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宙に揺蕩ふ者なれば  作者: ユカタタン
第一章 黎明期の終わり
9/21

Chapter 08 生物 






長い通路。

小さな手足を使い一生懸命走っていたのは、二頭身半のブラウン管頭。

すると、向こうから大きな影が迫ってきた。ブラウン管頭は立ち止まる。恐る恐る様子を窺うと、飛び上がり、大きな影に向かって、急いで駆け出した。

ブラウン管頭が出迎えたのは、四つ足で歩く白い防護服で全身を覆った巨大な亀で、頭部を隠すヘルメットの覗き窓から、オーヒャの素顔が見える。

サメやシャチの頭部を思わせる形状のヘルメット。その顎の下には、円筒形の装置が横に埋め込まれており、そこから伸びる管は、長い首に沿って並ぶ小さな留め金に通されている。

オーヒャの広い背中には、円形の装置が載せられ、それに組み込まれたボンベに管が接続されていた。


「グルキュゥゥ……ようチビ、生きてたか。実はな、お前に客室の商品の様子を見てもらおうと思ったんだが……全部に手が回るか、正直心配になってな」


オーヒャの前に立ちどまったブラウン管頭のチビは、両手を振り上げたり、左右を交互に振り向いたり、飛び跳ねたり、全身を使って、身振り手振りを始めた。

それを見ていたオーヒャの表情が次第に険しくなる。


「なんだと…全部の部屋が開いていた?それで……あいつの部屋も!?

 中に…部屋の中に……いなく、なって、た……」


鈍い青緑色をしたオーヒャの顔から血の気が引くと、一層肌の色が悪くなった。






艦橋を閉ざす扉の溶接部を熱するのは満のロボット。

ヨヘルから自分の右腕を受け取った兄貴が告げる。


「あとは、機械が自動で溶接部分を溶かして扉を開けてくれるだろう……そして、船橋を制圧し、三人で中に居る奴を捕まえ、人質にする。でなきゃ……」


「殺す」


パクーダが言葉を付け加えると、兄貴は静かに頷いた。


「ああ…だが、油断するなよ…中に居る奴も、しっかりと、武装していやがる」


直後、ヨヘルの耳元に細やかな連続音が響き、当人は左手でヘルメット側頭部に触れる。


「…オーヒャ?どうした……あ?……逃げた?何が……いや……は?……はぁ?」


兄貴とパクーダが注目すると、ヨヘルは通信を終え、二人に向き直った。


「ヤバいことになった…オーヒャの野郎、商品を一匹逃がしたらしい……」


兄貴が小首を傾げる。


「商品?あぁ…そう言えば、色々な生物を持ってきていたな、自分の船が壊れたからって……」


「その一匹が、客室から逃げたらしい。しかも、高レベルの危険猛獣を…」


まじか…とパクーダが呟くと、兄貴も囁く。


「さっき、船の電力系統が再起動された時か…」


どういうことだ?とヨヘルが尋ねる。

兄貴が答えた。


「通常…こんな船の制御を再起動させるのは難しい。だがそれを強行した。結果、制御が異常を検知し、各設備の不具合を確認するため、システム制御式の扉が自動的に開いたんだ。

