第1章「記憶の断片」5節:秘密の故郷
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
冷たい空気…。僅かに聞こえる男性と複数の女性の声…。意識が失っていた時間が分からない。ただ、この場所には母の優しい声も、暖かく包み込んでくれる風さえもない。もう私は母の所にはいないんだ…。この場所は何という場所だっただろう…。塩善と呼ばれていた人物が言っていた…。ぜ、前線…前線カフェ…。ここがそうなんだろうか…。母はこの場所が、私にとって1番近くて1番安全な場所だと言っていた…。でも、この空気の冷たさと、妙な静けさが私の心を不安にさせている…。
「は~い。天女の赤ちゃん、私達と一緒に少しだけお外に出ましょうね」
突如、その言葉と同時に私の身体がフワリと急に持ち上げられたような気がする…。いや実際に持ち抱えられているのだろう。今、私の声をかけたのは、私が来た時に強めに話していた女性…。
「じゃあ、俺はもう帰ります。編みぐるみの件はお任せします。」
つい最近、聞いた事がある男性の声…。しばらくすると、何かがバタン、ガチャガチャとする音が聞こえた。
「店⻑…美琴さんにお任せするって言ってましたね」
私を抱えていると思う強めの声の女性によって、私は冷たい空気だった場所から複数の人の気配を感じる場所へと移動させられたと分かった。
「黙って持って行って、もしもの事があればと思ってたんだけど…店⻑も同じことを考えてたみたい」
「美琴さん、それでは店⻑も帰られましたし、私達もおとぎ前線を通って、奥の院の郷へ向かい命婦大神様の元へ行きましょう。」
落ち着いた女性の声。それに続く、知らない女性の声…。今度の声は妙に元気で、母とは違うけど温かい声。
「皆さん、奥の院の郷へ帰る準備は出来ましたか?」
「はい、は〜い。準備完了です!」
落ち着いた声の女性と元気な女性の声…。”奥の院の郷?”どこかへ私は連れて行かれるのだろうか…。
「”天女の編みぐるみ“も、ちゃんと厨房の棚から持ってきました」
「神那さん、ありがとう。それでは行きましょう。命婦大神様の元へ…」
強めの女性の声と落ち着いた声の女性の会話が終わった後、ガチャリと音が聞こえた。
「アイドル活動も頑張らなくちゃいけないのに…。何だか大変な事になってきたね。」
「そうね…。とりあえず、8 月1 日の夏祭りまでは、何も起きないでほしいわ」
元気な女性が言う”アイドル活動”と強めな声の女性が言う”夏祭り”…。よく分からない言葉が飛び交い、そして、急に周りの空気がまた別のものに変わった。
「さあ、みんな。奥の院の命婦大神様の元へ…」
「じゃあ、みんなで行くわよ。先ずは、この”天女の編みぐるみ”をどうにかしないと…」
落ち着いた声の女性と強めの女性の声との会話…。風の音が聞こえる。複数の足音と会話の声…。
「あれ、美琴様、今晩は奥の院の社へ何か御用でしたでしょうか?」
「ご苦労様です。今、…命婦大神様は、御社の方には、いらっしゃいますか?」
落ち着いた声の女性が、また知らない女性と会話をしている…。ようやく分かったのは、私は今、6人の女性とどこかへ向かっているという事だけだった。
「命婦大神様、美琴様達をお連れしました」
「ご苦労。そなたは下がってよいぞ。」
命婦大神と呼ばれる女性の一声で、私を連れて来た6名の女性達の気配が一瞬にして緊張したものに変化する。
「ど、どうした美琴…。そして、祈里も神那も、みな様子がおかしいのだが…どうしたのだ」
「み、命婦大神様…。神那さん、編みぐるみを…。」
「分かりました」
スーッと身体を上に掲げられている様な感覚…。今、私はどうなっているのだろうか…。
「こ、これはなんじゃ?い、いや…これは…”天女か”?」
「はい。風の御女神様の使者なる者の話では、この”天女の編みぐるみは”有明海の天女”との事で…こちらにあります”おとぎ前線”が”一番近くて一番安全”な場所だからと…それだけ述べて…あとは特に…」
落ち着いた声の女性…。名前は美琴と呼ばれている女性が、命婦大神と呼ばれる女性へ畏まりながら話す声が聞こえる…。
「その話…おかしくはないか…。有明海の天女であれば一番近いのは、大魚神社の海中鳥居でないか!それに安全というなら、他の天女達もいるはず…」
「はい。風の御女神様の使者なる者にそのお話もいたしましたが、風の御女神様の御意向であるとしか…」
“有明海の天女”、”大魚神社”、”海中鳥居”…。私の中でその言葉が何度も繰り返される…。懐かしい響きなのに、どうしても思い出せない。いや、私の中にある全ての自我が消えている…。全てが消えようとしている…。過去…感情…記憶…の全てが消えていこうとしている…。
「では、その風の御女神様の使者なる者ものとは一体何者じゃ。」
「人形司の”三十三代目塩善”と申しておりました。唐津の方からやってきたと…」
「”塩善”…。久しくその名は聞いておらなかったが…。そうか、その者は”三十三代目”か…。人間の命とは何と儚いものよ…。」
命婦大神という女性がいう“塩善”…。聞いたことがある名前…でも誰だっただろう…。つい先ほどまで何かを知っていた気がして、思い出そうとすればする程、急速に私にある何もかもが白く染まっていく…。
「心配するでない。塩善とは1000 年以上も昔より、古の御神様達の御使いとなっている人間の一族…。その”三十三代目”とやら言うと通りにするがよい。ウカノミタマ様へはわらわがお伝えしよう。よいか!」
私の中にあった全てが消えるのが分かる…消えて…全てが白く…。私は誰なんだろう…。何をしてるんだろう…。
「言うた通りじゃ…。その”三十三代目”の申す通り、お前たちに託したのであろう。それなら、お前たちに任せる。ウカノミタマ様もわらわと同じことをおっしゃるであろう。良きに計らえ」
再び意識が遮断される。その直前、私はどこからか懐かしい音が聞こえてくる気がした…。私の中にいる私達の最後の声を…。
「故郷を守って…。有明の海を…。この想いだけは決して忘れないで…。シュカ…。あなたは私達が残せた最後の希望の光…。忘れないで…忘れないで…。」
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




