第三話 足軽の朝
鶏の鳴き声が、まだ薄暗い空へ響いていた。
宗助は目を覚ますと、掌を見つめた。
潰れた水ぶくれ。
剥けた皮。
昨日の鍛錬の跡が生々しく残っている。
「……痛いな。」
思わず苦笑する。
夢ではない。
ここは戦国時代。
織田家の足軽として生きる世界だ。
小屋を出ると、朝露が草を濡らしていた。
吐く息は白く、空気は冷たい。
遠くでは村人たちが炊事を始め、薪の燃える匂いが漂ってくる。
「宗助。」
聞き慣れた声だった。
振り向けば弥吉が笑っている。
「今日も早いの。」
「眠れなかった。」
「初めのうちは皆そうじゃ。」
二人は並んで歩き始めた。
途中、小川で顔を洗う。
冷たい水が眠気を一気に吹き飛ばした。
「聞いたか。」
弥吉が声を潜める。
「何を?」
「今川がまた兵を集め始めたそうじゃ。」
宗助の心臓が跳ねた。
(やっぱり……。)
歴史は動いている。
桶狭間は確実に近付いていた。
未来を知る宗助だけが、その重さを理解していた。
「そう遠くない。」
「何がじゃ?」
「……いや、独り言だ。」
弥吉は首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
二人が訓練場へ着く頃には、すでに多くの足軽が集まっていた。
源四郎が腕を組み、一人ずつ槍を確認している。
「槍は命じゃ。」
「手入れを怠る者は、自ら命を捨てると思え。」
「はっ!」
一斉に返事が響く。
宗助も槍を握り直した。
昨日より少しだけ手に馴染んでいる。
「宗助。」
「はい。」
「前へ出よ。」
源四郎に呼ばれ、列の前へ出る。
「昨日教えた突きを見せよ。」
周囲の視線が集まる。
宗助は深く息を吸った。
腰を落とす。
左足を踏み込み。
槍を真っ直ぐ突き出した。
風を切る音が響く。
「もう一度。」
さらに突く。
昨日より身体が自然に動く。
源四郎は静かに頷いた。
「よい。」
「まだ粗いが、一日でここまで出来れば十分じゃ。」
列の後ろから感心した声が漏れる。
宗助は少しだけ頬が熱くなった。
褒められることが嬉しかった。
しかし源四郎は表情を崩さない。
「勘違いするな。」
「戦では百回うまく突いても、一度外せば死ぬ。」
「忘れるでない。」
「はい!」
宗助は力強く返事をした。
その言葉は厳しかったが、嘘ではない。
ここは命のやり取りをする世界なのだ。
鍛錬はさらに続く。
槍を構え。
走り。
仲間と隊列を組む。
現代では経験したことのない動きばかりだった。
昼が近づく頃には、足は棒のようになっていた。
それでも誰一人として弱音を吐かない。
源四郎が最後に声を張る。
「よく聞け!」
全員が顔を上げる。
「織田家の兵は強さだけでは務まらぬ。」
「仲間を見捨てぬ者だけが、生きて帰れる。」
宗助はその言葉を胸へ刻み込んだ。
(本能寺でも……。)
(一人では信長を救えない。)
味方が必要だ。
信頼される人間にならなければならない。
その第一歩は、この訓練場から始まっているのだった。
昼餉は握り飯一つと、塩を少し振っただけの大根だった。
豪華とは程遠い。
それでも鍛錬の後に食べる飯は、不思議なほど美味かった。
「今日は食いっぷりが違うの。」
弥吉が笑う。
「腹が減ってるだけだ。」
「それもあるが、目つきも変わった。」
宗助は苦笑した。
自分では気付かなかった。
「昨日までのお主は、どこか戦を他人事のように見ておった。」
「今日は違う。」
「足軽の顔になってきた。」
宗助は返す言葉が見つからなかった。
確かに昨日までは歴史を"知識"として見ていた。
だが今は違う。
この飯を食べ、この土を踏み、この仲間たちと汗を流している。
もう教科書の中の戦国時代ではない。
自分が生きる世界なのだ。
昼餉を終えると、再び鍛錬が始まる。
今度は隊列を組んでの移動だった。
「前へ!」
「止まれ!」
「槍を下げよ!」
号令が飛ぶたびに、何十人もの足軽が一斉に動く。
しかし、それは簡単ではない。
一人でも遅れれば列は乱れ、味方同士で槍先がぶつかる。
「違う!」
源四郎の怒声が飛んだ。
「戦場では乱れた列から死んでいく!」
宗助は何度もやり直した。
足並みを揃え、仲間の動きを見る。
自分だけ動けばいいわけではない。
隊として動く。
それが足軽だった。
夕方になる頃には、ようやく隊列が形になり始める。
源四郎は腕を組みながら満足そうに頷いた。
「今日はここまで。」
「よく励んだ。」
その一言に、皆の顔が少しだけ緩む。
帰り道。
夕焼けが田畑を赤く染めていた。
宗助は弥吉と並んで歩く。
「源四郎殿は怖いな。」
「ははは。」
弥吉が笑う。
「昔はもっと怖かったそうじゃ。」
「そうなのか。」
「じゃが、あのお方は兵を犬死にさせるのを一番嫌う。」
宗助は思わず足を止めた。
「兵を……。」
「だから鍛錬もうるさい。」
「生きて帰らせるためじゃ。」
その言葉に、宗助は信長のことを思い出した。
戦国武将は命を駒のように扱う。
そんなイメージを持つ人も多い。
だが実際には、兵を失えば国力も失う。
優れた武将ほど、無駄な犠牲を嫌うという話を本で読んだことがある。
織田家もきっと同じなのだろう。
村へ戻ると、空には無数の星が輝いていた。
現代では見られないほど、美しい夜空だった。
宗助は小屋の前へ腰を下ろし、静かに空を見上げる。
「信長公……。」
まだ一度しか姿を見ていない。
言葉もわずかしか交わしていない。
それでも確信していた。
この人についていけば、時代は変わる。
だからこそ。
本能寺だけは変えなければならない。
宗助は拳を静かに握り締めた。
武功を挙げる。
信頼を得る。
そして、誰よりも信長の近くへ。
その決意は、戦国の夜空へ静かに溶けていった。
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は派手な戦ではなく、足軽たちの鍛錬や日常を中心に描きました。こうした積み重ねがあるからこそ、戦場での一歩や一突きの重みが伝わると思っています。
次回は宗助がさらに織田家の兵として成長し、新たな試練へ足を踏み入れます。歴史の大きな流れも、少しずつ動き始める予定です。
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これからも史実への敬意を大切にしながら、「もしも」の戦国時代を描いていきます。引き続きよろしくお願いいたします。




