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7-4 宗一朗が頑張るって言うんだから


 気が昂っているのか寝付けずに、宵待(よいまち)は何度か寝返りを打った末に身を起こした。隣の日菜子(ひなこ)はよく眠っているようで、規則正しい小さな寝息が漏れている。起こさないようにそっと部屋を抜け出て足音を忍ばせる。

 明日、新月を迎える空は針のように細い月が頼りなく浮かんでいた。白星(しらほし)の力が弱まるというけれど、宵待の気持ちもまた同じだった。暗い夜が余計に心細さを増す。


 気付くと立ち止まって空に見入っていた。標高のある空気の澄んだ土地とあって、瞬く星がよく見える。白銀の光を散らす黒の天幕に、月が輝く夜はもっと美しいだろう。再び歩き出そうとして、足元を走るものを見つける。

「……なんだこれ。ねずみ?」

 宵待はひょいとしゃがんで、廊下の隅を走り抜けようとしたものの行く手を阻む。手の平におさまりそうな小さな生き物だった。ぎょっとしたように見開かれた黒い目が微かな光に揺れている。蛇に睨まれた蛙のように身を固めてぶるぶると震える小動物の正体を見極めようと、じっと見つめた。


「勘弁してあげて」

 苦笑を含んだ柔らかい声に、宵待ははっとして振り返る。その隙に小動物が逃げていくのはわかったけれど、目で追ったりはしなかった。回廊の柱の影の中に蒼生(あおい)が佇んでいた。異彩の右目が闇の中で瞬く。

支倉(はせくら)の式だよ。偵察役みたいなものかな。巡回してるんだ」

「ごめんなさい」

 肩を竦めた宵待を見て、蒼生は首を振って近づいて来た。


「別に怒ってるわけじゃないよ。ただ、君の眼は特別だから」

「ああ、そっか」

 黄泉に降りた際に蒼生が教えてくれた、魔物の目を見て縛る能力を無意識に使っていたということだ。視界に全形を収められるものに対しては効果が高いような気がした。

「こういうのは、ハッタリだから。心を強く持って、強く見せた方が勝ちやすい。君は今、あの小さな式に対して恐れもなかったから、勝てたんだ」

 もちろん、それだけでは語れないのだろうけれど、心を強く持つということに関しては納得した。自信もなく目を逸らしていたら勝てるはずもない。


「眠れない?」

 宵待はぎこちなく頷く。悪戯を咎められた子供のような気分だった。やはり里での蒼生の印象は少し違って、どうしても緊張してしまう。それを見て取ったのか、蒼生はそれ以上近付いては来なかった。

「僕も何だか眠れないんだ。空が暗いから黄泉にでもいるみたいで」

 近寄りがたいと思った矢先に、蒼生の心細いような声が気にかかる。


「蒼生さん」

 思わず駆け寄って、手を取っていた。手套越しに触れた手はほっそりしている。蒼生がそのまま影の中に溶けていきそうに見えた。

「駄目ですよ。……自分でもよくわからないけど、行かないで」

 宵待は俯いたまま小さな声で言った。時々蒼生を、ひどく希薄に感じることがある。そこにいるのに、昏い黄泉の影にそのまま飲まれていくような。こうして触れている今も、手の中の存在が消えてしまうように思えた。


 蒼生は無抵抗のまま手を取られて、小さく笑う。

「小さい頃の宗一朗みたいだなぁ。よくわけもわからず泣いていたっけ。行かないでーって」

 ほんの少し、蒼生は宵待の手を握り返して持ち上げた。

「黄泉に行くたび、僕の魂は欠けていくのかもしれないな。人間性を失うというか……」

 蒼生は俯いて、宵待の手を額につける。許しを請う、懺悔に似ていた。

「僕は君を――今ここにいる君を、消そうとしていたんだね」


 おそらく、宵待は蒼生の中で道具でしかなかった。今それが何か別のものに変わったのかもしれない。蒼生はゆっくりと顔を上げて、宵待の手を放した。その顔には、いつものゆるんだ笑みがある。

「明日はよろしく。君のことは必ず守るよ――宗一朗(そういちろう)のためにもね。あまり遅くならならずに部屋に戻るんだよ」

 おやすみ、とひらりと手を振って蒼生が去り、宵待は詰まっていた息を吐き出した。息苦しいような緊張から解放される。


「浮気者」

 耳慣れたものよりだいぶ低い声で背後から言われ、飛び上がりそうになった。いつからいたものやら、千歳(ちとせ)が回廊の欄干に腰掛けている。いたとすれば、ずっと前からだろう。少なくとも、去り際の蒼生は気づいていたはず。半眼になった千歳の瞳は長い睫が影を作るけれど、夜闇の中では金の虹彩が底光りするように見える。

