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7月の生ぬるい風を切って、大学へと続く長い坂道を、買ったばかりのスクータに跨って上ってゆく。

まだ初夏だというのに、午後2時の日差しは容赦なく照っている。ハーフタイプのヘルメットの中は蒸れていた。汗が背中を伝うのが分かった。太陽が天辺でぎらついているような時間帯に出かけるのは本当なら避けたいものだ。けれど去年の今頃は、原付ではなく自転車、所謂ママチャリでこの坂を駆け上っていたのだから、今年は大分マシな方なのだ。

坂を登り切ったところにあるのは、俺の学び舎、A県立芸術大学で、県庁所在地であるN市からは少し離れた立地にあるここは、全国の公立大学の中でも有数の敷地面積を誇っていた。そもそも公立の芸術大学というだけで珍しく、A芸大には地方からやって来た学生がとても多い。学部は大きく美術系と音楽系に分類され、前者は絵画やデザイン、彫刻、陶芸、後者は声楽や楽器、作曲などの専攻がある。

俺はデザイン専攻の3年生で、現在は主にWEBデザインやアプリケーションなどを作っている。デッサンは入学時の実技試験以来ほとんどしていないのに、教授の紹介で絵画教室のアシスタントアルバイトをしている。と言っても児童向けの教室だから、ほとんど「学童保育」のようなものだ。俺のすることといえば、クレヨンや水彩絵の具の使い方を教えたり、「子どもの創造力を養う」という雇い主の先生の意向に沿って、子どもたちがピカチュウやドラえもんを描かないように目を配らせていたり、そんな程度だった。

絵画教室のアルバイトは週に3度程、あとは日払い派遣など適宜、それから、ごくたまに知人づてでデザインの依頼(企業ロゴデザインやホームページデザイン)をもらって生活費を得ている。サークルは特に加入していなくて、俺の大学生活といえば、もっぱら講義、制作、バイトの3つで成り立っていた。

今日、こんな時間に大学に向かっているのは珍しいことだった。普段は朝から講義を受けていたり制作をしているのだけれど、どうしても午前中に受け取っておきたい宅配物があって、それが届いてから家を出たのだ。



原付を駐めて講義棟へ入り、教室のドアを開けた。

今日は4限の一般教養講義「ヨーロッパ美術」を受講するためだけに大学にやって来た。

講義開始10分前には、キャパシティ30名ほどの小さな教室の椅子は、3割程が埋まっていた。受講者数は15名程度だったはずなので、割合的にこんなものだろう。

俺はいつもの席が空いていることを確認して腰掛ける。教壇から見てほぼ正面、2列目。ほとんどの学生は、講義中指名されたくないからなのか他事をしたいからなのか、一番後ろの列周辺に固まって座っていた。俺だって他の講義でならそう

する。けれど毎度決まって2列目に座るのにはわけがあった。

一つには、「ヨーロッパ美術」略して「欧美」の担当教諭が、俺のゼミの担当教授であり、かつ卒制のテーマに扱いたい内容が講義に含まれていること。教授と顔見知りの過疎クラスで、俺まで後ろでコソコソするわけにはいかないし、何より興味のある分野なのだから、元より真面目に受けるつもりで取った講義だ。


もう一つは。

俺はちらりと前方を見て、斜め前に座る男の背中を見た。俺の他にもう一人、好き好んで前列に座っている男がいる。その男のことが、なんとなく気になっているからだ。

前列の彼と俺には全く面識は無い。

俺は、1メートル定規でも挿し入れているのではないか、という位ぴんと伸びた彼の背中を後ろから眺めているだけだ。窺える横顔は、講義の際にスクリーンに映される絵画のクピドのような派手な美しさはないが、大人しく控えめなのに、中性的で整っていた。フレームの細い眼鏡が、彼の顔の造りの繊細さを際立たせている。それと、色白い首筋に小さなほくろが3つある。線で繋げばきっときれいな正三角形になるだろう。ベガ、アルタイル、デネブの、夏の大三角形のように。

毎講義後に書いて提出する小レポートの返却の際に、彼の名前を知って驚いた。君島夕日。君島、と聞いて、デザイン学科で知らない者はきっといない。彼の父親である君島登雄は、A県出身の著名な建築家だ。ごく卑近な例でいえば、N市庁舎や、A県立美術館の設計に携わっている。その息子である彼は、この大学ではなく、国立N工大建築学部の生徒だった。君島登雄の息子がA工大生だというのはどこからかの情報で知ってはいたが、本物に会えたことはちょっとした驚きだった。

A芸大とN工大は単位交換制度を提携していて、専門科目以外の一般教養科目に関しては、提携校で履修した単位を卒業必須単位の中に換算する事が出来る。夕日はそれを利用しているのだろう。また学校自体も最寄り駅が同じなので、N工大の生徒をA芸大やその付近で見かけることは稀なことではなかった。


