天使と悪魔
体が動かない。比喩表現じゃなく、全身が凍りついたように微動すら出来ない。
何が起きているんだと思考を巡らせると、唐突に激しい嘔吐感が沸き起こった。
「うっ!? ブッ……ヴッ!?」
音すら聞こえるほどに内蔵が脈動することで消化物が這い上がってくる。
石像のように固まったままの身体はその勢いを殺すことができず、ダムが決壊するように唇をこじ開けながら吐瀉物が吹き出した。
胃液が喉を焼いて涙で視界が霞む。原因を探せば探すほどに脳が揺さぶられ、立っていることすら辛くなってくる。
まるで天使と悪魔が言い争うように、頭の中にいる誰かが俺の意識を無理矢理にかき乱しているようだった。
もう限界だと膝を折れば少しだけ気分が楽になり、さっきまでピクリともしなかった身体が素直なほどに動いた。
治ったのかと思い立ち上がろうとすれば、波のように不快感がぶり返し、堪らず床へ横たわる。
「ハァ……アッ! グッ……ハァ……」
完全に突っ伏せば驚くほど意識も視界も晴れ渡った。しかし、もう肉体的にも精神的にも困憊しきった身体では立ち上がる気すら起きない。
思考を放棄した俺は、ステージ上で拳を振り上げたまま硬直している龍太郎を見つめる。
閻魔すら逃げ出す形相を浮かべているが、その顔色は酷く青ざめていた。
身体も激しく痙攣している。さっきまでの溢れんばかりの怒りから来る震えとは違い、必死に何かを堪えているといった震えだと見て取れた。
「クソッ……がぁ……ッ!!」
意識障害を起こす手前かのように口角から泡を吐きながらも、龍太郎は依然として眼下に横たわる工藤さんを睨み続けている。
状況から察するに俺と同じ症状なのは間違いない。だとすると、龍太郎はあの不快感を今だに耐え続けているというのか。
信じられない。俺なんて数十秒で心身ともボロボロにされたと言うのに、一体どんな精神力を持っていればあそこまで我慢できるんだ。
「殺すんだ……コロ、す――カハッ!?」
念仏のように殺意を唱え続ける龍太郎が唐突に血を吐き出し、鮮血が床を汚す。
どれ程の苦痛を味わっているか想像もつかないが、龍太郎はそれでも崩れることはなかった。けれど、吐き出る血の量は増し、ついには鼻血に加え、瞳をより鮮烈に染め上げるような血涙までもが溢れ出した。
そこまでに至ってようやく巨躯が大きくグラつく。しかし、それでも寸前で踏みとどまると、何処を見るでもない乱れた焦点で龍太郎は呟いた。
「舐めやがって……俺様は負け……ねえッ!!」
振り上げていた腕を一層高らかに持ち上げる。
「死ねやああアアアァァ――ッ!!」
絶叫と共に振り下ろされた豪腕によって大地が震え上がった。
軽々と二の腕の深さまで床を貫通させた龍太郎は、荒い息遣いで力任せに埋まった腕を引き抜く。その衝撃で後方に倒れそうになるのを堪え、満足そうに笑い声を上げた。
「へへ……へははっ! ざまあ、みやがれ……クソが……」
そこまで言い終えた瞬間、風船が割れたように巨大化した肉体が元のサイズに戻り、龍太郎は力なく床へ倒れ込んだ。
静寂が場を支配する。ここには誰もが呼吸を忘れたような静けさだけがあった。
そんな中、最も相応しくない人物が立ち上がり、天井を見上げながら疲れの見えるため息を吐く。
「ふぅ……終わった終わった! いやあ、今回は疲れたね」
殴り潰されたはずの工藤さんが生きている。龍太郎の吐き出した血で汚れてはいるが、怪我らしいものは砕けた右腕のみで、それ以外の外傷は何処にも見られない。
拳銃をホルスターに仕舞いながら軽快な足取りで俺の元へ近づき、案ずるような視線を向けてくる。
「遠藤君は……まだ動けそうにないね」
それだけ確認した後、直ぐに顔を上げてナオへ向かって指示を飛ばした。
「佐々木君は遠藤君を頼むね。僕は腕の処置と離陸準備をするからさ」
「え? えっ?」
「それと、龍太郎君が目を覚ましたら、妹さんと一緒に連れてきて。それじゃ頼んだよ」
ハハハッと気持ちの良い笑い声を上げながら、工藤さんは軽い足取りで体育館から出ていった。
あまりにも場違いな言動の全てに頭が追いつかず、開いた口が塞がらない。
取り敢えず起き上がろうと腕に力を込めると、さっきまでの重しのような気怠さが何処かへと消え失せ、当たり前のように立つことができた。
軽く頭を振ってみても不快感は無く、身体が変に硬直している様子もない。あるとすれば、嘔吐した事で口の中と上着が臭いくらいだろう。
「タクト! 大丈ぶ――って、ゲロまみれじゃないの!? くっさ!!」
ステージに上ってきたナオが露骨な嫌悪感を表情に現している。
「俺だって好き好んでゲロ吐いたわけじゃねえよ!」
「で? 一体何があったのよ?」
「分かんねえ。身体が動かなくなって、そしたら急に吐き気がしてきて……」
あの時の事を思い起こしても原因がまるで分からない。
「ナオは平気だったのか?」
「アタシは特に何ともなかったけど?」
「う~ん、分かんねえなあ……」
ナオは平気だった。工藤さんも分からないけど、さっきの態度から察するに平気なんだと思う。なら俺と龍太郎、それと若葉ちゃんの三人だけだが、龍太郎に駆け寄って体を揺すっている様子から、若葉ちゃんも問題はなさそうだ。
