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7-5 これで貸し借り無し、だからね


 立っているのか、座っているのか、寝ているのかもわからない。

 目は開いているのだろうか、閉じているのだろうか。

 闇の中だった。周囲の闇と、自分との境界さえわからない。

 何もなかった。自分の形さえ、わからない。

『――――』

 何かが、聞こえた。それもわからない。

 考えることを放棄しかけた。



黒葛原(つづらはら)宵待(よいまち)

 ぱちん、と何かが鳴った。何が起きたのかわからずにぼんやりしていると、霞む視界の中で巳那岐(みなぎ)が平手を振り上げた。

「もう一回?」

 その言葉が意味することに気が付いて、慌てて首を振る。

「大丈夫、もう起きてる!」


 頬がひりひりと痛むのは、先ほど巳那岐が平手打ちしたせいに違いない。効果は抜群ではあったけれど、また叩かれたくはなかった。目の前の巳那岐は白い髪を高い位置でひとつにくくり、真紅の紐を飾り結びにしていた。真っ白な袴を身に着けていて、少年っぽい印象を受ける。

「巳那岐がいるということは、ここは……」

「違う。黄泉じゃないよ」


 巳那岐は手振りで起き上がるように示し、けれどすぐに宵待の腕を引いて屈ませた。すぐにでも動きがとれるように、という配慮に思えて不安がこみ上げる。どうしたの、と言いかけて、突然視界に飛び込んできた人影に驚いて飲み込む。

「宵待君、起きたか!」

宗一朗(そういちろう)!?」

 息を切らせて岩陰に飛び込んできた宗一朗が、呼吸を整えるためにしばらく俯き、岩に背を預けるようにしてその向こうを覗き込んだ。


 支倉家にいたはずの自分と宗一朗、そして何故か巳那岐が傍にいる――という状況がわからず、かといって理解したいかというと、それも拒みたい心地だった。何か、とんでもない事態に陥っているのは間違いない。

「――! 駄目だ、来た!」

 宗一朗が言うのとほぼ同時に立ち上がり、宵待の腕をとって走り出した。その少し後ろを巳那岐が追って来る。


「な、なに!?」

 振り返った時、先ほどまで三人で身を隠していた岩が砕け散った。そこに巨大な白い猿のような生き物がいる。それが白星(しらほし)だと想像はついた。ついたけれど、それで何かが解決するわけではない。

「前向いて走って」

 巳那岐が宵待の背を押すようにして手を添えて、短く言った。少なくとも、巳那岐は味方で、白星が牙を剥いているのは確かだ。背後から嫌な地響きが迫る。


「崖だ!」

 宗一朗の叫び声に目を向けると、宵待の目にも少し先の地面が途切れているのが見えた。その向こうは闇に包まれている。

「右か、左か――」

 当然迂回路を取ろうとした宗一朗だったけれど、

「真っ直ぐ」

 速度を緩めることなく追いついた巳那岐が、宵待を荷物のように肩に担ぎ上げ、宗一朗の衿を掴んで走り続けた。後ろ向きで運ばれることによって、崖は見えなくなった。けれど、すぐに嫌な浮遊感に襲われる。巳那岐が崖を踏み切ったのだ。


 叫ぶ暇もなく目を閉じていると、やがてがくんと衝撃が来て落下が止まった。恐る恐る目を開けると巳那岐は崖の壁面から生える木に着地して、宗一朗を宙吊りにしている。見たくはなかったけれど、ぱらぱらと小石が落下していく底に目をやって、あまりの高さに目がくらんだ。どれだけ深いのかもわからないくらいに、闇が大きな口を開けている。

「――あ」

 視界の端で、巳那岐が今しがた落下してきた場所を見上げていた。まだ、嫌な予感は継続している。


「諦めなかったみたい」

 新妻が朝食を焦がしてしまったくらいの可愛らしさで、巳那岐が小首を傾げて呟く。次に起こったことは、ちっとも可愛らしくはない。巳那岐は宗一朗を放り投げて、今度はしっかりと両手で宵待を抱えて木の枝を蹴った。三人を追って飛び降りてきた白星の巨体によって、木は大きく揺れたもののどうにかその体重を支え切ったようだった。

