第四章 ママ核戦争を止めてくるわ
優太のランドセルと、アインシュタインの憂鬱
昭和十三年(一九三八年)、冬。
帝都・慶應幼稚舎の木造校舎には、子供たちの元気な声と、それを見守る保護者たちの穏やかなざわめきが満ちていた。
「はい! ぼく、わかります!」
教室の最前列で、ピシッと手を真っ直ぐに挙げた優太が、先生に指名されて黒板の前に立つ。
真新しい制服に身を包んだ彼は、少し背伸びをしながらチョークを握り、見事な字で算数の答えを書き上げた。
「……ふふっ。完璧ね。字も綺麗だし、何より堂々としているわ」
教室の後ろからその姿を見守るリベラは、最高級の真珠のネックレスに落ち着いた訪問着という、どこからどう見ても「非の打ち所のない良家のお母様」の顔で、ハンカチを口元に当てて感動に打ち震えていた。
「アネゴ……いや、奥様。若頭のあのご立派な姿……俺ぁもう、涙で黒板が見えやせん……っ」
その後ろでは、なぜか「親戚の叔父」という設定で無理やり授業参観に潜り込んできた大男の柴田が、ハンカチで滝のような涙と鼻水を拭っている。
「もう、柴田さんたら声が大きいわよ。他のお母様方が見ているでしょう?」
リベラは小声でたしなめつつも、その表情は誇らしげで、そしてこの上なく幸せそうだった。
ジュネーブでの歴史的な国際裁判から数年。
軍国主義への道を完全に絶たれ、アメリカとの強固な経済協調路線を歩む大日本帝国は、空前の好景気と平和な時代を享受していた。特高警察も、軍人の横暴も、言論統制もない。誰もが自由に未来を描ける、リベラが力ずくで書き換えた「優しい世界」だ。
「ママ! ぼく、百点だったよ!」
授業が終わり、駆け寄ってくる優太を、リベラは優しく抱きしめた。
「ええ、見ていたわ。とってもカッコよかったわよ、優太。さあ、お家に帰って特製のオムライスを食べましょうね」
しかし、完璧に平和な「ママの休日」は、桜田邸に帰還した直後に終わりを告げた。
「リベラ先生! 緊急事態です!」
邸宅の書斎に飛び込んできたのは、今年で十五歳になった一番弟子・ベアテだった。
すっかり大人びて、知的で洗練された法務秘書の顔つきになった彼女だが、今日ばかりはその青い瞳に明らかな「恐怖」の色を浮かべていた。
「どうしたの、ベアテ。そんなに慌てて。せっかくのオムライスが冷めちゃうわよ?」
リベラは割烹着の紐を結びながら首を傾げたが、ベアテがテーブルに叩きつけた極秘の分厚いレポートを見た瞬間、その目がスッと細められた。
そこには、ドイツのカイザー・ヴィルヘルム研究所の紋章が押されている。
「……ドイツの諜報員から買い取った、最新の物理学論文のリークです。オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンという化学者が……ウランの『核分裂』を実証しました」
「核分裂?」
横で控えていた柴田が、頭を掻きながら鸚鵡返しにする。
「はい。原子の核を分裂させることで、莫大なエネルギーを生み出す現象です。……理論上、この連鎖反応を兵器に転用すれば、たった一発の爆弾で……帝都の半分が跡形もなく消滅します」
「……は?」
柴田が絶句した。
「そんな悪魔の兵器を、あのチョビ髭の総統や、他の大国が放っておくはずがありません。すぐに国家の全予算を投じて、開発競争が始まります! 先生、これは……これまでのどんな大砲や戦車とも違う、世界を本当に終わらせる『究極の暴力』です!」
ベアテの声が震えていた。
法律も、経済制裁も、一瞬ですべてを灰にする爆弾の前では無意味になってしまう。彼女は、自分たちが築き上げた平和な世界が、理不尽な科学の暴走によって一瞬で消え去る悪夢を見たのだ。
しかし。
「……一発で、街が消滅する爆弾?」
リベラは割烹着を脱ぎ捨て、一切の感情を排した、絶対零度の声で呟いた。
「そんな物騒な花火が空から降ってきたら……優太が安心して、お外で遊べなくなるじゃない」
「えっ」
「そ、そこですかい……?」
ベアテと柴田が思わずツッコミを入れるが、リベラの目は完全に据わっていた。
彼女の脳裏には、数時間前に見たばかりの、黒板の前で元気に笑う愛息の姿がある。あの日常を、あの笑顔を、たかだか物理学の実験の延長で奪われるなど、絶対に、天地がひっくり返っても許すわけにはいかなかった。
「……ベアテ。現在、この『核分裂』の理論を兵器化できる頭脳を持った天才は、世界に何人いるの?」
「え、ええと……アメリカに亡命しているアインシュタイン博士をはじめ、オッペンハイマー、シラード、フェルミ……おそらく、世界でも数十人のトップレベルの物理学者だけです」
「十分よ」
リベラは書斎のデスクに座り、万年筆を手に取ると、猛烈な勢いで「雇用契約書」のひな形を書き殴り始めた。
「彼ら全員、うち(桜田財閥)で雇うわ」
「……はい?」
ベアテが間の抜けた声を漏らす。
「国家に兵器として作らされる前に、私が彼らの頭脳をまるごと『青田買い』するのよ。桜田の莫大な資金で、世界最高峰の研究所と、彼らが一生遊んで暮らせるだけの研究費(お小遣い)を与える。その代わり、彼らが生み出す原子力技術の『特許』はすべて桜田財閥が独占し、軍事利用を一切禁じる極秘の非開示契約(NDA)を交わす」
「て、天才科学者たちを……カネと契約で、全員一本釣りする気ですか!?」
「ええ。法律と特許でがんじがらめにして、爆弾じゃなくて『美味しい電気ポトフを作るための平和なエネルギー(原子力発電)』だけを作らせるの。……野蛮な軍人どもに、天才の頭脳を横取りされてたまるもんですか」
リベラはニヤリと、弁護士としての最高に邪悪で、そして最高に平和的な笑みを浮かべた。
「柴田。ワシントンにいるケーディスに国際電話を繋ぎなさい。……アメリカ政府が『マンハッタン計画』なんていう血生臭いプロジェクトを立ち上げる前に、私達で彼らの宝(頭脳)を全部、合法的に誘拐するわよ」
愛する息子の遊び場を守るため。
最強の母親による、人類史上最大・最高額の「科学者爆買いツアー」が、今、幕を開けようとしていた。