「ち、ちが――」

 慌てて声を上げそうになった宵待の口に、千歳の指が触れる。一瞬で傍に来られるのは、未だに慣れない。


「お静かに。猫のようにうろうろと困った人ですね」

「千歳を探そうと思ったんだよ」

「どうだか」

「本当だってば」

「ふぅん」

 あんまり信じてなさそうに曖昧な返事をして、千歳は宵待から離れて表情もなくそっぽを向いた。宵待が控えめに千歳の指先を捉まえると、何も言わずに手が繋がれる。


 ややあってから、千歳は宵待を正面から見つめた。

「……なに?」

 沈黙に耐えかねて宵待が声を上げても、千歳は何も言わない。ただ、目に焼き付けるように宵待を見ていた。少し首を傾げる仕草はやはりどこか幼く見えて、宵待の落ち着きを根こそぎ奪ってしまう。視線を逸らしそうになった時、やっと千歳が口を開いた。

「笑ってみてください」


「へ?」

 唐突な言葉に、間抜けな声を返す。ずっと黙っていたかと思えば、妙な要求をしてくる。それに応えたというよりは、困惑して苦笑が漏れた。

「もっとちゃんと笑ってください。ほら」

「や、そう言われても」

 こんなに見つめられて自然な笑みなど出るはずもない。意識すればするほど、笑みとは何ぞやという気持ちになる。


 ぐるぐると考えていると、黄泉で出会った千歳の幼い頃の白い髪と淡い青みがかった灰色の瞳が弾けるように浮上してきた。同時に耳まで真っ赤になる。千歳が宵待の笑顔を覚えていてくれたということを思い出したのだ。

「どうしました?」

「やぁ、もう……ほんと、どうしたんだろう……」

 上気した頬を隠そうとしても、今更だった。


 手を顔にあてて目を逸らしていると、千歳の手が伸びた。両手で宵待の頬を包んで、また見つめてくる。何度も、何度も触れる。記憶をなぞるように。

「千歳……?」

「宵待さん」

 抱き寄せる手に相変わらず強引さはなく、壊れ物を扱うようだった。宵待はほっとして自分からくっつく。

「あなたは心配ばかりかける……本当に、無茶をして困った人ですね」

 静かな声に、千歳の不安を感じた。宵待は頬を摺り寄せる。顔を上げれば、ちゃんと千歳と目が合った。


「大丈夫だよ」

「なんて説得力のない大丈夫でしょうね」

「あからさまに信用してない声だな」

 不満をあらわに頬を膨らませてみたけれど、長続きしなかった。目を向ければ当然のように千歳がいて、視線を受け止めてくれる。それだけで、どうしようもなく幸福だった。

「――やっと笑った」

 そう言って目を細めた千歳も、微笑んでいた。



 出来るだけ清い身であるように、と宵待は朝から湯浴みやら禊ぎやらそこら中を連れ回されて、夕暮れも過ぎた頃にやっと解放されて白い浴衣で寝転がっていた。紅帆(あかほ)が眠る部屋の近くに控えて、待機中だ。

「既に疲れた……」

「お疲れ様」

 傍らに座った日菜子が唯一の救いで、団扇で扇いでくれるのを有り難く受け取る。


 日菜子に見つめられていることに気付いて、宵待は体を起こした。向き合うようにして座って、手を握る。

「宵待ちゃん、気を付けてね」

「うん。けど、蒼生さんには本当に恩があるから……」

 蒼生の右目は、魔物の性質に繋がるものだという。だからと言って、魔物の側にいて害がないかと言ったらそれも違う。当然、彼にも常に危険は付きまとっている。それでも、千歳のために来てくれた。


「それに、宗一朗が頑張るって言うんだから、わたしは立派に囮の役割を果たしてみせます」

 どし、と胸を叩く宵待を見ても、日菜子の眉の曇りは消えない。宵待は小さく唸って、視線を俯けた。

「……本当に嫌なのは、危険なのが、わたしじゃなくて、千歳ってこと……」

 どうしたって、彼は宵待を守る。それこそ、危険など顧みずに。

「わたしが巻き込んでる……」

「宵待ちゃん――」


 障子がとつとつと鳴って、二人は顔を上げた。

「宵待ちゃん、準備をしよう」

 道山(どうざん)の声がして、宵待と日菜子は目を見合わせて立ち上がった。障子を開けて廊下に出ると、和装姿になった道山の後ろに千歳が立っていた。思わず駆け寄りそうになって、道山に捕まえられた。

「ほれ、近付くんじゃないぞ。禊ぎの効果が薄れるからな。ヨコシマなものに触れるんじゃない」


「誰がヨコシマですか」

 何やら如何わしいモノ扱いされた千歳が、不満そうに腰に手をあてて目を細めた。そういうものか、と宵待は千歳を見つめるだけに留め、微笑んでくれた彼に頷きを返した。道山は盛大な溜め息をついて、宵待を促して歩き出す。月のない空は暗く、庭はほとんど闇に沈んでいた。

