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大学に通い始めて3年目にもなると、このキャンパスには、講義や演習では使い切れない教室が多くあって、どの曜日のどの時間帯にどこの教室を独占できるか、なんてことがわかってくる。油画専攻のある友人は、講義の時間割よろしく「空き教室時間割」なるものを作っていて、それによれば、曜日によっては一日中使われていない教室なんてものもざらにあるらしかった。
そして俺にもお気に入りの教室なんてものがあって、そこは教授らが研究室を構える研究棟から遠くアクセスが悪いのと、AV機器が備え付けられていない教室だから、という理由で、ほとんど講義では使われていない部屋だった。
夕日と俺は、そこで一緒に欧美の課題を進める約束をした。
毎週水曜3限後と、金曜4限後の各2時間程度。二人のスケジュールをすり合わせて予定を組んだ。
一緒に、といっても、ただ同じ本を共有するだけのことで、二人で知恵を出し合って高め合おうなんてことはない。夕日は全国有数の国立大生の有席者なだけあって俺とは頭の造りがちがうのだ。まぁ、困ったことがあれば、助言を求めてみようなんてことは、考えているのだけれど。
俺はほとんど本には触らず夕日に使わせて、自分は持ち込んだラップトップでレポートを進めたり、図書館で借りた他の資料を読み進めたりしていた。俺はいつでも読むことができるが、夕日には週に2度の時間しかない。彼はひたすらページをめくって、必要なところだけノートに書き写していた。俺はいわば、貴重書についてきたオマケのようなものだ。
けれど、本を共有する方法なんていくらでもありそうなものなのに、こんな手段を提案したのは、此方にだってそれなりのメリットがあるからだ。俺はキーボードを打つ指を停めて、真向かいに座る君島夕日を盗み見た。
今まで後ろ姿か横顔程度しか拝んだことのなかった彼は、いくら見つめても飽きなかった。
講義のときに掛けていたシルバーフレームの眼鏡は、日常使いではないそうで、今は掛けていない。教授が書くホワイトボードの文字は小さくゴニョゴニョしているから、いくら最前列に座っていても、裸眼では見えにくかったらしい。
手本のように美しい文字も、それらをすらすらと綴る指からも、目が離せなかった。ミニレポートの文字を見た時から均整の取れたきれいな文字を書く男だと思っていた。俺はお世辞にも上手いとは言えないから、とても魅力的に感じる。羨ましい。
ミニレポートといえば、夕日の名前を知ったのはミニレポート返却の際だったが、彼が既に俺の名前を知っていたのも、やはりレポートがきっかけで、講義後に後ろの席から前の席へと回して回収するときに、偶然名前を見たらしい。そうでなくても、講義中、教授に声をかけられるのは専ら俺だから、「コウヤマコウヤマ」と度々呼ばれているのを聞けば、苗字くらいは聞き覚えがあったかもしれない。
俺はコッソリと見つめていた夕日の顔から目線を下ろして、彼の真っ白なシャツを見た。
彼が着ていたのは、七分袖のバンドカラーシャツと、紺色の細身のコットンパンツだった。靴と鞄は革製で、きちんと手入れされ長く使われているように味がある。清潔感のあるシンプルな着こなしだった。身体の線の細い彼によく似合っている。細かいところに凝ったデザインと生地の質感から、かなり良いものを着てるのだとおもう。ファッション雑誌で見かけるような、大学生の憧れのブランド服、といったところだ。
勝手な思い違いかもしれないが、彼のように堅物で世俗に興味のなさそうな優等生というものは、総じて流行りのファッションなどの身なりに興味がないものだと思っていた。事実彼は、彼の着こなしについて彼自身のこだわりはないようにみえる。俺はなんとなく、夕日には流行に敏い女きょうだいがいて、彼女(達)は夕日のことを溺愛しており、彼のために彼に似合った服を選んでいる。よって家族関係は良好だろう、なんて行き過ぎた想像をしてしまった。そこで「世話焼きな彼女」という選択肢を考えなかったのは、夕日のひととなりから直感で判断したのと、俺の希望的観測がほんの少しでも含まれていたことを否定は出来ない。
遠い存在だと思っていた夕日と知り合えたこと、話ができること、向かい合って1冊の本を共有できること。きれいな彼の動作を目で追えること。それはどこか、新しい友人を得たというよりは、未知の世界を知るような、新しい価値観を広げるような、芸術家がまだ誰も知らない美しいモティーフを生み出そうとしているような、そんな感覚だった。彼のことが知りたいと思った。どうして美しいと感じるのか。どうして心惹かれるのか。その答えが見つかるのならば、この彼との邂逅には俺にとって十分なメリットがあるのだ。
「先ほどからじろじろと此方を見ているが、何か言いたいことでもあるのか」
どうやらとっくに彼を追う目線に気づかれていたようで、夕日は俺の目をまっすぐに見据えながら単調な声でそう言った。
