最悪なラッキー
「ん……」
閉じていた視界に違和感を覚えて瞼を開ける。
意識が覚醒して布団に潜っていた身体を起こすと、カーテンの隙間から鋭い太陽光が差し込んで顔を照らしていた。
「もう朝か……」
枕元に置いていたスマートフォンを確認すると、朝の八時を少し過ぎた時間が表示されている。
寝たのは何時頃だったろう。五十嵐さんと話し終えて布団に入ったのが深夜頃で、そこから寝るまでに結構な時間が掛かったから、六時間くらいは寝ていただろうか。
「すげえ寝た。何ヶ月ぶりだ?」
こんなにも長い時間眠ったのは感染してから初めてだ。
感染者の肉体は疲労をほとんど感じない。極限まで体を酷使したとしても、数分も経てば元通りになるほどに回復力が高いんだ。
そんな体だから寝てもせいぜい三十分。寝ては覚め、寝ては覚めを繰り返すものだから、起きている方がストレスが溜まるくらいだった。
なのに六時間近く寝られたって事は、精神的な疲れが想像以上に溜まっていたのだろう。
「体が重いな……」
筋肉痛ではなく、横になっていた時間が長すぎたせいで体が固まっているのが原因だ。
感染する前は六時間の睡眠では足りなかった。あの頃は今夜は早く寝ようとか考えていたのに、今では寝すぎたせいで不安になっているのだから不思議だ。
取り敢えず顔を洗って適当に何か食べようかと襖に指をかける。
その瞬間、隣の洋室から規則正しい女性の寝息を聞き取った。昨日を振り返れば隣の部屋に誰がいるなんて考える必要はない。
間違いなく五十嵐さんが寝ている。帰ると言っていたのに、泊まっていったらしい。
折角寝ているところを起こす必要もないし、寝起きが悪かったら死活問題なので、音を立てないよう細心の注意をはらって襖を開ける。
「――ぐっ!?」
目の前の光景に背筋が凍りつき、思わず発しかけた声を飲み込む。
床には空になったウイスキー等の酒瓶が五本も転がり、その中には日本酒の一升瓶も見える。俺と話している時はまだ一本目だったというのに、あれから追加で四本も平らげたらしい。
いや、そんな些細な事はどうだっていいんだ。大問題なのが、酒瓶と一緒に転がっている女性用の下着だった。
ブラジャーがベッドの側に落ちている。正直な話、それだけなら慌てたりしない。散々ナオの下着姿を見たことがあるから、今更ブラジャーを見たところでって話なんだ。
ただ、ベットで仰向けに眠っている五十嵐さんの存在が非常にマズい。
寝苦しかったのか理由は分からないけど、困ったことに布団をかけずに寝ていて、見えちゃいけない部位が全て白日のもとに晒されてしまっている。
女性の裸体を見て恐怖を感じたのは生まれて初めてだ。ついでに、恐怖のあまり吐き気を覚えたのも初めてだ。
一歩間違えたら死ぬどころじゃない、百歩くらい正しい足取りをしなければ生存できない。
「ふぅ~……」
深呼吸を一つして冷静に頭を働かせる。
逃げる事は論外だ。五十嵐さんが目を覚ました時に俺がいなかったら、裸を見たから逃げたと思われて殺される。
そこは大人なんだからお互い空気を読みましょうと期待したいけど、俺の命は一つしか無いのだから博打なんて打っていられない。
布団をかけ直すってのも不可能だ。なんせ御丁寧に掛け布団の上で寝てしまっている。テーブルクロス引きの要領で引き抜いて掛け直す手段もあるが、間違いなく目を覚まして殺される。
いっそ大声を上げて和室に引き返そうか。それならゲームをしていたとか、幾らでも誤魔化しが効く気がする。
それが良いと声を上げようとした時、俺の行動を予期したようなタイミングで甲高い機械音が洋室に響いた。
襖から顔を出していた俺の右側から聞こえてきた音に顔を向けると、五十嵐さんの物と思われるスマートフォンから着信音が鳴っている。
身を乗り出して液晶画面を確認すると、工藤雅士という文字が表示されている。今年の俺は厄年なのかと疑いたくなるくらいに間の悪すぎるタイミングだ。
五十嵐さんが目覚める前に急いで止めないといけないと思った刹那、天啓にも似た閃きが脳を疾走った。
そこからはもう時間との勝負。着信が切れないよう祈りながら慌ててスマートフォンとブラジャーを拾い上げ、ベッドの前に膝をついて叫ぶ。
「五十嵐さん!!」
「――何だッ!?」
飛び起きた半裸の相手を確認するよりも早く額を床へ叩きつけ、右手に握るスマートフォンと左手に握るブラジャーを突き出して必死に声を上げる。
「工藤さんからの電話です!!」
「――寄越せ! 五十嵐です。……はい。えっ!? ……はい、すみません。はい……はい……」
直ぐに右手の重みが消えた。なのに左手の重みが一向に消える気配がない。
謝っているあたり怒られているのかもしれない。だけど、個人的にはさっさとブラジャーを受け取って欲しかった。
なんと言うか左腕が潰れそうなんだ。精神的なものだが、このブラジャーはスマートフォンの百倍は重く感じる。