 例えば、人が部屋に閉じ込められるのを防ぐためにな……」


「船橋の扉も開けてくれればぁ…あ、いや、そもそも溶接されてるから、開かないか?」


パクーダがそう言うと、兄貴が言う。


「いや、そもそも、船橋や機関部の扉は、別の制御系統だから、最初から開かなかったと思うぞ」


「なるほど…で、オーヒャは、何て?」


パクーダの質問に、ヨヘルは答える。


「オーヒャ曰く、出てきたのは、なんか鋭い爪をもった白い獣らしい。アフアフベターイとか……」


「アフアフベターイ…127?…ああ、商品番号か、なにかか?」


兄貴の呟きにヨヘルは肩を竦めると、話し続けた。


「まあ…とりあえず、そいつは、寒い気候の生物で、気性が荒くて、眠らせてから移動させていたほど、慎重に扱ってた、らしい……」


パクーダが首を傾げる。


「眠らせてから?……飯はやってたのか?」


「部屋の中に予め麻酔噴霧器を置いていたらしい。それを遠隔操作で起動して眠らせてから、部屋に入っていたそうだ」


「はぁ……今後、奴と一緒に仕事はしても、奴の頼みは、二度と聞かん……」


兄貴の言葉には怒気が籠められていた。

パクーダが口を開く。


「侵入者の方は、このことを知らないよな?だったら、運よく殺し合ってくれたりとか…」


兄貴はすかさずいう。


「運が良ければ、な……ここんところ、俺たちの運勢は暗転し続けてる。

 もし、その生物がこっちに向かってきたときは、迷わず、俺たちで始末するぞ」


三兄弟の意見は、それでまとまった。











夢子は、ゆっくりと、慎重に通路を進んでいた。

足元には、薄緑色の液体が固い床に飛び散り、染み付く。

通路一杯に、獣じみたきつい臭気が立ち込める。

夢子のこめかみから、一筋の汗が流れた。


『あ、あの…本当にここを通らねば、ならないのでしょうか?』


夢子は、通路の両側に点在する開いたドアを見ながら、問いかける。


『だって、妾たちが求めているものが何処にあるのか分からないし、この建造物の構造だって分からない。ここは、手あたり次第に行かなきゃ……それに、何だか、近づいてきたような気が…』


『求めているものにですか?それとも、別のものにですか?!』


女神に詰問(きつもん)すると、通路の向こうから、物音が聞こえた、様な気がした。

夢子は立ち止まり、息を潜める。

物音の発生源は開いたドアの一つ。そこから緑色の液体が床に点在していた。

物音は、徐々に大きくなり始め、足音の如く、重く、響く。

夢子は思わず、真横の部屋に静かに侵入すると、スライド式ドアを閉めた。

ドアを隔てて、通路の方から聞こえてきた音は、大きく鮮明な足音となり、同時に、空気を吸うような鈍い響きが届く。

ドアの向こう、夢子の目の前に、足音の主は迫っていた。


『邪神様!何か居ます!目の前に、いや、ドアの向こうに、何かがッ!』


『落ち着いて夢子!今の其方(そなた)の肉体は、強力になっている!もし、攻撃を受けても、逃げ延びられよう……だから、落ち着いて、息を潜めて、やり過ごして!』


夢子はドアノブと思しき窪みに、自身の変容した左手を喰い込ませ、力いっぱいドアを閉める。

歯を食いしばり、息を殺し、ドアの向こうの音に全意識を集中させた。

踏締める足音が近づいてくる。足元に振動が伝わると、夢子は無意識に呼吸を止めた。

足音は床を震わせながら、徐々に、遠ざかって行く。

夢子は、ゆっくりと、無音で息を吐き、静かに息を吸った。

それから暫くして、何も聞こえないことを確認すると、慎重にドアを引く。

通路を覗くと、そこには、誰の姿もない。

代わりに、強い獣臭が立ち込め、それとは全く異なる生臭い空気が漂っていた。

夢子は右手で鼻を覆う。その時、視線が足元に向けられる。

床には、緑色で塗られた足跡が残されていた。

大きな肉球の跡に並ぶのは、それよりも小さい四つの肉球で、それぞれを取り囲む細長い無数の線は体毛の痕跡だろうか。

通路に出た夢子は、足跡と自身の足を並べてみる。

結果、大きな足跡の中には、スニーカーを履く少女の足が三つ以上入ることが分かった。

震える夢子は、変異した自分の左手を床に置き、足跡と比べる。

左腕より、足跡の方が二回り大きい。

床から左手を離した夢子は立ち上がると、暫く、呆然とした。

それでも、徐々に、思考が戻ってくる。

もし、たった一人で、先程の状況に出くわしていたら。破裂しそうなほど拍動する心臓に負け、息を震わせ、歯を鳴らしていた、かもしれない。

女神の命令と励ましが無ければ、やり過ごせたかどうか怪しい。

そう思うと、体の奥から寒気が沸き上がり、一層、震えがこみ上げ、身が()む。


『大丈夫夢子?其方の心が、今まで以上に揺らめいているわ、何かあった?』


『だ、だい、じょ、丈夫です…こと、ことこと、こどドドウゥバァァ、ガガ…』


『心が乱れているから、言葉がうまく伝わらいのよね?そうよね?

