雨上がりの空気の味はミネラルウォーター
高温の熱の匂いがこうばしく広がる終の時。ステンレスの扉、静謐と目に見えぬ喧騒がごちゃ混ぜになり、明るさと闇さが拮抗し、部屋を支配している異空間。
「綺麗ですね」
合掌する係員。彼に従い、夢と君影は足の指から順次箸を渡して収める。カシ……軽い音出し、入れやすいサイズに砕く。無言で全てのパーツを二人で運んで収めてもらう。最後に桐の箱に納めて、シュッと白い風呂敷に包み手渡され、それを夢が抱いて外に出た。
「今……どんな気持ち?」
ぽつりと空っぽな、君影のコトバ。
夢の中に立ち上がる、止めていたモノ。
膨れる、膨れる。膨れる。溢れる溢れる溢れる。
悲しい、かなしい、哀しい、カナシイ、かなしい。
熱い。アツイあつい。ギリギリと、何処もかしこも引きちぎる。大きく熱く膨れたモノが、夢の心を焼いていく。
「夏樹に連れてって欲しいわ、大好きだったの、初めてずっと側にいたいと思ったのに……、わざわざ聞くなんて酷い人」
日が薄らと広がる空。梅雨の晴れ間が戻る。
ネズ色の雲が切れて行く。青い色が顔を見せる。
澄んだ青を見上げながら、心の内にあった宝箱の蓋がようやく開いた事に気がついた。
出てくる感情を絞り出す様に君影は話す。
「ふーん……そう、うん……、僕もそう。初めて、ね。ずっと側にいてほしかった。初めてだったんだ……、他人をそういう風に思ったのは」
君影もクツクツと、身体の中に溜まる物が、熱く煮えそれに飲み込まれそうになりつつある。崩れそうな気持ちを堪えている。
そんな様子に、夢は怪訝に思う。しどろもろに問うてみた。
「……、貴方も?そうだったの?は、初めて……、夏樹に惹かれたの?じゃぁ……、わ、私にプロポーズしたのは?」
「君の中には……、夏樹が居るんだなぁって、思ったんだ。きっとよく似ている子供が居るんだなぁって、逢いたいなと、思った。それだけ」
はたはたと涙を流す君影。おかしいな。泣いたことなんかないのに、昨日の夜から変なんだ。
目を抑える彼。目をしばたかせて涙を落す夢。
「それだけ?」
……、うん。こんな気持ち初めてだよ。頭の中に夏樹が住んでる気がする。知らない、ただ……、夢の問いかけにそれだけと答え言葉を繋ぐ。
「馬鹿だな、この先ずっと遊びに来て、子供や君も連れてきて、笑って過ごすと信じていたんだ。似ている子供を思いっきり可愛がって、それだけでよかった。でも……、もう……、逢えない」
噛みしめる様な最後のその言葉は、夢の胸に突き刺さる。両手でお腹をそろりと覆う。出来たと話せば、手を当て耳をつけ喜んでくれた夏樹。産まれて来る子を楽しみにしていた今も深く深く愛する人。
「怖い……、もし、この子がいなかったら……、いなかったら、あの時お店に行かなければ……、もしかして」
夢は悔やむ。白い風呂敷に包まれた箱を胸に、ぎゅっと抱きしめる彼女。産まれてくる子供を愛せるだろうか、独りで産んで育てる事ができるのか。
「夏樹は死なずに済んだのかしら」
わからないと歯の隙間から漏らす君影。
かたく布に包まれた彼を抱きしめる夢。
君影が動く。先に進むために、大きくひとつ飲み込み気持ちを切り替える。
「……、もう一度言う。結婚してくれないか」
喪服のポケットから箱を取り出す彼。ザッとぬるい風が吹く。小さくなった彼を連れてる夢と、対する君影をぐるりと纏う。
「君に夏樹が買っていた品だよ。産んでくれ、そして側にいさせてくれ、夏樹は君の中で生きてる」
渡さないでと言われた小箱。君影は赤の他人の意見など心に置くことは無い。思いのままに動く。
ごくん……、息を飲み込んだ夢。目の前の男は資産家だと知っている。首を縦に振れば、何不自由無い暮らしが約束されている。
