EP 2
天才たちの青田買い(マンハッタン計画の横取り)
「……マダム・サクラダ。国際電話の回線状況が悪いようだ。もう一度言ってくれないか? 今、君は誰を『雇いたい』と言った?」
ワシントンD.C.。
アメリカ合衆国の超エリート弁護士であり、日米経済協定の立役者となったチャールズ・ケーディスは、受話器を握りしめながら、自身の耳を疑っていた。
『ええ、何度でも言うわ、ミスター・ケーディス。アルバート・アインシュタイン、レオ・シラード、エンリコ・フェルミ、それからロバート・オッペンハイマーよ。……全員、桜田財閥の専属研究員として、合衆国政府より先にヘッドハントしてちょうだい』
太平洋の向こう側から聞こえるリベラの声は、まるで「今日の夕飯のスーパーの買い出し」でも頼むかのように軽やかだった。
「オー、マイ、ゴッド……。君は自分が何を言っているのか分かっているのか!? 彼らは今世紀最大の頭脳だぞ! 今、欧州の戦火から逃れてきた彼らを、合衆国軍部が極秘の軍事プロジェクト(原爆開発)に巻き込もうと血眼になって探しているんだ!」
『だからよ。野蛮な軍人どもに彼らの頭脳を渡せば、確実に「爆弾」を作らされる。そんな物騒なものが完成したら、うちの優太が安心して公園で遊べなくなるじゃない』
「ゆ、優太くんの公園のために、相対性理論の天才を買うと……!?」
『契約金は白紙の小切手でいいわ。三田会のウォール街の口座を好きに使って。……ああ、それと絶対に「軍事転用を禁じる非開示契約(NDA)」と「特許の独占譲渡契約」のサインを忘れずにね。頼んだわよ、私の優秀な共同出資者さん』
ツーツー、と無情にも電話が切れる。
ケーディスは天を仰ぎ、深い、深いため息をついた。
極東の魔女は、ついに「科学の歴史」までカネと法律で買い叩く気らしい。
数週間後。ニュージャージー州、プリンストン。
閑静な住宅街の一角にある一軒家で、二人の天才物理学者が深刻な顔で話し込んでいた。
「……シラード君。ナチス・ドイツがウランの核分裂に成功したという情報は事実か」
「はい、アインシュタイン博士。もしヒトラーがこの連鎖反応を爆弾に利用すれば、世界は終わります。我々はルーズベルト大統領に手紙を書き、合衆国でも直ちに原爆の開発(マンハッタン計画)を始めるよう進言すべきです……!」
平和主義者である彼らにとって、それは身を斬るような苦渋の決断だった。
悪魔の兵器を阻止するために、自らも悪魔の兵器を作らなければならないという絶望のジレンマ。
「失礼するよ、天才諸君」
悲痛な決意を固めようとしていた二人の前に、ビシッとスーツを着こなしたケーディスが、分厚いアタッシュケースを提げて現れた。
「合衆国大統領に手紙を書く必要はない。君たちの絶望を、完璧に解決する『契約書』を持ってきた」
ケーディスはアタッシュケースを開き、テーブルの上に無造作に書類をばら撒いた。
「極東の桜田財閥からの、専属雇用契約書だ。……君たちを、帝都に新設する世界最高峰の『平和エネルギー研究所』に厚遇で招待する。研究費は無尽蔵。好きなだけ最新の機材を買っていい」
「さ、桜田財閥だと? 日本の……? しかし、軍部が我々の研究を兵器に……」
「させない」
ケーディスは、リベラとベアテが徹夜で作り上げた「悪魔の契約書」の該当箇所を指差した。
「第十二条。本研究におけるいかなる技術・特許も桜田財閥が独占管理し、これを『兵器および人命を奪う目的』で利用することを永久に禁じる。……万が一、日本の軍部や政治家が君たちの研究を軍事転用しようとした場合、天文学的な違約金が発生し、日本の国家予算が吹き飛ぶ仕組みになっている」
「国家予算が吹き飛ぶ違約金……!?」
