う。
盾は壁のように「ポカン」とその者の頭に直撃し、それを無力化した。
ふらふらしてる野郎を最初に攻めてきた奴に向かって蹴り飛ばし、ブラヴァーセ自身は脱兎のように走り去った。
培ってきた戦闘経験が言ってる、今は情勢を見極めないと。
ブラヴァーセはしばらく揉み合う人々の死角を転々とし、やがて外周へ回り、この混乱の流れを見出そうとする。
そしたら面白いことに気付いた。
これほどの人数の混戦と言えど、皆自分以外近づいてきた人間を見境なく切り付けているわけではない。
実際は大柄な奴を中心に、それを取り囲む激戦区が点在している。
体格がよく、強そうに見える奴は優先的に的となり、周りの人間から攻撃を浴びる。倒されたらその次の目標は付近にいる似たような体型の奴に変わる。例えさっきまで協力してたとしても容赦なく切り伏せられてしまう。
一部例外もいるが、そんな「殺戮の渦」がこの闘技場で同時にいくつも発生しているのだ。
恐らく事前に約定を交わしたわけではない。人は無意識に手を組んで自分より強い敵を倒そうとしている、その次が自分になるかもしれないだというのに。
まるで砂で作った城だと、ブラヴァーセは思った。
時々傍から飛んでくる攻撃を盾で弾いて、向かって来る人をそんな「渦」に蹴飛ばしながら。
城は飛んで来た「石」に容易く崩されるが、またすぐに余所からの砂を取り入って、血煙を揚げながら新たな形を作る。そんな繰り返し。
そして「渦」から「渦」へ、できるだけ他人の注意を引かないように移動するブラヴァーセ。
攻撃は避けるか盾で防ぐかにして、未だに剣を使う形跡はない。
それは早過ぎた負傷を避けるためであり、同時に実力温存のためでもある。
何せこんな場面はいつまでも続くわけではない。
やがて人数は減り、歓声の中で参戦者は次々と血を噴いて倒れる。すると「渦」もまた互いにぶつかり合い、融合していく。
食い千切りながら最悪の形へと変貌を遂げる。
ついに生き残りは二十人……いや十数人しかいなくなった。
さっきまでの流れも変化していった。
「殺し」に痺れた眼は、猛りに溺れてるように見えた。
体格や外見にお構いなし、隣の奴から切り付ける。 ――「生き残る」ための行動が、「勝ち誇る」ための行動に変わった。
「ッフゥ…くァ!」
近くにいた奴がこっちに目がけて剣を振り下ろす。何度も何度も、しつこく。
盾で弾くのにも限界はある。ブラヴァーセはようやく剣を持つ左手を動かした。
押しのけて、刃を首に当て、引く。
たったそれだけでまた一人が倒れた。残りはあと九人。
だが今ので他の輩もこっちに目を付け始めた。ゆっくりこっちに向かって来る。
手を伸ばせば届く勝利を目前に、不気味な笑みを浮かべながら。
最後の「渦」が形成しようとしている。ブラヴァーセがその中心だ。
もう逃げ回ることはできない。
敷かれた砂と乾草は溢れる血を吸って固まり、倒れたはずの肢体がピクピクと痙攣する。
そんな光景を目の当たりにして、それでもまだ「足りない、足りない」と上の奴らは言う。
「殺せ殺せ」と急かし、雄叫びをあげ、まるで何かを得たように喜ぶ。
そうだな、と。
ブラヴァーセは左手で剣を握りしめた。
迫りくる敵の歩幅を合わせ、角度を少しずつ変えながら後退する。
できるだけ自分の前方に引き寄せるように。
高く座っていても、獣は獣だ。
血が所望であれば、血を見せればいいじゃねぇか。
まさかここに来て踊りが見たいとは言うまい!
まだ後ずさると見せかけて、ブラヴァーセは急に前へ踏み出す。
引きつけた最前の一人の腕を切り落とし、その身体を思いっ切り蹴り飛ばす。
いきなり飛んで来たものに足を掬われた後ろの二人が反応できてないうちに、その首を一斉に刎ねた。
残り六人!
