彼女の優しさ
ゴウゴウと凄まじい音を立てて燃え盛るその場所で、春風は一人泣いていた。
これは夢だと、瞬時に悟る。
それでも夢の中の自分は声を上げて泣いて、応えもしない神に祈っていた。
どうか、どうか、どうか。
繰り返し、何度も、声が渇れて潰れるまで。
それでも燃え盛る情景が変わる事はなかった。
燃えていく家々。愛するべき故郷。
蹂躙され、奪われ、焼かれた、小さな村。
あなただけでも逃げてと言った母は。
きっと大丈夫だからと背中を押した父は。
振り返らずに走れと笑った祖父は。
どうか生きてと抱き締めてくれた祖母は。
容赦なく全てを燃やし尽くす炎の中を、泣きながら歩いて、歩いて歩いて歩いて、そうして辿り着いたその場所は、村の中心部で。小さな噴水がある、村人の憩いの場で。
そこに、まるで土袋の様に積み上げられたソレラを見た瞬間、春風は慟哭した。
優しかった母は、厳しかった父は、イタズラ好きだった祖父は、寛容だった祖母は。春風の大好きだった、愛するべき人々は。
あんな、人間の尊厳すら踏みにじられる様に投げ棄てられて、積まれて、嗤われていい人達ではなかった。
手こずらせやがってと、無駄な抵抗をと、吐き捨てられて唾をかけられる存在では、決してなかった。
隣に住んでいた老夫婦も、いつも牛乳を届けてくれるお兄さんも、子供が産まれたと喜んでいた新婚夫婦も、肉屋のおじさんも、花屋のお姉さんも、学校の先生も、みんな、みんな、みんな。
誰一人として、こんな惨い最期を迎えていいような人達ではなかった。
それなのに。
ゴウゴウと燃え盛る炎が嗤っている様に思えた。
村を襲った奴隷狩りの奴等の顔が炎に重なって見える。
目を瞑り、耳を塞いでも笑い声が頭に響く。
もうやめてくれと、春風は叫んだ。
もうたくさんだと、泣き崩れた。
春風の耳に不意に声が届いたのはそんな時だ。
静かな声が春風を呼んでいる。
名を紡がれている訳ではないのに、おい、と呼び掛けるその声が自分に向けられているモノだと、春風は疑うことなくそう思えた。
落ち着いた、静かな声だ。
その時になって漸く、春風はこれが夢であったと思い出した。
そうして、瞑っていた目を開けて、耳を塞いでいた手を外し、立ち上がった。
「凜鈴」
呼ばれる声に応える様にその名を呟けば、急激に意識が覚醒するのを感じた。
「おい、おい小僧。起きろ」
ゆさゆさと、軽く揺さぶられて春風は目を覚ます。
パチパチと数回瞬いてから、凜鈴の肩にもたれ掛かって眠っていたのだと気付き慌てて体を起こした。
「ご、ごめん。重くなかった?」
「お前など小枝と大して変わりはせん。それよりも、魘されていたぞ。大丈夫か?」
「……うん、ちょっと嫌な夢見ちゃっただけ」
「そうか」
大丈夫かと問うておきながら、春風の答えに大した反応も返さず興味をなくしたかの様に目を閉じた凜鈴に苦笑を溢して春風は周りを見渡した。
今春風達が居るのは、所狭しと物が積まれた荷馬車の中だ。
ニクシーの居た森から出て、次の目的地へと歩いていた二人の所に通りかかった行商隊の馬車に同乗させて貰ったのだ。
商人達が乗る人用の馬車もあるのだが、こちらで構わないと言った凜鈴の一言により、凜鈴と春風。そして何故か行商隊の隊長の三人がこの荷馬車に乗っていた。
「やっとお目覚めですか、お坊ちゃん」
丸々とした猫の獣人が人の良さそうな笑顔を浮かべて春風へ声をかける。
この行商隊の隊長は名を蛍里と言った。
凜鈴とは顔見知りの様で、二人が同行するのも快く引き受けてくれたのだ。
「凜鈴様が人間の子を連れているとは驚きですが、いやぁ、なかなか整ったお顔立ちだ。どうです? 我が商隊に売り子として入りませんか?」
「いえ、いいです」
