最終章「SAGASAGA」3節:バグという内容の幽霊
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
『SAGA SAGA』の開発が本格化して一週間。Sカンパニーのメインサーバー室は、哲人の指揮のもと、秒間数ペタバイトの演算処理を行う巨大な「思考の揺りかご」と化していた。
しかし、その平穏な加速を止める事象が発生する。
「教授、第4階層の安定化プロトコルが弾かれます。……物理法則の記述に、身に覚えのない『ノイズ』が混入しています」
教え子の一人が、困惑した声を上げた。モニターに映し出されたのは、美しい幾何学模様を描くはずのコードを侵食する、赤黒いノイズの奔流だった。それはかつて鹿島市を蹂躙した『KOVID-666』の残滓――ナイが遺した呪いの断片が、デジタル空間で再構成されようとしているかのようだった。
「慌てるな。これは予見されていた事態だ」
哲人はコーヒーカップをデスクに置き、モニターを鋭く見つめた。
40歳。人生の折り返し地点に立つ彼は、負の事象に対してもはや動揺することはない。工学博士としての彼はそれを「エラー」と呼び、経済学博士としての彼はそれを「サンクコスト(埋没費用)」と呼ぶ。
「これは単なるウイルスではない。……世界が一度壊れた際に、人々の意識が焼き付けた『恐怖の記憶』だ。情報力学的に言えば、観測者の恐怖が世界の記述を歪めているのだよ」
哲人はキーボードを叩き、自身の解析プログラムを走らせる。
「恐怖を排除しようとしてはならない。排除しようとすれば、それは抑圧され、より強力なバグとなって再発する。必要なのは『定義の変更』だ」
その時、背後から静かな足音が聞こえた。
憂だった。彼女の手には、哲人の好きな銘柄の豆で淹れた新しいコーヒーが握られていた。
「哲人さん。システムが『泣いている』ように見えるわ」
憂の言葉は、工学的な分析とは対照的な、直感に満ちたものだった。しかし哲人は、その言葉を否定しない。むしろ、その感覚こそが解決の鍵であることを知っていた。
「ああ。憂さんの言う通りだ。このノイズは、行き場を失った情報の叫びだよ」
哲人はモニターを見つめたまま、独白するように続けた。
「25歳で君と結婚した頃、僕は世界を『制御可能なシステム』だと思っていた。だが、40年生きてきて、そして君という存在の隣にいて、ようやく理解した。世界とは、制御するものではなく、許容するものなのだと」
哲人の指が、独自の「昇華プロトコル」を打ち込んでいく。
それは、バグを消去するのではなく、バグに「意味」を与える作業だった。
「このノイズを、SAGASAGA内の『影』として受け入れる。光がある場所に影があるように、救いがある場所に傷跡があることを許容するんだ。……この傷跡を、世界の深み(ディテール)として再定義する」
哲人が実行キー(エンター)を叩くと、赤黒いノイズはゆっくりと輪郭を変え、デジタル空間に美しい「夕暮れのグラデーション」と、人々の感情を映し出す「揺らぎ」へと姿を変えていった。
「……信じられない。ノイズが、レンダリングの質感を向上させている……」
教え子たちが息を呑む。
最悪のバグを、最高の演出へと変換する。それこそが、工学と経済の両面で「価値の転換」を研究してきた哲人の真骨頂だった。
「哲人さん、素敵よ。……傷ついた記憶も、この世界では大切な一部になるのね」
憂が夫の肩に手を置く。哲人は眼鏡を外し、少し疲れた目を細めて妻を見た。
「不完全なものを受け入れる。それが経済学でいうところの『パレート最適』の先にある、本当の調和だよ。……僕たちの15年も、決して完璧な直線ではなかった。だからこそ、今が美しい」
哲人教授は、科学の力で「幽霊」を「美しき背景」へと変えた。
SAGA SAGAの空に、初めて、切なくも温かい「黄昏」が描かれた瞬間だった。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