俺と龍太郎だけ被害を受けた。しかし、俺たちだけの共通点なんて思いつかない。
「それより、これからどうするの?」
「え? あ、ああ……そうだよな」
あの不快感の正体とか、服がゲロまみれとか、ドン引きしたナオによって受けた精神的ダメージとかどうだっていい。これから俺たちは何をすればいいんだ。
龍太郎を連れてこいと言われたが、当の本人はピクリとも動かない。倒れるこむまでの出来事を見ている限り、死んでいたって不思議じゃないぞ。仮に無事だったとしても素直に言うことを聞くとは思えなかった。
「――ヅアァ!?」
俺の考えに呼応するように龍太郎が飛び起き、辺りを見回す事も程々に、目の前にいた若葉ちゃんを抱きしめる。
「大丈夫か! 怪我は! 何処も痛い所は――」
全身の隅々に手を当てながら無事を確認していた動作が直ぐに止まった。
俺と視線が重なり、若葉ちゃんを挟んで向かい合う。
要塞の能力を解いていても、その朱色に染まった瞳を見ているだけで血の気が引いていくのを感じる。
臨戦態勢を取るべく腰を落とし、何時でも逃げられるようナオの側へと寄った。
「あのクソは何処に行きやがった? 死んだのか?」
「……工藤さんは生きてる。お前と若葉ちゃんを連れてくるよう言われてる」
「そうかい。チッ! やっぱ殺せてなかったか」
心底不満げに舌打ちをする龍太郎からは敵意は感じない。怒りが静まったという訳じゃないのは感じるのだが、不思議とスッキリとしたような、納得したような表情に見えた。
「どうして殺さなかったんだ? わざと見逃したのか?」
「あ? んな事はどうだっていいだろうが。それより答えろ」
「……なんだよ?」
睨まれると竦みそうになる。どうやら心の底まで要塞の恐怖を植え付けられてしまったようだ。
それでも何とか平静を装って龍太郎と対峙し続ける。
「本当に若葉の安全は保証されんだろうな?」
「え?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
何を言っているんだと首を傾げると、苛立ちを隠そうともせずに怒声を向けてくる。
「え? じゃねえよ! 安全地帯ってのは本当に安全なのか、って聞いてんだ!」
「安全……ああ! そこは安全だ。場所は知らねえけど、俺たちはそう聞かされてる」
「何だそりゃ? アテにならねえ返事だなあ、オイ」
龍太郎が呆れ声を出すが仕方がない。俺だってまさかそんな質問をされるとは思ってもみなかったんだ。
「協力してくれるのか……?」
「したくねえ! したくねえが、あのクソは俺様を見逃しやがった。借りを返すのが不良だ」
不良なのか真面目なのかもう分からない。そんな事は出会った時から一ミリも理解出来ていなかったと思うけど、それならそれで助かるのも事実だった。
ここに来て再び暴れられたら困るどころの話じゃないからな。
「若葉が安全なら何だって良い。さっさと案内しろや」
「分かった。取り敢えず、服とか必要な物をまとめてくれ」
「ったく、面倒くせえな。用意すっから外で待ってろ。若葉と少し話しておきてえしな」
その言葉を素直に受け入れたら逃げられるんじゃないかと考えたが、不良という正直者を貫こうとしている龍太郎なら嘘をつくことも無いだろうと信じ、ナオと二人で体育館を後にした。
外に出れば校庭に停まる見慣れた輸送機が確認できる。五十嵐さんや他の隊員たちは既に機内へ入っているのか、俺たちへ向かって工藤さんが一人寂しく手を振っていた。
「協力してくれるって?」
「はい。今は必要な物をまとめてるとこです」
「そうかそうか」
満足そうに頷く姿に違和感は無い。けれど、どうしても右腕が視界に入ってしまう。まるでミイラのように包帯で巻かれた腕は節々が血で滲んでいるんだ。
何とも不思議な光景だった。砕けた骨が皮膚を突き破っていたはずなのに、見た限りじゃそんな様子は見られない。しかも、夥しいまでの出血すら包帯の表面にじんわり滲む程度に治まっている。
「ねえ、その右腕って大丈夫なの?」
「これかい? 平気平気、もう痛みも随分と引いたから」
ナオの質問に右腕を振りながら平気だと笑い飛ばした。
本当に問題無いとしたら気味が悪いほどの回復力だと思う。
「もう治ってるんですか?」
「いや、指が動かないし完全にイカれてるよ。放っておいたらダメになるだろうね」
「ヤバいじゃないですか!?」
「ちゃんと治療すれば大丈夫。それより、準備が済んだようだよ」
俺の肩を叩きながら笑い続ける工藤さんに言われて体育館へ目を向けると、若葉ちゃんが自身の身長と同じくらい大きなぬいぐるみを持ち、隣の龍太郎はやたら大きな風呂敷を背負って立っていた。
今から夜逃げでもするかのような格好だ。何処の店に行ってあれだけの量を包める風呂敷を手に入れたのか疑問が湧いてくる。
「多いねえ。あれじゃ先に荷解きしないと輸送機に入らないよ」
「ですね……」
今回は大勢の隊員が乗り込んでいるから機内のスペースが少ない。
不機嫌そうな表情で向かってくる龍太郎を眺めながら、俺たちは追加の仕事が増えたことにため息をつくのだった。