 変異したわけでは、ないわよね?……

 落ち着いたら、また語り掛けて…大丈夫…妾がついてるわ』


夢子は泣き出しそうだった。不安に圧し潰されそうだった。

それでも、涙を見せなかったのは、優しい言葉を掛けてもらったからだろう。

足跡の主が去った方に背を向ける夢子は、無心で歩き出した。


その途中、最初に物音を聞いたドアの前を通り、顔をしかめる程強烈な臭気を全身に浴びる。

ドアは、大きく折り曲げられ、室内にめり込んでいた。

室内の壁、床、調度品、見える範囲の至る所に緑色の液体が飛び散っている。

そして、床に散らばる破片。それは、蟹や虫を思わせる甲殻の断片で、緑色の液体に染まり、生々しい生体組織がこびり付いていた。

夢子が注目すると、部屋の奥に大きな甲殻と軟組織の塊が見え、その中に虫の頭部を想起する。

もっと近づけば、詳細が分かったかもしれない。だが、夢子は、それ以上部屋を覗かず、足早に通り過ぎた。










 

「あたしらは待ち惚けか……かったる」


ダンスホールの扉の前で骨の銃を構える愛理がそうぼやく。

前脚を枕に床で臥せっていたエメアが告げる。


「しょうがないでしょう…出払った隙にここを占拠されたら、ここの人たちを人質にされる」


ダンスホールの壁際には、人々が並んで眠っている。


「プラスα…ここは敵の領域…どんな仕掛けや罠があるか分からない」


「でもさぁ…あたしの性分と合わないんだよぉ…拠点防衛は……ねえ旦那!敵の位置が分かったら、こっちから攻め込みましょう?」


愛理が振り向くと、目を閉じた旦那が立っていた。


「いいや、それは軽率に思える……今、位置が分かるのは一人だけなんだ」


「どうして…いつもみたいにアウラを…あぁ…制限してるんですかアウラを?」


愛理の推理に、旦那は頷く。


「そう……今、私が利用しているのは、先程、誘拐犯の一人に浴びせかけたアウラだけ……

 誘拐犯の固有次元に残留するそのアウラが、座標の(ひずみ)(ともな)って……」


「分かりやすく」


愛理が淡白に告げると、旦那は少し口籠ってから話し出す。


「つ、つまり…誘拐犯の…体に残っていたアウラが、誘拐犯の移動に伴って、尾を引いているんだ。

 私は私の感覚を駆使して、それを辿(たど)り、誘拐犯の位置を探っている」


「はぁ……もっと簡単に言うと、誘拐犯に着けた匂いを嗅ぎ分けて、場所を特定している、と?」


「愛理…神様を犬みたいに言わないで……」


「私、イヌと一緒……えへへ……」


「本人嬉しそうだぞ?」


立ち上がったエメアは振り返ると、神様と言う敬称でもって呼ぶ相手を見上げ、微妙な表情を浮かべる。

旦那は言った。


「攻撃しに向かったとして、犯人たちが一か所に集まっているかは、分からない…それで無暗に飛び込めば、ここを狙われるかもしれないし、奇襲を受ける可能性もある」


エメアが補足する。


「それを考慮して、僕たちが散開(さんかい)したら…各個撃破されるかもしれないし……

 まあ、戦闘狂の君は、華々しい最後を迎えられて、気分爽快になるかもしれないけど……」

 僕はまだまだ生きていたいから、死ぬのも怪我も御免被るよぉ…」


「悪かったなッ戦闘狂で!」


愛理は不満そうに言い返す。

旦那は片目を開けると語った。


「それに、無理に戦う必要はない……反目し合っていても傷つけあう意味は無いし、持っている力を行使する理由もない。君たちも、彼らも、どちらも同じく等しく、大切な命だ……」


「分かったろ…神様は優しいから、なるべく命を無駄にしたくないのさ、粗暴な君と違って」


愛理は此方(こちら)を見上げるエメアの得意気な顔を睨みつけた。


「悪かったな粗暴で!」


彼女は腕を組み、顔を背ける。

旦那は両目を瞑り、別の次元に意識を向けた。


黒い影と白い靄が捻じれ合う混沌の中に、群青色に染まった光の帯が伸びている。

帯はゆったりと漂い、右に曲がり、左に逸れ、何度も行方を変え、徐々にか細くなっていく。

やがて、群青の帯は、一か所に停滞し、その場で行ったり来たりを繰り返して、絡み合い、淡い雲を形成した。


旦那は両目を開け、告げる。


「しまったッ…犯人が艦橋に行ってた!」


『満くん、聞こえているかい?』


旦那は目を瞑り、脳裏に呼びかける。


『だ…旦那!ヨかった!助けてください!』


満から送られた言葉はとても切迫していた。旦那は、何があった!と強く問う。


『テキかナンなのか、カンキョウのトビラのムこうで、ナニかがオこっているんですッ!』


『分かった…愛理さんを向かわせる!それまで持ちこたえて!』


『…わ、わわ…ワかりました!こっちは、トビラをフサいでモちコタえます!』


旦那は目開け、開口一番に、えり!と叫んだ。

愛理とエメアが振り返る。


「思った以上に、満が危ないみたいだ!愛理さん…いや二人とも艦橋に向かってくれ!

