ひろがる
昼休みの終わりに、私は会議室前の掲示板を見ていた。
予約表の確認をするつもりだった。午後に部屋を使う予定が入っていたから、時間だけ見て通り過ぎるはずだった。掲示板には会議室利用表のほかに、古い連絡や避難訓練の日程が重なって貼られている。ふだんならわざわざ読むこともない紙ばかりだった。
その端に、一枚だけ見慣れない文書があった。
白いコピー用紙に、太字で題がついている。
【周知文書】会議室使用時の注意
私は最初、それを普通の連絡だと思った。
会議室の使い方に関する新しい注意事項か、誰かが勝手に椅子を移動したとか、そういう話だろうと思って目を走らせる。机・椅子は使用後、元の配置に戻してください。配布物、備品等は人数分のみ使用してください。そこまではよくある文面だった。
その次で、私は読み返した。
不足がないにもかかわらず空きがあるように見える場合があります。
そこだけ、文の形が少し浮いていた。
続きも読む。
その際は、空いている位置を含めて現状のまま使用してください。
使用後、空きが残って見える場合も、そのまま退出してください。
私はしばらく、その紙を見ていた。
意味がわからないわけではない。ただ、何を前提にしているのかがわからなかった。人数分の椅子があって、不足がなくて、それでも空いて見える場合がある。そんな書き方をする必要があるのは、どういうときなのだろうと思った。
「これ、前から貼ってありましたっけ」
気づくと、近くを通った同僚にそう聞いていた。
相手は掲示板を見上げ、私が見ていた紙より先に予約表のほうへ目をやった。それから、ああ、というように小さく息をつく。
「たぶん前からあったと思いますけど」
「そうでしたっけ」
「どうでしたかね。あんまり見てなかったです」
それだけだった。
私はもう一度紙を見た。端は少し丸まっていた。昨日貼ったばかりにも見えるし、何日も前からあった紙のようにも見えた。画鋲ではなく、透明なテープで四隅を留めてある。ほかの掲示と同じようで、でも紙の白さだけ少し新しく見えた。
会議室のドアの小窓に目を向ける。中には誰もいない。長机と椅子が整然と並んでいて、それだけなら何の変哲もなかった。
けれど私は、その文面を読みながら、少し前の会議室のことを思い出していた。
五人分で足りていたはずの打ち合わせ。五脚しか使っていないはずなのに、どこか一つぶんだけ間が合わなかった椅子の並び。先に一脚だけ片づけたあとのように見えた床の跡。
私は掲示板から目を離した。
午後の仕事はいつも通りだった。問い合わせに答え、回覧を回し、書類を確認する。会議もなく、誰かと長く話すこともなかった。忙しいといえば忙しかったし、掲示のことを考えている余裕はないはずだった。
それでも、ふとした拍子にあの一文だけが頭に浮かんだ。
不足がないにもかかわらず。
私は手元の書類を数える。三枚。添付も合っている。机の端に置いたクリアファイルを揃え直して、すぐに自分でおかしいと思った。何を確かめたかったのか、自分でもわからなかったからだ。
帰る前、会議室の前をもう一度通った。
掲示板の紙はまだそこにあった。さっきと何も変わっていないように見えたし、本当にさっき読んだのかも少し曖昧だった。立ち止まる気にはなれず、そのまま通り過ぎた。
帰宅して、鞄を床に置いた。上着を脱いで、いつもの場所に掛ける。台所で湯を沸かして、マグカップを机の端に置いた。部屋の中は見慣れたままだった。狭いワンルームで、机と椅子と本棚と、壁際に寄せた小さな棚があるだけだ。
何も増えていないし、何も動いていない。
それなのに、机の前の椅子に目が止まった。
私は近づいて、少しだけ引いた。座りやすい位置に直したつもりだった。けれど一歩下がって見ると、今度は机との距離が遠すぎるように見える。もう一度寄せる。そうすると今度は、部屋の中央が妙に空いて見えた。
「そのままで、いいか」
誰に聞かせるでもなく言って、私は手を止めた。
昼に読んだ文書の文言が、そのまま自分の部屋に入り込んできた気がした。現状のまま使用してください。使用後、空きが残って見える場合も、そのまま退出してください。そんなのは会議室の話で、自分の部屋には関係がないはずなのに、椅子を直そうとする手つきだけが急に落ち着かなくなった。
結局、私は椅子をその位置のままにして、夕食を簡単に済ませた。テレビをつけても内容はあまり頭に入らなかった。入浴を終えて髪を乾かし、机の上のカップを流しに持っていく。戻ってきたとき、さっきより部屋が静かに見えた。
明かりを落とし、枕元の小さな灯りだけつけた。
布団に入って目を閉じる。眠れないほどではなかった。ただ、頭の中がなかなか止まらなかった。
会議室のことを思い出す。
長机が二つ。椅子が五脚。資料が五部。紙コップも五つ。足りないものは何もなかった。それなのに、並べ終えたあとの全体だけが、もうひとつぶん空けた形に見えた。
私は頭の中で、椅子を並べ直した。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。
そこに机を置く。資料を並べる。人が座る。
どうやっても、ひとつぶん空く。
数は合っているのに、形だけが合わない。
私は目を開けた。暗い天井が見える。部屋は静かだった。外を走る車の音が遠くで一度したきりで、あとは何も聞こえない。
それなのに、昼に読んだ文書の一文が、また頭の中ではっきり浮かんだ。
空いて見える場合があります。
ただの注意書きだったはずなのに、その言い方だけが妙に具体的だった。見える場合があります。ある、ではなく、見える。そこに本当に空きがあるのではなく、そう見えるだけかもしれないと先に言い訳をされているみたいで、余計に気になった。
「五脚しかなかったのに」
口の中だけでそう言ってみた。
声にはならなかった。
私は寝返りを打った。薄い灯りの中で、自分の机と椅子の影がぼんやり見える。椅子は一脚しかない。会議室とは違う。比べる意味なんてない。
なのに、その椅子の向こう側だけ、何も置いていない空間の幅が妙に気になった。
机と壁の距離。布団の端と棚の位置。椅子の脚と床に落ちた影の長さ。そういうものを、私は目で追い始めていた。
数えるつもりはなかった。
それでも頭の中では、勝手に距離が分けられていく。
ここに机。ここに椅子。ここに布団。
そして、そのどれとも重ならない場所がひとつだけ残る。
空いているというより、最初からそこを空けて使うように決まっていたみたいに見えた。
私は目を閉じた。
閉じても、その位置だけは消えなかった。
部屋の中に輪郭があるわけではない。ただ、そこだけは詰めないほうがいい気がした。誰かがいるからではなく、そこを埋めると、ほかの並びまで崩れてしまうように思えた。
「……詰めないほうがいい気がする」
そう呟いてから、自分で何を言っているのかわからなくなった。
私は布団の中でじっとしたまま、もう一度だけ部屋の形を思い浮かべた。
机があって、椅子があって、布団があって、それから、ひとつぶん。
そのひとつぶんだけが、眠るまでずっと、部屋の中に残っていた。
数が合わない場面を覚えている方は、寝る前に数え直さないでください。