しかしその暮らしは、夢が知る『好いた男に愛される女の幸せ』を生涯、捨て去る事で引き換えに、手に入れる暮らしなのやもしれない。
平凡な夢に奪われたのが気に入らなかった女がいた。私ではいけないの?夏樹への片思いを拗らせたらしい。こがれて焦がれて、その挙げ句、渡さない!と襲われた。
夢が何処までもどこまでも愛する人。彼を想う男と視線が逢う。ふらふらと振り子の様に揺れる夢の心。
無言が夢に判断を迫っている。イエスかノーかを選べと。
「駄目?嫌なら……、子供が生まれたら僕の養子にしたい。それまでは金銭的なバックアップはしよう、その代わり……、引き取ったら縁切りしてくれ、君は自由に生きればいい」
君影の提案。揺らぐ振り子をぐっと、片方に留め押さえつける。そんなことはさせないと心を決めた。子供の時を思い出す。今と同じ様に触れればひび割れ、砕け散りそうな心を張り詰めていた時を。
……、強くならなきゃいけない。あの頃の様に。
夢がもう終わり。誰かと共に優しく生きるのはと、折れそうな気持ちを奮い立たせて、溢れる想いを飲み込む。先に進むために、言葉に、地につく足に、抱きしめる腕に、力を込め返事をする。
「いいわ。お受けするわ。でもこれは契約。夏樹以外の男に触れられるのはイヤ、彼は私の初恋の相手よ。彼以外知りたくない。でもこの子の父親は欲しい、身を満たす夫は要らない。打算に満ちた女よ、聖母じゃない、それでもいいの?」
「ああ。僕もそんな気は無い、良い人間でもない。必要の無い物は置かない主義だ。これから先もね」
「そう、ならば気をつけるわ。私は『仲良し家族ごっこ』は得意なの。他人の前では良い奥様を演じるわね」
「奇遇だな、僕も得意だよ。良い旦那の役目を尽くそう。他者の目の前ではね。良い両親になろう、君はこの石の様に生きればいい」
君影と夢の持つ、白くて赤い燻る熱が重なる。
その赤ん坊は、虚無になった僕たちに、光と癒やしを与えてくれる。きっと……、そう言いながら、君影が差し出さす箱の中は、夏樹が選び買ったエンゲージリング。蓋を開けて陽の下に出した君影。
ホワイトゴールドのリングに、ピンクトルマリンの石が飾られている。
「綺麗……、かわいい、宝石には意味があると聞いたことがあるの、この石の様に生きればって……どういう意味が?ダイヤは永遠不滅と知っているけど……」
「ピンクトルマリンは、貞操・潔白・忍耐」
夢の問いかけに、君影は簡潔に答えた。
夏樹の笑顔が心いっぱいに夢の心に広がる。こみ上げる気持ち。
……、大好き、好き。愛してる愛してる、ずっとずっと、だから見守っていて。私の事をずっとずっと。
それを受け取った彼女、幸せが涙に混ざる。手渡し空を見上げる君影。視線を追うた夢。
青空の下誓う、天に逝った愛する人を共に心に宿し、二人は生きていく事を。子供の良き両親になる事を。
駐車場を囲むように植えられてる木々の緑の色が、雨上がりで鮮やかに光る。湿度が高い。空気に含まれた水は、清々しい緑の味を持っている。
あと数日もすれば梅雨が上がり、太陽がキラキラとダイヤの破片の様な結晶を空気に光を混ぜ込む。
暑く、青い青いソライロの夏、樹木を熱含む風で揺らす季節。初恋を喪い己の行き先を、母なる胎内に満たされた水の中で、くるくると回る小さな生命に掛けた、二人の元に間もなく来る。
昨夜降った雨を木々が吸い込み、緑の葉から大気中に発散させているかの様な外気を、夢と君影は吸い込んだ。細かな水粒子が喉を潤す。舌先に感じる緑の甘さ。鼻にツンと切なさが留まる。
小鳥が舞う空。煙の名残。
雨上がりの空気。光の色は透明。
二人は味わう。同じそれを。
惜別の涙混じりの緑の香を含むソレは……、
清らかなる世界のミネラルウォーター。
終。