「出来るだけ息を止めていて」

 風が鳴る中、巳那岐の澄んだ声が言った。頷く間もなく全身を打つような衝撃が訪れた後、水に包まれたのを感じた。



「よいしょ――っと、あ、起きた」

 じんじんと痛む頬と、愛らしい巳那岐の声という不釣り合いな事象で目を覚ます。また、叩かれたらしい。

「も、もっと優しく起こして……」

「次はほっぺをつねるね」

「物理攻撃以外でお願いします」

「ええ? ものすごい悪夢を見せるくらいなら出来るかなぁ」

「攻撃的なのは無しで!」

 重ねてのお願いに巳那岐は頷いたけれど、理解してくれたのかは自信がなかった。


 ごうごうと水の音が響いている。白星から逃げて、崖の下の川に落下したようだった。服が乾いているのは巳那岐のおかげだろうか――と、自身を見下ろして気が付く。白い浴衣だったはずが、学校のセーラー服を着ていた。

「巳那岐は何で宗一朗と一緒にいたの?」

蒼生(あおい)の弟と、というより、宵待と一緒にいるつもり」

「なんで?」

 しつこいだろうか、と宵待は気兼ねする。


 巳那岐とは千歳を巡って言い争いをしただけで、特別親しいわけでも何か知っているわけでもない。なぜ今ここにいて助けてくれているのか、全くわからない。

「お母様がお詫びをしなさいと言ったから」

 確かに、黄泉の女王紫苑(しおん)はそう言っていたけれど、それが果たされるとは思っていなかった。素直な律義さに、すっかり毒気を抜かれてしまう。千歳(ちとせ)が聞けば、また警戒心がないと呆れるかもしれない。


「あなたの喧しい声が聞こえたから、来てあげたんだよ」

「や、喧しい……ここは、何なの?」

「ここは、白星の領域だ」

 どこかに行っていたらしい宗一朗が、背の高い草をかき分けて現れた。

「周囲を少し見て回って来たが、地形は白峰の山に似ている。おそらく、ずっと昔の白峰を模しているのだろう」

「…………それって、つまり」

 宗一朗が目指していた場所に、宵待まで入り込んでしまったということらしい。


 引きずり込まれるような感覚がよみがえった。気を失う前に倒れる宗一朗を見ているため、今ここにいる宵待も精神や魂といったものなのだろう。宵待にとって印象的な服装が学校の制服ということだろうか。