 行き方は、私がエメアに伝える!」


愛理は口角を釣り上げ、両手で骨の銃を構え直し、了解!と意気揚々に答える。

エメアは何かを思いついた様な表情を浮かべると、旦那を見て口を開く。


「神様、ここは僕に任せてくれませんか……神様は、愛理と一緒に、艦橋へ向かってください」


「でも…」


旦那の言葉を遮り、エメアが答えた。


「神様が近くに居ては、ここに居る人たちに、どんな影響が出るか分からない。それに、この部屋の出入り口は一つ。僕が死守すれば、中の人は安全です!」


旦那はエメアと視線を交わすと、少し悩んだような目を見せ、頷く。


「分かった…まかせた」


エメアは微笑み、駆け出す愛理と旦那を見送った。





「でもおかしくないですか?旦那だったら、満のSOSが聞こえたでしょう?」


通路を走る愛理は、隣に並走する旦那に尋ねた。


「ああ…そのはずだ…だが、私は、彼の危機を察知できなかった……」


(本来なら、満に繋げたアウラで彼の意志を聞けた。しかし、それが叶わなかった。

私が知らぬ間に、繋がりを断たれていた?)


旦那は、夢子の精神に潜った時に浴びせられた猛威を思い出す。


(あの時の邪神の圧力で、アウラを削られたか?

 ありうる…今回繋げたアウラは周りの影響を憂慮して、か細く仕上げた…それに、感染者を迂回(うかい)するため、何時(いつ)もなら使わない深層(しんそう)に通していた……それも、災いしたのか……?それとも……)


旦那は、自らの右手を見た。


「私も、邪神の影響を受けているのかも、しれないな……」


「いきなり化け物になって襲ってくるとか、やめてくださいよ?」


「ふ…私もそれは嫌だが……このままアウラを使い続ければ、どうなるか、分からない」


「何か…最初からずっと、憶測と不安に踊らされてませんか?」


「それは、間違いないな……なあ愛理…不本意だが、君の武装を貸してもらえないだろうか?

