アンサンブル・プレイについて
僕にとって、見るのはとても好きなのだが、自分ではあまり描くことのないものに「アンサンブル・プレイ」というのがある。一般には「群像劇」なんて言われ方もする。シリアスのものだと『青春の門』とか『白線流し』なんかが有名だけど、大きな枠で言えば、視点次第では『Nのために』や『オリエント急行殺人事件』、『ちはやふる』なんかも定義で行くなら入るのかな? まあ後者の三作品は僕目線なので一般に言われているわけではない。
物語の構造的には主人公が複数人いると考えるのが一番わかりやすい。そのため「アンサンブル・キャスト」なんて言われ方もある。もちろん主たる主人公があって、その親友や恋人などと交わるごとに、それらの人物の生い立ちや背景、成長過程が時系列的な物語の一部をなして成立させるというもので、メインプロットの中にそれらも含まれてしまう流れだ。長編小説を得意とする人はこの心得があるはず。なので回をたがえてしまう、スピンオフ、番外編、続編のようなセパレートで別枠の物語とは構造やポジションが異なる。
ただここに挙げた作品のようにシリアスさや、トレンド、社会派の要素は特に重くなるので、僕個人的にはコミックでのアンサンブル・プレイが好きである。
代表的なものを僕なりに気に入ったもので挙げると、展開やキャラクターで好まれるものは四作品。古い順に『すくらっぷ・ぶっく』小山田いく著(少年誌)、『出直しといで!』一色まこと著(青年誌)、『君に届け』椎名軽穂著(少女誌)、『正反対な君と僕』阿賀沢紅茶著(少年誌・電子メディア)となる。
ここではライトタッチでコメディ要素の詰まった「青春群像劇」が好例となる。特に前者二作品は、僕が少年、青年期のもの。この当時の風潮でこの手の作品は映像メディア化されるのは稀だった。当時の大人の視点から行くと、ヒット漫画作品が軒並みヒーロー・ヒロインもの全盛期の時代に、シリアスさに欠けて、おチャラけが優先されてしまうと映ったためと僕は感じている。でも読者だった僕らの中では爽やかさのある後味の良い作品として心に残っている。そしてお約束のようなクライマックスが卒業や受験と、結びやエンディングに分かりやすいフィナーレ・イベントが用意されているので、また読み手側も青春時代の人格形成が未完成な年頃と言うことも重なり共感を得られやすかった。
その後、時代はすでに大人になってからだが、後者二者のようにメディア化の市民権を得るジャンルとなって来た。
僕のような年齢になると一般にこういった青春劇というのは取っ付きにくくなるのだが、最近動画のおすすめ無料視聴で何気なく見た『正反対な君と僕』には年甲斐もなくはまった(笑)。僕の心の中、まだわずかに、青春群像作品への感動の気持ちが残っていたことに自分で驚いてしまった。ちなみに僕はこの作品のキャラの中では「タイラズマ」が推しである。二人の関係が上手くいってほしいな、と年甲斐もなく、かつ珍しく劇中感情移入してしまった(笑)。もう青春時代はリアルタイムではないため、今の年齢の僕にとっては「そんな時代もあったようなあ」という客観的な懐かしい気持ちと物語の資料価値という視点で落ち着いて鑑賞できるのが良い。
作品の人物タッチは九〇年代以降の『マーガレット』の主流っぽいように僕の目には映った。でも猫のてんぷらは大昔の『なかよし』っぽかった。
さて話を戻して、アンサンブル・プレイ。特にこの手のコメディタッチの「青春群像劇」というのは、僕の経験上、成功すると共感を得られやすいという特徴がある。特に現代劇も多く、手軽に実写化、実演もしやすいし、いろいろなパターンの人生や恋愛描写が入り込んだア・ラ・カルト方式なので、嗜好性の上で幅広い読者、視聴者、鑑賞者の共感を獲得しやすいと、演劇などのハウツー本にも結構書いてあったような気が……。でもかなりの磨かれたキャラクターや話のつなぎ目を上手に運ばないとプロットがグズグズになりそうだ。あとはキャラの皆がそこそこの一軒家やオートロック分譲集合住宅に住んでいるので所得階層は全員が結構よい家庭であることも多い。お育ちの問題もファン層には現れやすいのかな?
でも『出直しといで!』はドがつくほどの庶民階層が登場人物で埋められている。
また「かぐやさま」に登場する白銀君のタイプのように庶民的なアパート住まいの立身出世組というのは金持ち学園の例外に近いが、それも含め、キャラ設定の上で「出直しといで!」以外の他の三作品は貧困具合は劇中で少ない。でも『正反対な君と僕』の「タイラズマ」の二人はアルバイトをしながらの生活なので、等身大庶民派の香りがして設定のリアルさが強調される。ここは僕自身の個人的な作品への共感が持てる。
アンサンブル・プレイは、そもそもかつてはシリアスな側面が際立っていたようだ。演劇の技法の上でいくと秀作と言われる『僕らが歌を歌うとき』※あたりが有名だった。これはシリアスと清貧という美徳を描いた夢の掌握。貧しいながらも、演劇の復活を志す若者の群像劇だ。そう考えれば、やはり「若者と夢、そして挑戦」との相性がいいのがアンサンブル・プレイなのかもしれない。なので手法として、形を変えながらも学園モノのコミックに取り入れられることが多くなるのも自然な成り行きで、どこかわかる気がする。
さてこのエッセイ、物語考についてのお話。少ないながらも、小説のみに限定せずに皆さんと「物語」の構造や本質、また効能などを一緒に確認して来たこのエッセイなのだが、僕の中では一定の役目を終えたと言える。正直言って、軽音、演劇、文学、歴史と、こういうものの隣接の勉強や活動をしてきた僕なのだが、コミックを例にしたのはあくまで分析、個人の感想や伝達しやすくするための手法である。またここまで列してきた往年のコミックや小説、映画などの諸作品のファンであるということも大きい。
物語を読んだり、作ったり、分析したりと、角度を変え視点を変えることによって、物語の骨子と流れ、役割を少しだけ理解できるようになる。それは嗜好性や属性とはことなり、送り手側の発想を手に入れるという感性を育むことにもなる。
このエッセイは一応今回で最終回としているのだが、連載を終了させるわけではなく、スポットで今後も一年に一二回は出すつもりだ(書くネタが溜まったらの話ではある)。いつ出すのかはわからないし、このエッセイはSNSには狼煙を上げないので、「小説家になろう」内の登録やブックマークなどで更新アップの知らせを入手していただきたい。お手数をかけて申し訳ない。
そんなわけで暑さも収まりつつあるこの秋口に皆さんもお体ご自愛の上、今後の作品作りで楽しく過ごしてほしい。ではまたネタが溜まった時にお会いしよう。アディオス!
※ 昭和三〇年代前後頃の自由に演劇公演を行うことが難しい時代。昼は労働し、夜は稽古に精を出す社会人劇団で活躍するメンバーの群像劇を描く。実際には時代を経てかなりの上書きがされてきた作品なので、設定などの変更が幾重にも繰り返されているので、どの時点での作品がオリジナルなのか後世の僕たちにはわかりづらい作品でもある。個人的には、この昭和中ごろのリメイク作品の時代背景をみると、清貧が中心に書かれている。当時の日活や大映、松竹の映画と照らし合わせても主流な筋書きなのかなと思う。例えば『下町の太陽』や『キューポラのある町』、『青い山脈』などはどれも苦学生や年頃の娘が明るく生きているという若者像がステレオタイプ的に描かれている。




