第1章「記憶の断片」3節:塩善の憂欝
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
「この赤ちゃんの"編みぐるみ"をですか?」
「そう、お願いできるかしら。連れて行って欲しいの。あの場所へ。」
まだあどけなさが残る少年の声…。そして、聞きなれた私の母の声…。薄っすらと再び意識を取り戻した私に聞こえた声は、そんな2人の会話だった。
「い、いえ…。お願いできるもなにも…。これが級長戸辺命様の御神命とあらば、”三十三代目塩善”として、これを断れる訳がないのはお分かりなのでは?」
“級長戸辺命”、”三十三代目塩善”…。”塩善”というのは少年と思しき声の持ち主の名前であるのが、彼の言葉から私は知ることになった。その塩善と名乗る彼から発せられる“級長戸辺命”という名前は、私の母の名前なのだろうか…。私の中にある消えかかる記憶の断片の中に、確かにその名前を知っていた既視感を感じる…。
「そうね…。別に断ったとしても…別にバチを与える様なことはしないわ。何か気になる事でも…」
「珍しいな…と思いまして…。僕は神様としても、高名な編みぐるみ師の大家としても、級長戸辺命様を尊敬しています。その大家である先生が、私に編みぐるみを届ける役をお願いするなんて…。」
何度も2人の会話に”編みぐるみ”という言葉が飛び交う。”編みぐるみ”とは一体何のことなんだろう…。私の名前は”シュカ”だったはず…。”編みぐるみ”という得体の知れない何かが、母と塩善という彼と、私のほかにも、この不思議な場所に存在するのだろうか…。自分自身の姿さえも分からず、何も見ることもできず、話す事もできず、出来るのは聞くことと、肌とも何とも形容しがたい身体で感じている触感…。そんな私には、”編みぐるみ”という何かが、この場所にいる確認できる術さえもない…。
「妹の方にも、ちゃんと了承は得ているわ…。今回は私や妹が側に置いておくよりも、あの場所が1番安全だからよ。そして、この子の故郷に1番近い場所…。」
「1番安全で1番近い場所…ですか?」
「この子の名前は”シュカ”。塩善くんなら分かるだろうけど、これは普通の編みぐるみではない。有明海の天女であり、私の魂の欠片を与えた大事な娘なの。」
母の言葉に件の“編みぐるみ”が私自身であることを、ようやく悟ることができた。今の私は”編みぐるみ”と呼ばれる姿らしい…。でも、”編みぐるみ”って一体、何?
「それなら…尚更…。僕には大役過ぎるのでは?」
「いえ、塩善くんにしかできない事よ。私も弟や妹達も出来るだけ表立ってはいけない事なの。この子が、せめて1人で自分自身の背負わされた運命に抗える力を持つまでは、誰かが見守ってくれる場所が必要だから…」
その母の言葉に…私は母と離れる…その時が…もう、今であることを知った…。不思議な空間で母の慈愛ある声を聞きながら…母が放つ優しくて暖かい風を感じながら…。このまま、この場所に”編みぐるみ”という何かのまま静かに過ごしたい…。
「それが鹿島市の祐徳稲荷神社門前商店街にある前線カフェですか?」
「あの場所は、何かあった時に、いつでも逃げられる”おとぎ前線”がある。そして、古い友人の眷属達が人間達と混じって普通に暮らしているわ。あの場所なら…この子を、シュカを大事にしてくれる…」
行きたくない…。行きたくない…。行きたくない…。何故、母と離れ離れにならないといけない理由が私には分からなかった…。私は何か母に不都合な存在なのだろうか…。
「わ、分かりました。級長戸辺命様の御神命、確かに承りました。」
「それと…。一応、万が一の為に、塩善くんにこれを渡しておくわ」
「な、なんなんですか?これは……”月刊編みぐるみマガジン”??」
「神様がこんなことをしては本当はいけないんだけど…。少しだけ中身を変えてるの…。懸賞のページの部分…。」
「と、特賞…編みぐるみ作家”しなとべのみこと”の新作”有明海の天女シュカの編みぐるみ”ですか…。」
「そこは嘘じゃないわよ。創造したのも私、そして、編みぐるみとしても新作ではあるから…。」
「は、はあ…」
「これを使うのは万が一の場合よ。これを使わないで、そのまま、この子を預かってもらえば御の字。使う場合は細心の注意を払ってね。嘘は言わなくていい。でも、本当の事も言わなくても良いから…。」
「超が付くほどの高名な神様の言う言葉には聞こえませんね…。はははは…。」
「これでも”娘”には甘いのよ。”娘”を、”シュカ”を宜しく頼むわね。塩善くん。」
私の身体が母の優しい手から、塩善と呼ばれる少年の手へ…。あっけないほどのお別れ…。母の姿さえも知ることも出来ず、母の言う”私にとって1番近くて…1番安全な場所へ連れて行かれる…。せめて、母に…いや、お母さんに伝えたかった…。別れへの悲しみ…感謝の気持ち…どちらとも言えない気持ち…。そして、再び、私の意識が薄れていく…。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




