第40話(最終回):待ち望まれる「誰か」。〜旧約聖書の終わり、新約へのバトン〜
えー、みなさんこんにちは。春日部つむぎです。
これまで、全40回にわたって旧約聖書の長い長い歴史を追いかけてきました。
神様に愛されているのに、どうしても誘惑に負けて自爆してしまう人間たち。
それを、時に厳しく、時に泣きながら追いかけ続ける神様。
そんな「追いかけっこ」の果てに、物語はいったんの幕引きを迎えます。
それでは、最終回「待ち望まれる『誰か』。」いってみましょう。
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歴史は「らせん階段」のように
旧約聖書の終わり、再建されたエルサレムで人々は暮らしていましたが、かつてのダビデ王の頃のような輝きはありませんでした。相変わらず外国の支配を受け、人々の心も次第に冷めていきます。
預言者たちは最後に、こう警告しました。
「お前たち、また形だけの宗教になってないか? 神様が本当に求めているのは、羊のいけにえじゃなくて、お前たちの『心』なんだよ」
結局、人は自分の力だけでは、どんなに立派な法律(律法)があっても、それを完璧に守り通すことはできませんでした。
「善いことをしたいのに、できない」
「神様を愛したいのに、自分を愛してしまう」
その矛盾を抱えたまま、旧約聖書の最後のページは閉じられます。でも、そこには絶望ではなく、ある「期待」が書き残されていました。
約400年の「沈黙」
旧約聖書の最後の預言者マラキから、次の物語が始まるまで、歴史は約400年もの間、神様の声が聞こえない「沈黙の時代」に突入します。
預言者も現れず、新しい聖書も書かれない。
人々は暗闇の中で、ひたすら待ち続けました。
「いつか、エデンの園で約束された『蛇の頭を砕く子』が来るはずだ」
「いつか、ダビデ王の家系から、本当の平和をもたらす王様が来るはずだ」
「いつか、エレミヤが言ったように、石の板じゃなくて心に愛を刻んでくれる『誰か』が来るはずだ」
この「いつか」を待ちわびるエネルギーこそが、旧約聖書の本当の重みなんです。
補正の結末:そして、光の中へ
物語は、ある静かな夜、ベツレヘムという小さな町の馬小屋へと繋がっていきます。
旧約聖書が積み上げてきた、膨大な「やらかし」と「悲劇」と「祈り」。
その全ての重荷を、代わりに背負ってくれる「誰か」がついに現れるところで、このバトンは新約聖書へと手渡されます。
旧約聖書は、言わば「神様という最高に一途な作者と、どうしようもなく不器用な人間たちが紡いだ、壮大な未完のドラマ」でした。
登場人物はみんなダメダメで、失敗ばかり。でも、だからこそ、最後に現れる「救い」がどれほどまばゆいものかが分かるんです。
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つむぎのあとがき
さて、「つむぎ訳・旧約聖書」全40話、いかがだったでしょうか。
改めて振り返ると、神様って本当にお節介で、忍耐強くて、愛が重いですよね(笑)。
でも、そんな神様と、どうしようもない私たち人間が織りなす「愛のやらかし劇」こそが、今も世界中で読み継がれている理由なんだと思います。
皆さんの心の中に、一話でも「あ、これちょっと面白いな」とか「自分に似てるな」と思えるエピソードが残っていたら、つむぎはとっても嬉しいです。
長い間のお付き合い、本当にありがとうございました!
またどこかの物語でお会いしましょう。
バイバイ!




