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県境の川に架かる長い橋を渡って、それから更に市営バスで十分ほど行った先に、その家はあった。着いたときには、夏特有の、夜とも夕ともつかないような奇妙な時間帯になっていた。
【夜の映像だった。あの川から、ここまでの道を辿る映像。たぶん、車を使ってた。車の窓から見る景色だったから】
途中で、歩き慣れていない小町が疲れてしまったため、鋭希は彼女をおぶってここまで来た。背中で彼女がぶんぶんと揺れたので、降りたいという意思表示だと思い、背から下ろす。小町は、先程の植木鉢の破片の一つを握り締めたままだ。
【それ以上は分からない。この物体には記憶が混同している。この破片には、かなり以前に作り手の気持ちが強く込められている。男の人が、自分の愛する女の人へ、丹念に時間をかけて、この鉢を作った記憶】
「きっとそれは、谷原さんの旦那さんの記憶だね……」
しかしその鉢は、持ち主から遠く離れた河原に無残に投げ捨てられていた。
「きっと、独特の形だから、鉢を見られて盗んだことがばれないように、わざわざ捨てに来たんだ……」
小町もその意見に頷いた。
鋭希は目の前の家を見る。何の変哲もない、築十年くらいの二階建て一般家屋だ。家の中には明かりが点っている。表札には「仁村」とある。ここに果たして犯人がいるのだろうか。鋭希には分からないし、推理も出来ない。
しかし、鋭希は小町を信じた。これまで小町が伝えようとしてくれた、その「意思」を強く信じた。
駐車場に一台の車が停まっている。
「読めた記憶に、あの車はあった?」
【分からない。私が見たのは自分が移動している映像だから】
小町がひときわ強く、鋭希のカーディガンの裾を掴んだ。
「大丈夫、僕がついているから」
鋭希はインターフォンを押した。
永遠にも感じられるような、数秒の静寂の後、
「はい」
という返事がインターフォン越しに聞こえてきた。女性の声だった。
「こんばんは。お忙しい時間にすみません。実は、家の猫がそちらのお宅に入ってしまったようでして、もし宜しければ、お庭を探させていただきたいと思って参りました」
自分は嘘を吐くのが苦手だと思っていた鋭希だったが、立て板に水と言わんばかりの勢いで口が回った。嘘を吐くのは意外に簡単なのだと鋭希は心の隅で思った。
「……そうですか……」ぼそぼそとした女性の声が返る。「本当に、うちに入ったと聞いたんですか?」
「はい。実は、今日は一日中、この辺りを探し歩いていたのですが、近所の方から、こちらのお宅に、ちょっと前にうちのと似た猫が入っていくのを見かけたと。えーと……」鋭希は少し考え、駄目押しをすることにした。「うちの下の子が」云いつつ、小町の肩に手を置く。「とても可愛がっている猫でして、出来れば早いうちに見つけてあげたいんです」
すると、若干の沈黙があり、
「……分かりました。私も一緒に探すので、どうぞ入ってきてください」
という返答があった。
「ありがとうございます」
カメラがあるかは分からないが、鋭希はインターフォンに向かって恭しくお辞儀をした。
二人は顔を合わせて頷き合う。門のフェンスをがらがらと引いて、敷地の中に入らせてもらう。
玄関が開いて、銀縁の眼鏡をかけた女性が出てきた。年は四十過ぎくらいだろうか、エプロンをしている。夕食の準備中だったのかもしれない。
「庭を探したいのよね?」
彼女――仁村は少し焦ったような口調だった。
「すみません、お忙しそうな時に」
「いいえ。ではこっちから回ってもらえる」
玄関の横を通っていく。小型の物置と塀の間をすり抜けるようにして歩いていく。塀は鋭希の頭が隠れるほどの高さがあった。
「どのあたりで見たって?」
仁村に問うた。彼女は先を歩いているので表情は見えない。
「裏庭の辺りだそうです」
「……じゃあこっちよ」
砂利が敷かれてはいるものの、鋭希の腰ほどもある雑草が生い茂った中を行く。随分と長い間、人の手が入っていないようだった。ふと後ろを見れば、小町が歩きにくそうにしている。鋭希は、小町を抱き上げて歩くことにする。
「うちの裏はここだけなんだけど」
示されて目を向けた空間に、鋭希は絶句した。
まず五感を通じて鋭希の脳に押し入って来たのは、香りだった。
香り、などという穏やかなものではない。暴力としか思えないような強烈な匂いだ。
鼻が曲がるような、目が潰れるような、そんな異常さを伴った、花の匂い。
更に、そこに広がる光景。
大量の花弁が視界を埋め尽くす。その色彩が目を犯す。雑草の茂る庭に、無造作に植木鉢やコンテナ、プランターが並べられている。緑色の大きなリヤカーが転がっている。薄闇に映えるような赤や黄、紫のバラ、純白の花弁を覗かせる月下美人、星型の花を無数に垂らした定家蔓、今はもう蕾んでしまった朝鮮朝顔、夏を感じさせる桃色をした浜茄子の花、小さな観音でも乗っていそうなくらい穏やかに咲く泰山木……それ以外にも鋭希が名を知らない、あらゆる種類の夏の花が乱れるように咲いていた。
そしてその中には。
先日、ホームセンターで見たエンジェル・フェイスや、クチナシ、カサブランカもあった。
鋭希ははっとして、腕に抱いた小町を見た。小町は無を湛えた変わらない目で、庭を見つめていた。
「ちょっと探しにくいと思うけど、あっちの方は私が探すから」
花の群れを指さして仁村が云った。
「……すごいお花ですね」
鋭希が呟いた。
「ああ、驚いた? うちは私の母と一緒に暮らしているんだけど、ガーデニングが好きで……これもすぐに直植えする予定なの」
「嘘でしょう?」小町を信じる気持ちは、もう既に確信に変わっている。迷いはなかった。「僕たち、これを探してここまで来ました。奪われたものを取り返す為に」
仁村の顔が歪んだ。