 いざとなったら、それで君を守…」


「嫌ですダメです結構です。旦那に武器を持たせるくらいなら、事前に自分の頭を撃ち抜いて死にます!」


「なんで?!」


「アンタこの前、電子レンジで何人殺しかけたか忘れましたか?!そんな人に、武器なんて持たせたら、太陽系が吹き飛びますよ!!邪神以上の危機ですよ!!」


「そんなぁ…でも…それじゃあ……」


「アウラを使っていいですから!今は急いで!ハリーアップッ!!」


愛理は駆け足を速め、旦那はその後を追った。











夢子は十字路に差し掛かったところで、足を止める。

目の前に現れたのは、彼女の背丈を超える青褐色の甲殻。

二つの関節で構築された稲妻型の二本の脚。足先から前に向かって伸びる二本の爪。踵から生えた一本の爪。両足合わせて六本の爪が身体を支える。

甲殻の端には、無数に枝分かれする直線を正方形に整えた記号が印字されていた。

硬直する夢子は、左目の視線を忙しなく震わせる。

甲殻の主は、二本の脚を動かし、振り返った。

半円形で偏平な頭部の両側には、楕円形に膨らむ黒い複眼が嵌め込まれている。

頭頂部からは、シダ植物を連想させる黄色い触角が二本生えていた。

口元を包む二つの器官は蟹の鋏に思え、顎の下には幾つもの関節で連なった二本の牙が上向きに渦を巻く。

地面に届きそうなほど長く太い腕は、関節の部分で(くび)れている。

両手にそれぞれ備わる三本指は、硬い甲殻に覆われた芋虫の様に見えた。

白い甲殻で覆われた腹部には、小さな脚が対になって並び、絶えず蠢く。

夢子は恐怖によって全身の感覚を失い、全く動けなくなっていた。

巨大虫型生物は、口の鋏を左右に開き、片方の牙を真っ直ぐに伸ばす。その口腔の奥は、緑色の液体に染まり、密集する無数の(こま)かい牙が喉の奥に向かって波打っていた。

少女の脳裏に女神が問いかける。


『夢子?どうしたの?とても深い恐怖を感じているようだけど、何があったの?』


『き、キキ…ガがかカガァ…む、むググガザッ、ガミ、デ……』


『夢子、落ち着いて、意識を集中させて、いくら妾でも何を伝えたいのか分からない』


『ム、ムシ…メの、メのマエ、に…ムし…が、アァり、ます……』


『むし?そう言ったのね?生物の虫のこと?、それとも邪神のこと?どうなの?』


(落ち着け…落ち着け、落ち着け、落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け…)


夢子は、信頼する女神との会話を一時中断し、自分に語りかけ、平静を取り戻そうと努めた。


(思い出せ思い出せ、熊と出会ったら、たしか……目を合わせて、そのまま後ろ向きに距離を取る、ん、だったっけ?)


『…何があったか分からないけど、恐怖が和らいでいる。大丈夫よ、そのまま落ち着いて』


女神の声が聞こえ、夢子の理性が緊張を覆していく。手足の感覚が戻ってきた。後ろに引き下がろうとすると、実際に、右足が僅かに後ろにずれる。

逃げられる、夢子はそう思った。その時、研ぎ澄まされた五感の内、聴覚が、雫が落ちて跳ね上がっ

た音を捉える。

夢子の左の瞳が虫型生物の足元に視線を移すと、緑色の水玉模様が床に描かれていた。

視線が上に移動し、虫型生物の太い右腕をみる。そこに生じた亀裂からは、緑色の線が伝っていた。

目の前の虫型生物が急に左を向いた様な仕草を見せると、即座に180度回り、右を向く。

虫型生物は、両手両脚を地面につけると、夢子から見て左側の通路へ、爬行するように走り出した。

それは一瞬のことで、夢子は驚き、肩を跳ね上げる以外何も出来ない。

彼女は、走り去る虫型生物の背を黙って見送った。

いつの間にやら、夢子の右の側頭部から斜め後ろ向かってウサギや蝙蝠の耳を思わせる銀色の突起物が伸びている。それが跳ね動くと、夢子は後ろを振り向く。

虫型生物が走り去った反対方向から、白い影がゆっくりと近づいてきた。

グルゥゥ…と低く唸るような音が聞こえる。

それは、全身が白く、ゴリラの様に前屈みになりながら、手の甲を床に押し当てつつ、歩行してきた。

目があるのか分からない頭部の先端が動くと、白い長毛が盛り上がる。そこから出てきたのは、動物の象や獏を思わせる長く太い鼻先であった。

白く長い体毛に覆われた体中に、色鮮やかな斑点がこびりつく。

とくに、鼻の下から腹にかけては、様々な色が混ざり合い、黒く濁っていた。その中で、濃い緑色の色彩が鮮明に浮かぶ。

夢子は、それらを見て、凄惨な部屋を思い出すと、必要なことだけを覚り、虫型生物が逃げた方を振り返って、全速力で走り出した。

白い獣は、一瞬立ち止まると、鼻の下を覆っていた毛を上下に開き、並ぶ牙を露にする。

夢子に向けた長い鼻先から空気を吸引し、胸と腹を膨らませ


「……ッブブウウウボボボボォオオオオォォォオオオオゴゴゴォオォオオオグゥゥッ!」

 

と、大きな管楽器を破裂させるまで吹いた様な咆哮を上げ、白い獣は駆け出した。


走っていた虫型生物は立ち止まると、体を起こし、後ろを振り返る。

通路の向こうから何かが向かってくる。と思えば、それは先ほど、十字路で出くわした二足歩行の細い生命体だった。

目と思われる黄色い複眼と赤黒い小さな眼球を見開き、胴体から伸びた二つの脚を空中で振り回し、残る二つの脚で地面を蹴り上げる。

その非効率的な走りは、思った以上に早く、こちらに迫ってきた。

虫型生物は、夢子を視認し、腕を前に突き出し身構えると、夢子の後方に白い獣を確認する。

虫型生物は即座に踵を返し、四足歩行で逃げて行った。








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