シラードが目を剥く。
「そうだ。桜田の女総帥は、君たちの頭脳を爆弾ではなく、『街の明かりを灯し、安全で美味しい料理を作るためのエネルギー(原子力発電)』だけに使うと約束している。……どうだ? 泥にまみれた軍服の連中に顎で使われるか、それとも、極東の美しい研究所で、真理の探求と平和のためだけにその天才的な頭脳を使うか」
アインシュタインとシラードは顔を見合わせた。
彼らが最も恐れていた「政治と軍事への悪用」が、完璧な資本主義のルール(契約)によって強固にブロックされている。しかも、研究費は無限だ。
「……信じられない。こんなユートピアのような契約書を提示する人間が、極東にいるとは」
アインシュタインは、安堵の涙を浮かべながら、その震える手で契約書にサインをした。
同じ頃、カリフォルニア州のバークレーでは、若き天才ロバート・オッペンハイマーもまた、ケーディスの部下から提示された「軍の干渉を一切受けない、君だけの巨大な粒子加速器」という甘い誘惑と契約書に、あっさりとサインを済ませていた。
それから数ヶ月後。
ワシントンD.C.、アメリカ陸軍省。
「なんだとォォォッ!!?」
陸軍のレスリー・グローヴス将軍の怒号が、長官室に響き渡った。
「ど、どういうことだ! 欧州から亡命してきたトップクラスの物理学者たちが、全員『日本(極東)』へ高飛びしただと!? 我々が極秘で進めるはずだったウラン爆弾のプロジェクト(マンハッタン計画)はどうなる!」
「そ、それが将軍……」
部下の将校が、泣きそうな顔で報告書を読み上げる。
「現在、アメリカ国内の優秀な物理学者は、ほぼ全員が『桜田財閥』と排他的な専属雇用契約(NDA)を結んでおり、彼らの頭脳は完全に日本の民間企業にロックオンされています! さらに、核分裂に関する基礎特許すら、彼らを通じて桜田財閥が先回りして国際出願しておりまして……」
「特許だと!? 馬鹿な、そんな紙切れで軍の機密プロジェクトが止められるか! 無視して別の学者を集めろ!」
「む、無理です! もし我々が彼らの特許を無断で侵害して爆弾を作れば、日米包括的経済協調条約における『重大な知的財産権の侵害』となり、即座に日本からの資源供給が停止されます! 爆弾を作る前に、合衆国の軍需工場が完全にストップしてしまいます!!」
「あ、あぁ……なんということだ……」
グローヴス将軍は膝から崩れ落ちた。
軍の圧倒的な権力と国家予算をもってしても、「特許の独占」と「引き抜き」という、極めて合法的かつ悪辣なビジネス戦術の前に、マンハッタン計画は完全に開始前に頓挫(死産)してしまったのだ。
同日。帝都・桜田邸。
「……うん。この電気ポトフ、火加減が完璧でとっても美味しいわね」
広大な中庭で、リベラは最新式の電気コンロで作られたポトフを味見し、優雅に微笑んでいた。
その周囲では、世界中から文字通り「買い占められた」数十人の天才物理学者たちが、用意された最高級のワインと日本食に舌鼓を打ちながら、黒板に数式を書き殴って平和な大激論を交わしている。
「アネゴ。……いや、総帥。本当に買っちまいましたね、世界の頭脳を」
柴田が呆れたように、アインシュタインにお酌をしながら呟いた。
「当然よ。彼らの才能は、人を殺すためじゃなくて、人を笑顔にするためにあるんだから」
リベラは、美味しそうにポトフを頬張る優太の頭を優しく撫でた。
「さあ、これで物理的な『世界を終わらせる火種』は完全に消火したわ。……残るは、古いプライドにしがみついている『時代遅れの帝国』の解体だけね」
最強のママの視線は、西の果て。
未だ世界中に植民地を持ち、時代錯誤な支配を続ける「大英帝国」へと向けられていた。