「おやまぁ、断られてしまいました」
これは手強い、と笑った蛍里の言葉は半分以上が冗談なのだろう。
馬車に乗ってから寝てしまうまでの間に似たようなやり取りを既に何回もしている身としては、そろそろ止めて欲しいものだと溜め息をついた春風。
そんな春風に先程まで目を閉じていた筈の凜鈴が何かを差し出してきた。
「選べ」
「え? なに?」
「お前の足に合う物を選べと言っている」
「足に……? あ、靴?」
凜鈴が差し出しているのは何種類かの靴であった。
困惑気味に靴を眺める春風に凜鈴が彼の足を指差す。
「そんな、ボロ布と同じような物は靴とは言わぬ。これから先、足が痛いなどと泣かれては敵わんからな。今のうちにいいものを選んでおけ」
「あ、うん」
「それから……おい、蛍里。こいつに合う服をいくらか見繕え。それと短剣と、荷物袋と、水袋と、雨具と、」
次々と挙げられる旅の道具に蛍里が慣れた様子で積まれた荷物を漁った。
「道具の使い方については蛍里に聞け」
春風がそう言った凜鈴に荷物袋に入った旅の道具一式を渡されたのは、夕飯も終わり商隊の者達と夜営用に焚いた火を囲んで団欒している時だった。
「あ、えっと、お金は……」
「いらん」
スタスタと歩いて行く凜鈴はこれから見張りに入るようだ。
ただで同乗させてもらう対価として、目的地に着くまでの護衛を凜鈴がかって出たのだ。
「凜鈴様は相変わらずですねぇ」
にゃごにゃごと、独特の笑い声を上げて蛍里が笑う。
「あの、相変わらずって?」
「彼女、優しいでしょう?」
「……え?」
「態度も言葉も結構つんけんしてはいますが、実際に突き放す事はないんですよね」
「……」
蛍里に言われて、春風は出会ってからの凜鈴の言動を思い出す。
ついて行きたいと言ったら好きにしろと言われた。
世話は焼かないとも言われたけれど、その後について行くのもやっとだった春風を担いで運んでくれた。……まぁ、快適性は全く考慮されていない担ぎ方だったけれど、それでも置いて行く事はなかった。
そして今、世話は焼かないと言っていたにも関わらず、春風の旅に必要な道具を一式揃えてくれた。
「彼女の考え方はまぁ、結構シビアではあるんですよ。そりゃぁ、こんな世の中ですし、"請負人"なんてやってますからね。甘い考えだとやってはいけません。困っている人全てを助けようとも、世のため人のために何か無償でやろうともしない人です。けれど、自分に縋り、助けを求める人が居て、助けられる状況であったなら、彼女は助けてくれる人です」
「でも、僕は別にあの人に助けを求めた訳じゃないのに……」
奴隷として売られる寸前だったあの時。春風は別に凜鈴に助けを求めてはいなかった。
ただボンヤリと檻の中から道行く人々を眺めていて、その中でも一際目を引いた凜鈴を綺麗な人だと目で追っていただけだ。
一瞬、金の瞳と目が合った気がしたけれど、それだけだった。
だから、彼女が奴隷商人に自分を買うと言った時も、彼女に腕を引かれて歩いていた時も、それが現実であるとは思えなかったのだ。
「確か、奴隷として売られる前に買われたと言っていましたね。そうですねぇ、まぁ、これは憶測なのですが、あなたの"何か"が凜鈴様の琴線に触れたのでしょう。先程も言った様に、考え方はシビアな人ですから、奴隷になるのが可哀想だったからなどという甘い考えでの行動ではないでしょうからね。ただ、あなたの何が、彼女のどんな琴線に触れたのかは分かりません」
まぁでも、と蛍里は続ける。
「彼女について行けばそのうち分かるかもしれませんよ」
その為にはまず道具の使い方をマスターしなければいけません、と春風が持つ荷物袋を指して笑った蛍里に春風は慌てて彼に荷物袋を差し出すのだった。