ようやく左手の重さから開放されたのは通話が終わった後だった。
「今直ぐ基地に向かう」
「行ってらっしゃ――」
「私を背負って走れ! 貴様は佐々木のタクシーだろうが!」
「はい……」
予想してはいたけれど、やはり俺が運ぶ羽目になるらしい。
迷彩服を着込んですっかり肌の露出がなくなった五十嵐さんに、玄関から持ってきた器具を手渡す。
「……何だこれは?」
受け取った物を微妙そうな表情で見つめながら尋ねられた。
まあ、実際に使った経験がないと本当に何の器具なのか想像がつかないだろう。
「おんぶする為の器具です。それで固定すれば両手が自由になるので便利なんですよ」
「そんな物があるのか」
「取り付ける前に靴はいて下さい。窓から飛び降りても良いですよね?」
「任せる。兎に角、一秒でも早く基地に辿り着け」
分かりましたと返事をし、靴を履き終えた五十嵐さんに器具を取り付けていく。
何度も使っていただけに淀みなく体を固定して背負いあげる。普段からナオを運んでいて良かったと思える唯一の瞬間だった。
そのまま掃き出し窓を開けてベランダに出た後、手すりを掴んで最後の確認をとる。
「それじゃ行きますけど、出来るだけくっついて下さい。変に揺れると上手く走れないので」
「ああ。私の事は気にせず走れ」
指示通りに密着してくれたお陰できっちりと体が固定され、体の自由がずいぶんと効くようになった。その反面、背中に感じる胸の感触がダイレクトに伝わってきて驚かされる。
決してナオの胸が小ぶりと言うわけじゃないが、一回り以上大きな五十嵐さんは別格だ。何とも表現が難しいけれど、ゴム風船を胸に仕込んでいるのかと思ってしまうようなインパクトがある。
とは言え、そんな下心を呑気に抱いている場合でもない。沸き起ころうとする情欲を首を振って追い払い、ベランダから飛び降りた。
六階という高所から数秒で駐車場の地面に降り立ち、目隠し用に整えられた垣根を飛び越えて車道へと出た後、基地へと続く一本道を駆け出した。
「これは……凄いな……っ!!」
走る速度がぐんぐんと加速していく道中に五十嵐さんが苦しそうに呟く。
「大丈夫ですか?」
「き、気にするなと言っただろ。全力で走れ!」
本人が平気と言うなら手を抜くわけにもいかない。
既に時速では百キロに届きそうな勢いだが、少しでも早く基地へ辿り着こうと両足に一層の力を込めて地面を蹴り上げる。
ナオを運ぶ時とは違って限りなく全力で走っているせいで十分と経たずに目的地が見えてくる。
曲がりくねった山道を通り、基地の敷地内へ続く最後の直線を一気に駆け抜けようとした時、基地の入口に立っている存在に気付いてスピードを緩めた。
「どうした?」
俺の背中で頭を下げて丸まっていた五十嵐さんが顔を上げて問い掛けてくる。
「その、工藤さんがいたので」
俺たちの視線の先には、校門前で遅刻者を待ち構えている教師のように立っている工藤さんの姿があった。
道は一本しかないし、相手も俺たちに気付いているから避けようがない。
不味い状況なのだろうなと思いつつ、工藤さんの前まで駆け寄って五十嵐さんを下ろした。
「おはよう。こんな早くから大変だったね」
「俺は別に……」
悪い事をしたわけじゃないのに、待ち伏せされていると変にかしこまってしまう。
そもそも、どうして待ち構えているんだ。五十嵐さんが伝えたにしても、そこまで暇でもないだろうに。
「報告書の提出は済ませてありますので、五十嵐三佐は輸送機の点検に向かって下さい」
「了解しました。直ぐに向かいます」
「そうしてください」
五十嵐さんが敬礼をして駆け足気味に去っていく。その後姿を見送っていると、工藤さんが制止する声を上げた。
「五十嵐三佐!」
振り返った相手に向かって言葉を続ける。
「先に身だしなみを整えて下さい。その格好で部下の前に立つのは駄目ですよ」
その言葉を聞いて五十嵐さんが後頭部に触れ、慌てて駆け出して行ってしまった。
まあ確かに見た目は酷い。寝起きで基地に向かったから直っていない寝癖が大爆発したままだ。
「やっぱ厳しいんですね」
「僕たちは嫌わてるからさ。特に気をつけて生活しなきゃでね」
「嫌われてる?」
「君だって行き成り新入生に命令されたら嫌だろ? 僕たちは正にその新入生なのさ」
「そういうものですか」
言われて再認識したけど確かに二人はかなり若い。俺は二人以外の隊員と接する機会がほぼ無いせいで気にした事すら無かった。
そりゃベテランの隊員たちからすれば命令なんて聞きたくもないのだろう。だからこそ、完璧な振る舞いを求められるわけか。
「さてと、僕も仕事に向かうとするよ。集合時間はまた後でメールするから」
「分かりました」
歩き去っていく背中を少しだけ眺めて、俺も自室へ向かって駆け出した。




