ラン・タクト・ラン
落ちる。着実に地面が迫ってくる。
呼吸が出来ない、頭も凍りついている。着地しなければと思っても、手足がピクリとも動いてくれない。
怖い。確実な死が迫るにつれて恐怖が何倍にも膨れ上がっていく。
地上はもう目の前だ。二秒後には激突して身体が砕け散る。
押し寄せる恐怖心から逃げ出すように本能的に身体を丸めて目を閉じた。
「よいしょ!」
工藤さんの声と共に軽い衝撃を感じた後、身体が浮遊感に包まれた。
瞼を開けるようとした瞬間に再び衝撃が身体を襲い、堪らず目をキツく瞑る。
「危なかったね」
聞こえた声に恐る恐る瞼を開けると、工藤さんが俺の顔を見下ろして立っていた。
「――グッ! ……ハッ! ……ハッ!!」
助かったと脳が理解した瞬間、肺が止まっていた呼吸を再開させようとする。だが、上手く吸えず、吐くこともままならない。視界も焦点がブレまくり、全身が激しく痙攣している。
「もう大丈夫だから、落ち着いて呼吸をするんだ。ほら、タカイタカーイ!」
「や、やめ、ヤメロ!! 死ぬ! マジで死ぬ!!」
有ろう事か、工藤さんが俺の身体を宙に放り始めた。宙を舞っては受け止められ、舞っては受け止められを何度も繰り返す。
「あ、ごめん。流石に悪巫山戯がすぎたね」
「なッ!? ――ブベッ!!」
六回ほど空を飛んだ後、申し訳無さそうな表情を浮かべた工藤さんが一歩後ずさる。受け止める相手を失った身体は重力に従って地面へと叩きつけられた。
「ふっざけんな!! 殺す気か!!」
「そう簡単に死なないから大丈夫だってば。それに、身体のほうも落ち着いたようだしね」
言われてみれば呼吸も出来るし震えも止まっている。
「これが荒療治ってやつさ」
「拷問だろ!?」
「ははっ、僕がそんな酷い事するように見えるかい?」
「見えるし、たった今やったじゃねえか!!」
無自覚な悪意ほど恐ろしいことはないぞ。
本当にこの人とは会話のキャッチボールが成立しない。キャッチボールというか、これはもう会話の遠投だ。放り投げた球を俺が拾って返し、工藤さんが再び放り投げる。
まるで賽の河原で石を積まされているようだ。
「……遠藤君」
「な、なんだよ?」
唐突に工藤さんが真顔になって口調も重みをました。
怒らせたのかと思ったがそうではなく、直ぐに上機嫌な笑みを浮かべる。
「君が思っている以上に、君は嘘が下手なんだよ」
「本音も本音! 純度百パーセントだよ馬鹿野郎ッ!!」
「分かった分かった。そういう事にしておこうね」
「もうヤダこの人ぉぉぉ!!」
ダメだ、何を言っても通じていない。
究極のポジティブシンキングだ。鋼の心臓どころじゃない、タングステンの心臓を持っているに違いない。
「それにしても、先に着地の訓練をしてからじゃないと怪我じゃすまなそうだね」
「最初からそうしてくださいよ……」
「僕は今の方法で訓練したから問題無いと思っててね。ごめん、考えを改めるよ」
素直に頭を下げる姿を見ていると何とも言えない気分になる。
「いいですよ別に。そもそも加減できなかった俺のせいですし……」
怒りの矛先を向ける相手を失った俺は、頭をかきながら立ち上がり、そう返事をすることしかできなかった。
「それで? 次は着地の訓練ですか」
「いや、さっきの落下がトラウマになるといけない。時間を置こう」
「タカイタカイしたよな! 俺にしてたよな!!」
「あれは治療の一環だからさ、救うためには仕方がなかったんだよ」
あれは絶対に仕方がないなんて思っていない。間違いなくあれは楽しんでやっていた。
よくもここまで悪びれることなく語れるものだと感心するぞ。
「と言うことで、次は走る訓練をしよう」
「もう何だっていいですよ……」
「投げやりはダメだよ。これだって十分危険な訓練だからね」
アンタのせいだよって言いたい気持ちを飲み込む。目上の相手だとか空気を読んだとかじゃない、言ってもどうせ伝わらないからだ。