そんな経緯で、俺は君島夕日のことが気になっていたが、だからといって自分から話しかけたことはなかった。彼の父親の名前を出せば話題には困らないだろうが、いきなり親の話をされることを不快に感じるかもしれない。さりげない話題で声を掛けようとしても、講義中は憚られたし、講義が終わると足早に教室から出て行ってしまい、ゼミ生ということで毎度教授の片付けを手伝わされる俺には、追いかけることは出来なかった。

なんとなく彼を気に掛けているまま、半期履修の欧美は、残すところあと2回の講義と、最終レポートの提出のみとなった。

そして欧美の受講者数が少ない理由は、この時期明らかになる。それは期末にある最終レポートの厳しさにあった。講義の内容は面白く、テーマも万人受けしそうであるのに、単位認定を決める課題レポートの指定文字数が、卒論レベルまでとはいかないがやたらと多い。それを、期末の課題制作や演奏会練習に追われているA芸大の学生がこなすのには無理があった。一応、課題が発表されるのは締め切りのひと月前ではあるのだが、たかが一般教養の単位のために掛けるような手間ではないということで、A芸大の生徒からは人気がない。

そして今日、レポートの課題と期限が発表され、前もってわかっていたことなのに、身構えが足りなくてげんなりしてしまった。ちらりと斜め前の夕日を見れば、彼は相変わらず涼しそうな顔をしたまま、講義終了と同時に教室を出て行った。


俺は教授と雑談したあと、食堂で遅めの食事を摂った。同じ学部の友人らに会って、制作の進捗状況を伝え合った。彼らと別れたあと、大学内の図書館へ向かった。欧美レポートのための資料を揃えるためだ。7月に入ると、本の貸出期間が変わる。夏休みを挟むため、通常は2週間の貸出期間が、「貸出日から夏休み後の10月いっぴ」までに延びるのだ。休み中にずっと借りておきたい学生にはうってつけだが、それは一度誰かに借りられてしまえば10月まで返却されないかもしれない、ということだ。俺には既に目をつけている本があって、それは今日発表された課題のレポートを書くには不可欠な資料だと思っていた。

美術史関連の書棚にまっすぐ向かう。ツイていることに、お目当ての本はまだ誰にも借りられていなかった。俺は迷わず棚から手にとって、貸出カウンタへと向かって手続きを済ませた。

本を片手に外へ出ようとしたその時、図書館の入り口に君島夕日を見つけた。彼はいつものようにきれいな姿勢でするすると歩き、同じ講義を取っている俺に見向きをせず、俺のすぐ横を通り過ぎる、と思っていた。


「っ、それ、」


初めそれが誰に向けられた言葉なのか、寧ろ夕日が発したことばなのかすら分からなかった。けれど図書館のエントランスには、職員以外俺と夕日しかいなかったから、ほぼ反射的に自分に向けられたと思って振り返った。

そこにはやはり夕日がいた。さっきの声は彼だったのだ。声を聞いたのは、初めてだった。


「お、俺のこと?」

「いきなりすまない。その本は、」


夕日は存外なだらかなテノールで丁寧な口調で謝罪したあと、俺の手にしていた本に視線を向けた。


「ああ、これ、欧美の課題で使おうと思って。君島、も、探しに来たの?」


俺が君島の名前を口にすると、彼は少し目を大きくした。どうして名前を知っているんだ、という顔だ。しかしその表情はすぐに繕われる。


「ああ。俺はN工大の学生だが、大学図書館蔵書検索で調べてここに来た。その本は市内でたった1冊しかないらしい。遠方から取り寄せを依頼すれば3週間はかかる。近場で見つかったから立ち寄ってみたのだが、先を越されたな」


俺はなんとなく申し訳なく思った。けれどだからといって譲ってやるわけにもいかない。購入すれば軽く1万円は超える専門書だし、最後の1冊だと知ってしまえば尚更だ。


「じゃあさ、必要なところだけコピーしていく?」

「書籍のコピーは1冊につき20頁までだ。それでは足りない」

「なら何日かおきに貸そうか?俺がとりあえず持って帰って、来週君島に貸して、また返してもらって…とか」

「又貸しは禁止されているはずだろう」

「あー、そうだね、ごめん」

「いや、謝る必要はない。俺は別の本を探そう」


夕日はまっすぐに俺の目を見てそう言った。眼鏡越しではないそのつり目がちな瞳に目を奪われる。初めて聞いた声、交わした会話、初めて、射抜くようにまっすぐな瞳と目があった。スクリーンに映された絵画のように遠くに感じていた彼が目の前にいる。凛とした背中も、うなじの星座も良いけれど、もしももっと、これ以上君島夕日のことを知ることができるのなら。



夕日は踵を返して図書館の外へと歩き出した。

引き止めたい、咄嗟にそう思った。


「あのさ!」

夕日は立ち止まって振り返る。

「課題、一緒にやらない?」


夕日は俺が名前を呼んだときよりも瞳を見開いたあと、ふっと目を伏せて思案する姿勢を取ったあと、わずかに口角をあげてこういった。






「その話、聞こう。……高山星慈」





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