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そば

 朝、自席に着いたとき、私は鞄を持ったまま少しだけ立ち止まった。


 机の上はいつも通り整っていた。電話は左奥、ペン立てはその手前、卓上カレンダーは画面の横。昨日のうちに重ねて帰った書類も、端が揃ったまま置かれている。見慣れた並びのはずだった。


 それなのに、私の右側だけ少し空いて見えた。


 何かをどかしたあとのようだった。


 けれど、そこに何があったのかは思い出せない。私は鞄を椅子の背にかけて、机の上をもう一度見た。電話も、書類も、ペン立ても、いつもと同じ場所にある。空いているように見えるのは、そのどれでもない場所だった。


「こんな置き方だったっけ」


 口に出してみても、答えはなかった。


 私は椅子を引いて座った。机との距離を少しだけ直す。そうすると今度は、右側の空きがさっきより広く見えた。椅子の位置が悪かっただけかと思って、もう一度座り直す。


 それでも、その場所だけは残った。


 仕事が始まると、最初のうちは気にしている暇がなかった。メールを返し、回覧を確認して、午前の予定を頭の中で並べる。電話も一度鳴ったし、隣の席ではコピー機の調子が悪いという話が小さく続いていた。


 その合間に、同僚が回覧書類を持ってきた。


「ここ置きますね」


「あ、はい」


 私は反射的に机の上の書類を少し寄せた。同僚はそのまま私の机に書類の束を置いたのだが、その置き方が妙に気になった。


 右側を避けるようにしていた。


 空いている側には置かず、書類を左へ寄せる。そのせいで、もともと少し広く見えていた右側だけが、ますます何かのために空けてある場所みたいになった。


 同僚は何も気にしていない顔で、次の席へ回覧を持っていった。


 私はその束を見た。右側に置いても同じだったはずだ。むしろ、そのほうが置きやすかったように思う。なのに、どうしてわざわざ反対へ寄せたのだろうと考えて、すぐに考えすぎだと思い直した。


 少しして、隣の席の人が椅子を寄せた。通路に出る人のために、みんな少しずつ椅子を机に近づけることがある。その人も、背もたれに手をかけて椅子を引き寄せた。


 けれど、私との間だけは詰まりきらなかった。


 反対側はちゃんと狭くなっているのに、こちら側だけ少し広い。人ひとりが身体を横にして通れそうな幅が、まだ残っていた。


「もう少し寄せます?」


 思わずそう言うと、隣の人は自分の足もとを見た。


「……いえ、大丈夫です」


 それだけだった。


 大丈夫、という言い方も妙だった。狭いかどうかの話なら、寄せるか寄せないかのはずなのに、その人はそれ以上椅子を動かさなかった。私は机の端に置いた手をそのままにして、しばらくその間を見ていた。


 昼前になると、人の出入りが少し増えた。


 通路を誰かが通るたびに、私は自分の席の横へ目をやった。そんなところを見ている自分のほうがおかしいとは思いながら、どうしても気になった。


「すみません、通ります」


「あ、どうぞ」


 声をかけて通る人は、みんな同じような場所を通っていく。机と椅子のあいだの細い通路ではなく、私の横に残った少し広い場所を、半歩だけ避けるようにして抜けていく。


 そこには何もない。


 私の鞄もないし、段ボールも置いていない。見えないコードが張ってあるわけでもない。それでも、誰かが通るたび、その位置だけがちゃんと空いていることを確かめるみたいな気持ちになった。


 私は机の上の物を少し動かした。ペン立てを寄せ、書類の束をまっすぐに直し、電話の位置を数センチだけ動かす。右側の空きが目立たなくなれば、それで済むと思った。


 けれど、少し動かすたびにほかが崩れて見えた。


 ペン立てを寄せると電話が遠い。電話を直すと書類の束の端が浮く。書類を整えると、今度は卓上カレンダーだけが不自然に寄りすぎているように見えた。


 そして最後には、結局また同じ場所が空いた。


 そこだけは、元の位置へ戻ってしまうみたいだった。


 昼すぎ、給湯室から戻ってきた私は、マグカップを片手に自席へ戻った。湯気はもうほとんど消えていて、白い縁だけが明るく見える。いつもなら電話の横に置くか、書類の束の少し手前に置くか、そのくらいしか迷わない。


 その日は、右側へ置こうとした。


 空いているのだから、そこに置けばいいと思ったのだ。


 けれど置く直前で、手が止まった。


 机の上の何もない場所にカップの底が触れかけたところで、私はそのまま数秒動けなかった。理由はわからない。ただ、そこへ置かないほうがいい気がした。


 私はカップを戻し、結局いつもより少し狭い場所に置いた。


「……そこ、置かないほうがいい気がした」


 ほとんど声にならない独り言だった。


 言ってから、自分でぞっとした。


 置ける。物理的には、何もないのだから。そこに置けば机の上はもっと整うし、仕事もしやすいはずだった。それなのに私は、その場所だけを避けた。朝からずっと、ほかの人たちが無意識にしていたのと同じように。


 午後の仕事は、そのことを考えないようにしているうちに過ぎていった。


 回覧は戻され、書類は減り、電話も午前より少なくなった。窓の外が少しずつ暗くなって、机の上の白い紙だけが照明に強く浮かぶ。隣の席の人が先に帰り、通路を通る人もまばらになった。


 私は最後の確認をして、書類を重ねた。回覧を所定の場所へ戻し、ペンをしまい、今日使わなかったメモを引き出しへ入れる。机の上のものはひとつずつ減っていく。


 それなのに、右側だけは残った。


「こんなに空いてたっけ」


 私は机全体を見渡した。


 もう必要なものしか出していない。電話、筆記具、明日のために残した書類が数枚。それだけだ。整理されているはずの机なのに、右側だけが、何かを片づけたあとのように見える。


 でも、今日そこへは何も置いていない。


 私はそのことをちゃんと覚えていた。朝から一度も置いていない。マグカップも避けたし、回覧も置かれなかった。誰かの荷物を預かった覚えもない。


 何もなかったはずの場所なのに、そこだけがいちばん“何かがあった跡”みたいに見える。


 私は椅子を少し机へ寄せた。帰る前の癖みたいなものだった。


 けれど、その位置から机を見たとき、私はようやくはっきり気づいた。


「私、ここ空けたまま働いてたんだ」


 机の右側だけが、私のものではなかった。


 そういう意味ではないはずなのに、そうとしか思えなかった。ひとつの机を二人で並んで使っていて、そのうち片方だけが先に帰ったあとのようだった。残っているのは私の分だけで、右側には、手帳かマグカップか、何か小さなものをさっきまで置いていたみたいな空きがある。


 けれど実際には、誰もいない。


 朝からずっと、そこには何もなかった。


 私は机の前に立ったまま、しばらく動けなかった。照明の白さの中で、その空きだけが妙にきれいに見えた。空いているというより、最初からそこを空けて使う机みたいだった。


 帰るために鞄を持ち上げても、最後までそこへは何も置かなかった。


 電気を消す前にもう一度だけ振り返る。


 机の上には、必要なものしか残っていない。


 それでも私の席だけが、私ひとりの席には見えなかった。

数が合わない場面を覚えている方は、隣を空けたままご連絡ください。

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