後から来た四人が一気に迫り、円になって囲んできた。
包囲が完成する前にブラヴァーセは一人の足を切り付け、盾に体重をかけムリヤリそこから突破した。
畳みかける四人から距離を取りながら、攻撃を防いだ隙間に剣で届く部位に傷を刻んでいく。
消耗戦は不利でしかないと、流石に焦ったブラヴァーセ。
一番前の二人が一瞬重なる機会を掴め、剣でその腹を貫いた。
手応えはあったけど、この感覚だと流石に二人めまでは仕留められなかったみたい。
急いで盾を相手の上半身にぶつけ、反動で剣を引っこ抜く。
でも予想外に、相手は退いていなかった。
二人の後ろから急に飛び出し、左右に繰り出される二通の斬撃はまさにあうんの呼吸。
金属の鈍い衝撃音とともに、ブラヴァーセは蹌踉けた。
そのままに後ろへ向かってごろりと転回し、体勢を立て直そうとする。
でもよく見ると盾の一部が斬り込まれ、剣も刃こぼれが激しい。
青銅は衝撃に弱い。仕方ないっちゃ仕方ないだけど、このままだと劣勢に追い込まれる一方だ。
他に使える武器を探しながら応戦するしかない。と、思ったその時。
目の前の二人は肩ごと削がれ、もう一人は頭潰され、首の付け根まで凹んでしまった。
倒れ行く三人の屍、下手人はその背後より現れた。
これで残りは二人。
二人とも、長柄武器を携えている。どうやらあっちの方がいち早くいい武器に取っ替えたみたいだ。
その一本は斧、刃の部分がギリシャ文字のϵに似ている。結構昔から広く使われている戦闘用斧の類だ。
もう一本は、恐らく鎚だろう。しかしどうもその形は不規則で不気味。まるで……そうだ、雑に熔かされた銅に、木柄を取り付けたみたいな。あの外形は熔かす時に温度を保てず偏りでできたとしか考えられない。醜いそのものだが、かえって撲殺にはもってこいの形をしている。
これほどの凶器、最初の混戦を観察する時に気づくべきだった。
間合いを詰めれば人を斬れなくもないが、刃こぼれした剣であの二本と渡り合えるとは思えない。
どっちを狙ってももう一方に潰される。そうなると自動的に勝者が決まってしまう。
二人はそれが分かりきってて、こっちへ詰め寄ってる。
状況は依然絶望的。
ブラヴァーセはその二人の身長と釣り合わない二本の武器を睨み、どうにか活路を見出そうとしている。
すると、本当に見えた。
この場ではない、一番高い観戦席の向こうに、居るはずもないあの見慣れた姿を。
ハヌセとイシテだ。
妻たちは何かを掴み、全力でこっちに投げて来た。
それこそ最後の希望。
ブラヴァーセはすぐさま左の敵に剣を飛ばし、空いた手で盾をも外して、それを思いっきり右の敵に向かって投げつけた。
二人が気を取られてるうちに、その側面を抜け、物が落ちた場所へ一直線。
そしてやっと気がついた二人は、斧と鎚を振るって追いかけた!
だがもう遅い。そこに立っているのは既に得物を手にしたブラヴァーセだ。
白く輝くその光は、この血塗れた茶番の終りを告げる。
あれほど騒々しかった客席が今や誰の声も出ない。
木柄が断ち切られた音ですらはっきり聞こえた。それどころか、斧は先端の青銅ごと切り落とされ、廃物と化した。
たったの四振りで、これほどの業を成した。
まるで刹那の舞のように、現実味に欠ける。
あの二人がもう一度手元を確認しようとしたら、今度は目に映る景色ごとひっくり返った。
勝負あり。
ブラヴァーセは二本の曲刀を腰の帯に納め、兵士長からの宣告を待つ。
でもその時一瞬、ほんの一瞬、何かを忘れたような気がした。
そして奥底からこみあげて来る不安と緊張感。
今朝……今朝!何かがここに運び込まれてた!
突如闇から踊り出る二つの影がその不安を現実の物にする。
今朝聞こえたあの咆哮。あれは二頭の獅子だった。しかもたてがみから見ると二頭とも雌。
共同狩猟に長けてる雌が連携を取れば、一人の人間ごときただの餌に過ぎない。
どうやら最初から勝たす気はないみたいだ。
ブラヴァーセは心の中で舌を打った。
死体に隠れてやり過ごす算段を立て、目をキョロキョロさせて一番近い死体の山を探そうとする。
しかし、妻たちはブラヴァーセにそんな無様な真似を許すはずもない。
「ガガガガ、ガガガガガガガ……ドカーン!」
強い震動が背後から伝わる。振り向くとイシュタル神の柱はひっくり返って、その背中が階段となっている。兵士長とその側近も階段とともに落ちてきた。
距離ならこっちのほうが近い。
ブラヴァーセは飛ぶ勢いで階段へ向かって走り出す。
後ろから咆哮が聞こえたが、構ってはいられない。
けれど駆け登る段が金字塔のように高くて険しいとこれほど感じたことは今まで一度もあったのだろうか。
気配はすぐ後ろだ、もう追いつかれる。
背中に爪を立てられる感触すらしてきた。
なんてことだ、せっかく妻たちと再会できたのに。
二人はすぐ目の前なのに、もはやこれまでなのか……
もう………
…………………………
……あれ?
次の瞬間、ブラヴァーセが見えたのは階段を降りる妻二人の姿だった。
自分とすれ違う時、ハヌセは鎌剣を大きく振り下ろし、イシテもカエストスを付けた拳を繰り出した。
すると後ろからまた衝撃音がする。
それに連ねるのは痛々しい獣の叫び。
振り返ったら階段から転び落ちる獅子二頭、こんな光景を見れるとは夢にも思わなかった。
「え?一撃で?……殺ったのか?」
「アハッ!残念、峰打ちだ♪」
「眉間を打っただけだ。話はあと!逃げるぞ」
観客たちも他の兵士もこんな出来事に驚いて全員固まった中、三人はすかさず立ち去った。
街路に出て間もなく、闘技場から物凄い悲鳴と咆哮が響き渡る。
そして狭い出口をわれ先に出ようとする人々の群れ。
つっかえたりもみ合ったり、それでも死に物狂いの顔で外へ向かって一目散に逃げる。
「そうだ、逃げろ。逃げればいい。これがお前らが欲しかったものだ。」
その流れに紛れ込んで、三人は逃げ果せる。
これでようやく、「上」と「下」の区別はなくなった。
獣たちは血を求めた、だから血は与えられた。
めでたしめでたし、
と、ブラヴァーセはそう思った。
ようやく宿に戻れたブラヴァーセ。
そこから聞かされるこの地の真実。
一体王宮で何が起ころうとして、
その因縁に解かれようはあるのか。
定められた条に則り命ぜよーー
次回:
叩いて開かれよ神の門