「まさか追って来るとは――これほどに友を思ってくれる君に感涙するばかりだ」

「やー……わたしの意思じゃないと思うけど……」

 言葉通りに目頭を押さえて何かを堪える宗一朗に、宵待は控えめな反論をしておく。自分の世界に入ってしまった宗一朗には届かない。


 巳那岐はもう興味を失って、岩に腰掛けて足をぷらぷらと揺らしていた。宗一朗が戻ってこないために放っておいて、宵待は巳那岐を振り返る。

「わたし、ここに来た時を覚えていないんだ」

「巳那岐が仕方なく来てあげたら、蒼生の弟があなたを抱えてさっきの猿と向き合ってたんだよ」

 その後は宗一朗が白星を引き付けている間に巳那岐が宵待を連れて後退、といったところだろう。巳那岐が来なければ危ない状況だったのだ。

「ありがとう」


「……これで貸し借り無し、だからね。そのままにするのは気持ち悪かっただけ」

 いくら母親に言われたからといって、巳那岐が宵待にお詫びとして助けに来る必要はなかったと思われる。人間ではない巳那岐の誠意に、宵待は思わず微笑んだ。

「これからどうするかが問題だ」

 無事に帰還したらしい宗一朗が、腕を組んで唸った。弱気な発言だと感じて、宵待は眉根を寄せる。宵待の視線の意味を察して、宗一朗は溜め息を吐いた。

「全ての祓魔の力が失せている」

「ええ!?」

 宵待の素っ頓狂な叫び声が、谷間に響き渡った。



 水の中をたゆたうような微睡。

 心地よくはなかった。体の自由はなく、ただ沈んでいく。

 ――またそんな態度をとる

 呆れたような声が、咎めた。

 片目の色が異なる、自分の半身。その姿が浮かび上がる。最近の記憶よりも幼く、まだ少年と言える姿だった。


紅帆(あかほ)は人付き合いがへたくそだよねぇ」

 何も包み隠そうとしない率直な言葉に、むっとして顔を顰めた。

「そんなことはない」

「ある。どうでもいい連中にはお面みたいな貼り付いた笑顔でもいいけどさぁ、宗一朗にはやめなよ」

「……そんなの、どちらでもいいだろう。宗一朗は俺を嫌っているのだから」


 蒼生は思いきり顔をしかめて、呆れたように肩を竦めた。

「君らって本当にそっくりだねぇ」

「訳の分からないことを言うな。それより、白星にどう会うかだ」

「山の中に歪みを見つけた。そこで間違いないよ」

 大きく泡が立って、蒼生の姿を消す。泡が細かく変化し、視界が晴れると先程よりも成長した蒼生がいた。

「黒葛原宵待、だってさ」


 蒼生から渡された紙に写っていたのは、髪の長いおとなしそうな少女だった。宗一朗が高校で得た友だという。魔物使いの力を持つ、魔女。白星の呪印が進行し、少し手詰まりになっていたところに現れた望み。

「魔女を使って宗一朗から白星を剥がして、彼女の中に封印する――白星が従わないのならば、魔女ごと消してしまえば全てが終わる」

 手の中の小刀を見つめながら、言った。白峰の守護刀は白星を傷つけても命を奪うまでは出来ないけれど、他のもの(・・・・)の命を絶つことは出来る。蒼生が守護刀に手を重ねた。


「もしも本当にやる時は、僕がやるから」

「……それまでは、俺が持っている」

 蒼生の手を押さえて、懐に小刀をしまった。蒼生を、これ以上闇の中に落とすつもりはない。

 また大きく泡が立った。その次に現れたのは、幼い宗一朗――泣いていた。

「大丈夫だよ」

 答える自分の声も、まだ幼い。宗一朗を宥めた手が、赤く染まっていた。左目の下に消えない傷を作った時の記憶だ。


 ――本当に、良かった

 それは、あの時言わずにしまいこんだ言葉。

 ――お前が無事で、本当に……

 大小、不揃いな泡に包まれた。今度はもう、何の像も結ばない。

 どうして、体は動かないのだろう。まだ、済んでいない。未来を、光を、渡さなければいけない。

 ――あの子に……

 また、沈んでいく。



 倒れ伏す宗一朗から新たな蔦がしなる鞭のように起き上がり、宵待を囲む結界に取りついた。みしり、とガラスが軋むような音がする。

「――っ」

 道山(どうざん)の眉間にしわが寄り、両側に控えた彼の式(まどか)(つなぐ)の姿が僅かにぶれた。頬を汗が伝う。

「よ、宵待ちゃん……!」

 日菜子(ひなこ)が立ち上がりかけた時、蒼生が苦笑を漏らした。


「仕方ない、か」

 呟きながら右手でいくつかの印を結ぶと、宵待を守る結界が胎動するように一瞬光り、紙垂が風もないのに舞い上がって揺れた。

「ごめん、紅帆。ちょっと頑張ってよ」

 右手は人差し指と中指をくっつけて立てた形のままに固定して、左手で紅帆の手を握る。紅帆への補助の術を弱めて、その分宵待を守る方へ回したのだ。


「あ、蒼生様」

 震える声で呼ぶ日菜子に、蒼生は笑みを返した。

「大丈夫大丈夫。弟が頑張ってる時に、お兄さんが手を抜いていられないから」

 左手に力をこめて、紅帆の手を掴む手に力を込める。

(――そうだろ、紅帆)


