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 日比谷家で冷やし中華をご馳走になってから数日が経った朝のことだ。


 鋭希が骨董荘一階部の大家室で目覚めたときには、既に日は高く上っていた。午前十時。昨晩は、かなり遅くまで勉強していたから、その分、寝過ごしてしまったらしい。


「きちんと自己管理できるようにならなきゃな……」


 頭を押さえて身体を起こそうとした。だが、自分の身体なのにまるで動かない。何か重石のようなものが、腰から太腿の辺りに乗っていることに今更ながら気づく。

 小町だった。布団の上から、鋭希に跨るように座っていた。小町はとても体温が高い。鋭希は小町の微熱を受けたせいか、寝ているうちに汗ばんでいたようだ。


「どうやって入ってきたの」と云ってから鋭希はすぐに思いついた。鋭希は、たまにふらりとやって来る剛太郎の為に、玄関横の洗濯機の裏に合鍵を隠すようにしている。おそらく小町はその記憶をドアあたりから「読み取った」のだろう。


 小町が鋭希の目の前に星柄のメモ帳をさし出してきた。どうやら、小町は伝えたいことがあったが、鋭希が起きてくるまでずっと待っていたらしい。

 鋭希はねぼけまなこで小町のメモ帳を受け取る。既に開かれていたページを見て、はっきりと目が覚めた。


【お母さんのお花が盗まれた】


 

 イングリッシュローズは、古きよき薔薇らしい花の形に豊かな香りを持ち、更に四季咲き種として年中に渡って美しさを楽しめることから、極めて人気の高い園芸品種だ。

 小町が今年の母の日に、そのピンクの大鉢を早苗にプレゼントした。鋭希が薦めたのだ。


『いつもお世話になっているお母さんに、何かプレゼントしたら喜ぶんじゃないかな』


 そもそも小町は「母の日」を知らなかったし、これまで早苗に何かをプレゼントしたこともなかった。鋭希は世間一般でいう「母の日」について、小町に丁寧に説明し、小町から何かをもらえたら、早苗はとても嬉しく思うだろうということも教えた。小町は最初のうち、半信半疑だったが、鋭希に協力してもらって、無事、早苗にラッピングされたイングリッシュローズをプレゼントすることが出来た。早苗は嬉し泣きをして喜んだ。このとき、【泣いてる。失敗だったわ】と落胆する小町を納得させるのに、鋭希は相当な苦労を要した。ちなみに小町が一番スタンダードな「カーネーション」を買わなかったのは、【あれは店頭で幾つか触って視たけれど、他の子たちのありきたりな思いが、既にいっぱい蓄積していたから買う気にならなかった。私の思いが入り込む余地がない】ということである。

 そのイングリッシュローズが盗まれた。アパートの敷地内とはいえ、鉢を屋外に置いていたことが原因だったかもしれない。南側の壁沿いに並べていた。小町のプレゼントに感涙した早苗が、骨董荘の皆にも楽しませるために、外に飾ることにしていたのだ。

 ――けれど、敷地の奥にまで入ってきて、わざわざ盗むなんて……。

 そこまで考えが及ばなかったことを鋭希は後悔した。


「このこと、早苗さんは――」


【知らないと思う。朝から急いでお仕事に行ったから、気づく暇なんてない】


 小町は即答した。早苗は月に何度か早番の日がある。だから、小町も今朝は早くから鋭希のところに来ていたのだろう。


「昨日までは花はあったよね?」


 小町は首肯した。


【犯行は昨晩から今朝にかけて行われたということ?】


「そうだね……」


 鋭希は昨晩について思い出そうとした。夜遅くまで公務員試験の勉強をしていて、今朝は寝坊した。記憶はそれだけしかない。ふがいない自分を改めて恥じた。

 鋭希の上に乗った小町が、鋭希を揺らそうとするかのように華奢な身体を動かした。


【私、犯人を見つけ出したい。お母さんへのプレゼントを取り返したい】


「うん」鋭希は力強く応える。「絶対に犯人を見つけだそう」



「えー? 昨日の夜、何時に帰ってきたかッスか?」

「うん。鶴川さん、いつも帰りが遅いじゃない。昨晩は何時くらいだったかな」


 鶴川は住人の一人だ。現役の高校二年生女子らしいのだが、この骨董荘二階部の一室に一人で暮らしている。何の因果と理由によるものなのか、鋭希は知らない。

 ブラウス一枚着たきりで玄関に出てきた鶴川がふらふらしながら話し始めた。昨晩の酔いが抜けてない様子だ。


「昨日はー、駅前のスタジオでメンバーと今度のライブのリハやっててー、その後デニーズでダベりつつグダりつつー、駅前広場で酒盛りしつつー、まあ二時くらいには帰ってきた感じッスねー」


 鋭希が聞いた話によると、鶴川はあるロックスターの生まれ変わりらしい。というか、本人がそう自称していた。高校の友人たちとロックバンドを組んでいて、今度のライブには鋭希も是非来てくれと云われている。愛用しているのは一九六五年製フェンダー・ジャガーのレフティモデルだ。以前、『でも鶴川さんって右利きじゃないの』と鋭希が訊いたら、『いや、そういう問題じゃないッスよ。このジャガーも、あたしが前回死んでから一〇年以上もの間また使ってくれるのを待っててくれたんッスから、ここで弾かなきゃ女が廃るッス』ということらしい。しかし、当のロックスターは男だったはずだ。


「二時か」鋭希もまだ起きて勉強をしていたような気がする。「それじゃあ、帰ってくるときに怪しい人影とか見なかったかな」

「え? え、なんスかそれ。なんかスメルズ・ライク・クリミナル・ケースがするんスけど」


 鋭希は花泥棒について説明した。


「えーまじスか。小町ちゃんの花が盗まれたんスか。あーでも分かんないッス。あたしもかなーり酔ってたし、むしろその瞬間はあたしが一番怪しい人影だったっぽいッス」

「そうか……ありがとう」

「お役に立てなくて悪いッスね。あたしに何か出来る事があったらどんどん云って欲しいッス。小町ちゃんはここの皆のマスコットなんだから、えーきさんだって悲しませちゃ駄目ッスよ」


 鋭希は鶴川に礼を云うと、階段を降りて、小町の下へと戻る。

 小町は鉢の持ち去られた場所で、残留思念解読を試みているところだった。


「何か分かった」


【収穫なし】


 小町は近くの壁や物干し竿やなんかに触れてみたようだが、何も読み取ることが出来なかったようだ。実際、これらのものは犯行の際には殆ど関係なかっただろうから、当然のことではあった。


「……このあいだ、早苗さんが花泥棒の被害に遭った人たちの話をしてたよね」


【山吹さんと谷原さん】


「よし、聞き込み調査に行こう」


 今日の試験勉強は緊急休講だと鋭希は決意した。

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