「しかし、祓魔の大御所の本拠地で仕事することになるとはな」

 ため息交じりにぼやきつつ、組紐で括った髪を背に払う。


 これから蒼生達がやろうとしていること――数年前から画策して始めていたことは、白峰家が仕えてきた神を調伏するという、これまでの有り方を覆すものだ。その方面の専門家である里の援護もなしに二人だけでやり遂げるのは困難だっただろう。宵待という予想外の補助が現れたことは、紅帆と蒼生には僥倖だった。

(紅帆さんは、自分が倒れる前にわたしを道具にすることだって出来たはず)

 けれど、宗一朗に警告するに留まって、実行には移さなかった。限界まで犠牲のない最良の道を探していた結果だ。紅帆には、宗一朗に明かしていない心情が、まだある。


(宗一朗に、ちゃんと紅帆さんと話しをさせてあげたい)

 だから、やらなければならない。危険であろうとも。

(わたしのわがままだから、千歳は心配しないで――なんて言えるわけがない)

 千歳の好意を無下にして踏み躙るようなものだ。

「千歳」

 振り返ってすぐに千歳と目が合った。その前からずっと、見つめてくれていたのだ。


「千歳。絶対、大丈夫だから」

「おう。宗一朗ちゃんと俺もついてるしな」

「――信じますよ」

 宵待と道山に、千歳は呆れたような苦笑を返す。内心は複雑であっても、大袈裟にしたくないのだろう。平静を装っているように見える。

(必ず、無事に戻る――大丈夫)

 宵待は言い聞かせるように、呪文のように心の中で唱えた。


 紅帆が寝かされる部屋の前に、蒼生が佇んで待っていた。垂らされた手が、袂を軽く握っていて、いつもの黒い手套は外されている。けれど、黒い蔦は痣のようにほとんど隙間なく蒼生の手に絡んで、手套をはめているかのように肌を染め上げていた。

 室内では鷹将(たかまさ)が立ったまま控え、宗一朗が紅帆の枕元に膝をついていた。正式な白い装束は、彼を大人びて見せた。

「すごい。宗一朗、あれみたい。えーと、陰陽師」


「似たようなものだ」

 宵待の感想に、のんきだな、と呟いて、宗一朗は固い表情を和ませた。一度揃った面々を見回してから、立ち上がる。

「宵待君はこちらへ」

 紅帆の頭の方に、四角く縄を張って紙垂を結んだ結界が用意されていた。これが聖域として宵待を守る盾となる。ゆっくりと縄を跨いで、正座する。結界を挟んで隣に立った道山が、いつもの穏やかな顔で笑った。


「足を崩していないで平気かい? 痺れるぞ」

「た、たぶん」

 宵待の緊張を見て取った軽口だった。ぎこちなく頷く宵待の頭をぐりぐりと撫でてから、道山はあぐらをかいて座る。ばさりと袂を払って数珠を握ると、その両側に彼の式である円と連が姿を現した。

「こっちはいつでもいいぞ」


 結界は千歳さえ弾くために、今回の彼は見守る他ない。日菜子とともに部屋の反対側にいる千歳を見つめ、宵待は努めて微笑む。

 鷹将が廊下に出て一礼すると、障子を閉めた。彼は念のため、外での見張りに立つのだ。

「――では、始めよう」

 宗一朗の祝詞が紡がれる。深い声は不思議な響きを持って、室内に波紋のように広がった。最後の一節が終わった時、宗一朗が一切の動きを止める。内側に潜り込んだ(・・・・・)らしい。


 その瞬間、宗一朗の体から青白い蔦が伸び、性急な動きで宵待へ迫った。ガラスを引っかいたような甲高い音がして、蔦が四角く絡まる。見えない壁が、確かに宵待を守っていた。

 思わず首をすくめた宵待は薄目で頭上を確認して、蛇のようにじわじわと動き続ける蔦を見つめた。ゆっくり、ゆっくりと、蔦は宵待を締め上げたいかのように結界を取り囲んでいく。嬲り殺すように、白峰を蝕んでいたもの。

(これが、宗一朗達を苦しめてきた白星の一部……そうやって、わたしだけを見ていればいい)


 宵待が引き付けていれば、その間宗一朗は楽になる。

(宗一朗、負けるな)

 けれど、その時。宵待は突然頭を揺さぶられたように感じた。

(なに……)

 見られている、と思った。何かに引きずられる。視界が――意識が、奪われる。

 小さく叫びそうになったけれど、声は出なかった。目前に浮かんだ白い毛並みと緋色の瞳の向こうで、千歳が立ち上がりかけたのを、見たような気がした。


「宵待さん!?」

 千歳の声に、日菜子の小さな叫び声が重なった。結界の中で、突然宵待の体が傾いで、床に倒れ伏したのだ。蒼生が目を細めて、宗一朗、次いで宵待を見る。

「連れて行かれたみたいだ。引っ張られたね。――大丈夫、宗一朗に任せよう」

 日菜子は蒼生の手が白くなるほど膝の上で握られるのを見た。本当ならば助けに行きたいのだろうに、見ているしかない自分が歯がゆいのだ。

 そして、そこに残る誰もが同じ思いを抱いていた。



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