 千歳は蒼生の横顔を見つめ、その奥の宵待を映して僅かに目を眇めた。

「もどかしい。何も出来ないというのは――」

 小さく囁いた千歳の袖口を、日菜子が握る。この場において、無事を祈るしかない自分の身を呪った。

「宵待さん……」



「失せてるって……どういうこと?」

 宵待に問われて、宗一朗は左手を握ったり開いたりしてみる。

「当然と言えば当然なのかもしれないが、白星の力が一切使えない状態だ。どうしたものかと暴れる白星を避けていたら君が降ってきた」

「じゃあ、どうするの……?」

「それを今考えている」

 宗一朗は腰に手をあてて、目を閉じる。黙っていると実に絵になる少年だった。黙っていれば。


「いつもならば左手に集中すると、手の平が門のような役割をして力が流れ込むのを感じる」

 それは宵待に説明しているというよりは、声に出して整理しているようだった。

「蒼生兄さんが言っていた通り白星の領域に繋がっていて、ここから力を得ていたような感覚だ。だが、実際にはその力だけではなく、もっとこう……別の力が……」

 次第に曖昧な言葉になって、明確に言えるものはないのだと宵待は不安になった。


 それは宗一朗も同じだったようで、眉が曇る。

「本当に、俺に出来るのだろうか」

 ぽつりと呟いた宗一朗の姿が、映りの悪いテレビのように一瞬ぶれる。宵待は目を瞠って、慌てて宗一朗に駆け寄った。

「出来るよ。宗一朗がやるって言ったんだもの。絶対出来る。蒼生さんだって手助けしてくれてる。大丈夫だよ」


「――そうだな」

 宗一朗は自らの弱気を恥じるように笑って、宵待の肩をぽんと叩いた。

「すまない、ありがとう。君の言葉には不思議と勇気づけられる」

 微笑んでいる宗一朗は、もうはっきりとした姿を結んでいる。何かの見間違いだったのだ。そうでなければ、心に関係したのかもしれない。

気を取り直したように落ち着いた表情になって、宗一朗は巳那岐を見た。

「巳那岐、君は白星を探すことは可能なのか?」


 巳那岐は呼びかけられたにも関わらず、自分に言っているのかと言わんばかりのきょとんとした表情で宗一朗を見返した。両者を交互に見て、宵待が小さく言う。

「どう? 巳那岐」

 その呼びかけにはあっさりと応じて、巳那岐が頷く。どこまでも宵待しか助ける気はないらしい。

「たぶん妨害されると思うけど、出来なくはないよ――ひと使いが荒いなぁ」

 不満そうにぼやいた後、黙り込む。ひどく無防備な姿に見えた。


「この山の頂上にいる……誰かもう一人……蒼生にそっくりな人」

 あっと小さく声を上げて、巳那岐は肩を竦めた。

「やっぱり邪魔された。でも、充分でしょう?」

「蒼生兄さんにそっくりとは……まさか紅帆兄上?」

「名前は知らないけど。蔦が絡まって座り込んでるのが見えたよ」

 それを聞いたとたん、宗一朗は血相を変えて走り出した。宵待も慌てて追いかけると、巳那岐がついて来る。


「宗一朗、何か手はあるの!?」

「ない! 会ってから考える!」

 意外と体当たりな性格だった。紅帆が囚われていると知っては、時間をかけてはいられない。少し遅れだした宵待を振り返って、宗一朗がもどかしげな顔をする。戻って手を引こうと思ったものの、巳那岐がまた宵待を肩に担ぎ上げた。宗一朗は速度をゆるめることなく山道を駆け上がって行く。故郷に似た場所とあって、その足取りに迷いはない。


「チアキはね」

 ぼそっと巳那岐が言う。巳那岐の言う“チアキ”は宵待の祖父の千信(ちあき)のことではなく、千歳の幼い頃の本名のことだ。

「寂しい子だったんだよ。巳那岐は寂しい子が好き。チアキのことは一等好き」

 だから、黄泉の国へ連れて行ったのだ。結果として、千歳は逃げ出して宵待に救われた。

「まさか吸血鬼になってるなんて、思いもしなかったな。自分で望んだのかな? それとも、襲われた?」


 声は淡々としていて、伴う感情はわからなかった。巳那岐の顔が見えていたとしても表情は読めなかっただろうけれど。

「そんなことになっちゃうくらいなら、巳那岐が眠らせてあげればよかった」

「だ、だめ」

 慌てて言うと、笑ったような吐息が返った。

「チアキを寂しくさせないでよね」

「……わかってる」


「ひとりにしないで」

 その声は、少し寂しげで優しかった。やり方は正しいとは言えないけれど、巳那岐は巳那岐で攫った子供を守ろうとしていたのだろうか。

「――ねぇ、宵待」

 少しだけ低くなった声に違和感を抱きながら言葉を待ったけれど、巳那岐は何でもないと打ち切ってしまった。そのまま黙り込んでしまったために、宵待の動揺は大きくなる。

「調子狂うよ。巳那岐って服装で性格が変わるの?」

「そうかも」

 宵待の言葉がおかしかったのか、巳那岐は幾分声を明るくして笑った。



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