心を落ち着けろ。動じるから相手が面白がり、俺は疲れるんだ。
今は能力を使いこなす努力が最優先、それ以外を考える必要なんて無い。
「どう危険なんですか?」
「転んだら大根おろしみたいに身体が削られるよ」
「こっわ……」
想像以上にエグい。本当に気を引き締めたほうがよさそうだ。
「まあでも、安全第一でやるから大丈夫」
「具体的にどうすれば?」
「僕と一緒に走りながら徐々にスピードを上げていくってだけさ」
単純明快な内容に引き締めた気が抜ける。
でもなるほど、工藤さんのスピードに引っ張られることで能力を自然に引き出すってことか。きっと行き成り能力を使って走ると高確率で転んでしまうのだろうな。
「コースはトラックを回るだけ。それじゃあ行こう」
「はい!」
返事をして俺たちは走り始める。さっきのジョギングのような速度じゃなく、初っ端から結構な速さだ。
引き離されないように一定の距離を保ちつつ、工藤さんの右後方に位置する。
「そろそろスピード上げていくけど、絶対に僕を追い抜かないようにね」
「分かりました!」
言葉通り工藤さんのスピードが上がり始めた。
まだ人間らしい速度、まだ俺の全速力よりも遅い。けれど、工藤さんとの距離が詰まらない、グイグイと引き離されていく。
負けじと加速を続ければ、徐々に未知の領域へ足を踏み入れているのを感じだす。
速い。間違いなく俺の全速力よりも速く走っているし走れている。
「今が時速三十六キロくらいだよ! このスピードで走れたらオリンピックに出られる!」
「陸上選手ってこんなスピードで走ってたんですね! 凄え怖いです!」
「初めてのスピードだからね!」
互いに声を張り上げながら会話しつつも加速は終わらない。
気分は言い表せない。まるで長い長い急斜面を駆け下りている気分だ。止まりたいけど止まったら間違いなく転ぶと分かってしまう恐怖を感じる。
「これで四十五キロくらい! 金メダリストとほぼ同じ速度だよ!」
「そりゃこんなに速けりゃ誰も勝てませんわ!」
原付きの法定速度を十キロ以上も上回る速度って考えるとゾッとする。
これだけの速度なのに工藤さんの背中は離れていく。新たな金メダリスト誕生の瞬間を目の当たりにしながら、懸命に追いかけようと足を動かす。
ここまで来ると走るフォームに変化が起きていた。小刻みな足運びではなく、歩幅が大きく開いて飛ぶように走る。
脳が能力に対応し始めたのかと思うと、心の底から高揚感が湧き上がる。
ナオは今どんな気持ちで俺たちを見ているのだろうか。確認したくてもよそ見をしたら転びそうで出来ない。
「そろそろ高速道路を走れるよ!」
「何キロでしたっけ!」
「五十キロだね!」
ついに生身で高速道路を走行可能な速度に到達したのか。
身体に襲いかかる抵抗が凄まじい。まだまだ加速できると感じるのに空気抵抗がそれを頑なに邪魔をしてくる。なんだか人間を逸脱しようとする行為に対して怒っているようだ。
「減速していくよ! 転ばないように注意してね!」
「分かりました!」
減速すると口で簡単に言えても実践するのは難しい。一度でも力加減を間違ったらバランスを崩して身体が吹っ飛ぶ気がする。
右足が地面を捉えたタイミングを逃さないよう僅かに力を抜き、左足も同様に繊細な加減を行いつつスピードを落としていく。
背中を冷や汗が流れていくのを感じながら、ようやく金メダリストの速度まで減速した時、感覚の変化に驚いた。
恐怖を感じない。加速していた時は怖くて仕方がなかったのに、今じゃ『こんなもんか』と感じてしまう。
そこから止まるまでは一瞬だった。
「気分はどうだい?」
一足先に手前で停止していた工藤さんが問いかけてくる。
俺は一度だけ自分の両足を見下ろして、
「凄え楽しくて、凄え興奮しました!」
嘘偽りのない本心を答えた。




