それぞれの道へ … 3
その頃、王都から遠く離れた東のはての街アミテージでは、ヴィダリア侯爵家の末の姫、モナシェイラが大きなくしゃみをしていた。
あまり品がよいとはいえない「へいくしょん!」というくしゃみを終えたあと、すみれ色の瞳の少女は鼻の頭を手でこすった。
そのしぐさを見た若い神官のリオナールは、思わず笑い出してしまった。
「モナさま、鼻の頭に汚れがついて、ひどいお顔になっていますよ」
モナは、「あら、どこが?」と言いながら鼻の頭をこすり、ますます汚れを広げてしまう。
いっしょに埃まみれの倉庫を掃除していた人たちが、どっと笑った。
笑われたモナは、もっと元気に笑い返す。
「いやあねえ。きっと誰かが、わたしのことを噂しているのよ?」
そういいながら、噂してくれているのが、あの人だったらいいなとモナは思った。
ローレリアンはアミテージから去るときに、生活費としてパヌラ公爵から毎年贈られていた金のほとんどを、信頼している若手の神官数人へ託していったのである。自分には、こんな大金は必要ないから、この金を使って下町にだれでも通える学校を作ってくれと言い残して。
こまったことが生じたら、ヴィダリア侯爵家の令嬢に相談するようにという、忠告もいっしょに残されていた。彼女なら持ち前のクソ度胸で、どんな困難だって乗り越えてみせるはずだからと。
モナは神官たちの期待を裏切らない働きをした。
ふたたび、なれないお洒落をして市長夫人の社交サロンへのりこみ、町の有力者たちを説得して、教師の給料分の金を街の予算計画に計上させる約束を取り付けたのだ。
ローレリアンが残してくれた金は一部だけを設備や教科書の準備に使い、残りは信託基金にして、配当を毎年こまごまとした学校の運営にかかる経費にあてるつもりだ。できるだけ長く、この『だれでも通える学校』を維持するために、モナと神官たちは知恵をしぼりまくった。
だから、学校の校舎は、モナと若手神官たちの活動に賛同してくれた羊毛仲買人が提供するオンボロ倉庫である。
倉庫の掃除には、下町のおかみさんたちが、総出で手伝いに来てくれている。
そんなわけで、今日は朝から、てんやわんやだ。
「リアンは元気ですかねえ?」
モナのとなりではリオナールが、天井の梁に積もった埃を払いながらつぶやいている。どうも彼は遠くを見ると、ローレリアンのことを思い出すらしい。
「リアンは最後まで、謎が多い男でしたよ。
わたしたちに、こんな大仕事を残したあげく、任地がどこかも告げずに、いなくなっちゃうんですからねえ……」
モナは、あいまいに笑うしかなかった。
ローレリアンの行く先は王都プレブナンで、彼はこれから、もっと大きな仕事へ取りかかる。
けれど、この場で、そんなことは言えない。
彼がローザニアの王子だったことは、いまだに大きな秘密である。
それに、ローレリアンからは、みごとにふられてしまった。
それも仕方がなかったかなと、いまでは思う。
こんなに乱暴で品のない自分が、王子様の御妃候補だったなんて、想像もつかない大珍事だ。
けれど、モナは思う。
御妃さまは無理でも、お友達くらいには、なれるわよ。
だって、ローレリアンは、わたしを信頼してくれているから、こうして仕事も残してくれたんだわ。
だから、せいぜい、頑張るの!
わたしがヴィダリア侯爵家のお姫さまだって事実は、逆立ちしたって変えられないもの。
いずれ王都へもどったら、王宮でローレリアンと会うこともあるにちがいないわ。
そのとき、ちゃんとまっすぐに、彼を見られる自分でいたいもの。
それに、大勢の人の笑顔が見られる、いまの仕事も、わたしは好き。
下町の子供たちの生活も、もっと何とかしてやらなくちゃいけないし。
入り口のほうから、なじみのおかみさんが、大きな声でモナを呼んだ。
「モナさま。レオニシュ先生から、差し入れが届いてますよ。今年最初のマイカの実の糖蜜漬けで作った氷菓子ですって」
モナは驚いて問い返す。
「氷菓子って、まだ10月じゃないの」
「本当に、氷ですってば。冷たいですよ」
「レオニシュ先生ったら、また、へんな発明をしたのかしら?」
「きっと、そうですね!」
モナのまわりで、また笑い声がはじけた。
下町の開業医レオニッシュは、変なものばかりを発明するのでも有名な変人だ。
その珍発明を、ぜひとも見てやろうと思ってモナが入り口のそばへいったら、にぎやかにしゃべるおかみさんたちの輪の中には、冷たく凍った小さな果実を盛った皿があった。
見てくれは、案外まともだ。赤くて、丸くて、かわいらしい。
この氷菓子、おいしかったら子供達にも作ってやってちょうだいと、先生におねだりしよう。
皿からひとつ手に取った赤いマイカの実を、そっと口にふくんでみた。
糖蜜に漬けた実はとても甘く、眼を閉じて氷の冷たさや実が本来もつ酸味までを味わうと、まぶたの裏に白く、枝いっぱいに花を咲き乱れさせるマイカの木の姿が思い浮かんだ。
ああと、ため息がもれる。
まぶたの裏の、その散りゆく花の下でおだやかに笑っているのは、彼女が恋い慕う、金色の髪と水色の瞳をもつ素敵な神学生だ。
懐かしさとともに、胸がつまる。
彼は、いまではモナから絶対の信頼を寄せられている、この国の王子様なのだ。
わたしたちの国ローザニアは、これからどういう国になるのかしら。
きっと、あなたが、何かを変えてくれる。
そっと目を開いたモナは夢見るすみれ色の瞳で、どこまでも高い秋の空を見上げながら、そう思ったのだった。
―――― 第一話 「すみれの瞳の姫君」 完 ――――
「すみれの瞳の姫君」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。このお話は、このあと、シリーズ物として展開していく予定です。シリーズタイトルは「幻の煌国」、次話のタイトルは「ローザニアの聖王子」となります。
モナシェイラとローレリアン、そして彼らをめぐる人々の物語の今後に興味がおありの方は、ぜひこれからもおつきあいくださいね。