夕日はいつも歯に衣着せぬ言い方で話す。相手が誰だろうと、それがデフォルトのようだ。それが、実は俺にとっては心地よかった。
大学から付き合い始めた友人というのは、昔馴染みとは違って壁を感じてしまうことがあった。別に付き合いづらいとかそういうのではなくて、おべっかとか、謙遜とか、そういうのを使うのがが当たり前な人間関係になってくるからだ。それは、人より少々気を遣う性格らしい俺にとっては、どうしても「ただの友人」から「親しい友人」へとクラスチェンジしづらい環境だった。さすがに大学3年生にもなれば親しい友人は多くなったが、それでもたまに「社交場」のような友人同士の集まりには辟易してしまうことがある。だから、発する言葉すべてに偽りも飾りも無駄もない夕日と話すのは楽だった。夕日の言葉を、すべて信じることができる。夕日の言葉には、その言葉以上の意味はないし、裏表もない。
「あ、悪い」
「ずっと手が止まっていたようだが」
「うーん、ちょっと目が疲れたみたい。ちょっと休憩」
ラップトップをパタンと閉じて伸びをすると、それを見ていた夕日も読んでいた本を栞を挟んで閉じた。彼の方を見ると、「俺も休憩しよう」と淡々とそう言って、鞄の中からサーモスのボトルを取り出してそれに口をつけた。
夕日が俺に合わせて手を休めてくれたことが嬉しかった。マイペースで無愛想、変わり者。大学には友人と呼べる者はいないだろうと、N工大にいる俺の友人から聞いていたから、今回の件だって、ただ本が読みたいがために利用されているのだと思っていた。けれど、夕日の周りの人間が気づいていない彼の美しさや、潔さ、性格の心地よさを知っている俺なら、もしかしたら、これからもっと彼に近づくことを許されるかもしれない。誰よりも親しい友人になれるかもしれないと淡い期待を抱いてしまう。
ほんの些細なことで希望を見出した俺は、夕日との会話に挑むことにした。君島、と彼を呼ぶと、彼はボトルを鞄の中に仕舞ってこちらを見た。
「君島のこと、訊いてもいい?」
「質問内容に依る」
「君島にはさ、お姉さんか妹って、いる?」
「妹が一人。何故それが知りたい?」
俺はさっきまで考えていた夕日についての考察を、無礼のない程度に簡単に話した。プライベートな話題過ぎたかとどぎまぎしたが、彼は気にする様子もなく、「成程」とだけ言葉を返したあと、ほんの少し思案して俺に訊ねた。
「では俺も、高山星慈に聞きたいことがある」
「……どうぞ」
「『星慈』という名の由来が気になった。差し支えなければ教えて欲しい」
夕日の質問は意外中の意外で驚いた。それは俺への興味や好奇心なのか、それとも自分のことを訊かれたことに対する形式的な返しなのだろうか。
「え、と。両親が星好きでさ、親父が地方の観測所で働いてるんだ。だからだったと思う。俺も星見るの好きだから、結構この名前、気に入ってる」
「『星』も『慈しむ』も、美しい字だ。名前を知った時、綺麗だと思った」
「綺麗な人」に綺麗だと言われるのは恐れ多くもこそばゆくて、俺はかなり内心動揺してしまった。夕日のことだからきっとその言葉は嘘偽りのない本心で、それが分かるから、嬉しかった。「ありがとう」と返すと、かすかに笑って「どういたしまして」と返してきた。
「君島は、自分の名前の由来、聞いたことあるの?」
「知らない。ただ、商いをしているくせに沈むものの名を付けるくらいには、この名によほどのこだわりがあるのだろう」
「きっとそうだろうね。だって、夕暮れが太陽の一番きれいなときだと思わない?」
俺は立ち上がって、教室西向きの窓の桟に指を掛けた。
締め切っていたカーテンを勢い良く開ける。
夏の午後6時の空は、沈んでゆく太陽を惜しむように、暖かなオレンジと、夜の始まりの紺が交じり合っていた。
窓を開けると、外気の生ぬるさが室内の空調の冷気を呑み込んで、少し寒いくらいだった部屋の中は程良くぬくもった。
もうすぐ夜が来る。薄暗い空。暖かな橙は透けるように薄くなって、紺に埋もれると紫がかったピンクになる。待ちきれずに光り出した一番星が太陽に別れを告げる。夕暮れの空は太陽が一番美しく輝く大舞台だ。去り際が一等美しい。
夕日はただ黙って暮れ泥む空を見つめていた。
白い頬に、夕焼けの色が映る。夕日の繊細な輪郭が、更に儚くぼやけて、俺は幻でも見ているような気分になった。
夕日の表情は、初めて言葉を交わしたときより幾分柔らかかった。どちらかといえば寒色を纏った彼に、空の暖かい色が混じったからだろうか。それとも。
「綺麗だ」と彼は言った。心なしか微笑んでいるように見える。
「うん」と俺は答えた。すごく綺麗だ。空もそうだし、何よりも彼が、とても。
6限終了のチャイムが鳴った。それ以降は許可がなければ校内にいることはできない。夕日と俺は帰り支度を済ませて、足早に校舎から出た。別れの余韻など残すはずもなくあっさりと解散して、俺は駐輪場に駐めていたスクータに跨った。
日はとうに深く沈んで、夜だった。それなのに、俺に掛けられた夕焼けの魔法は解けない。頬が熱くて、夕日に染まる彼を見たときと同じように、息がしづらくて苦しかった。




