承
男は生い茂った獣道の奥へと進んでいく。山々まで赤く染める程だった夕焼けも暗く沈んできた。あたりはすっかり真っ暗で、いつの間にか男が持っていたランタンを頼りに後をついて行く。普通であれば通らないような道に、誘拐や、連れ込みの言葉が浮かび途端に不安が膨らむ。やっぱり神社に戻ります、と言うかどうか悩んでいるうちに純和風の建物が見えてきた。
本当に建物があったことに、とりあえずほっとした。
男の家だというその平家は、塀に囲まれており、門を潜ると広い敷地の中にある大きな池に、赤い橋がかかっていた。橋の前で黒いセーラー服を着た女の子が少し目を見開いて、こちらを見つめている。電車で目があった、そして先ほど見かけた女の子だった。
「さっきの」
「もう会ったのかな?灯。同じ年ぐらいだろう。案内してあげなさい」
男は少女にそう指示した後、桃を見てニコリと笑った。
「灯は口が聞けないんだ。こちらの声は聞こえているから心配しなくて良いよ。普段年頃の子と接する機会がないから、良ければ少しの間だけでも話し相手になってくれないかな」
「あ、はい」
知らない男の人の家なので警戒していたが、似たような年頃の女の子がいることで警戒心が緩まった。
「ありがとう。晩御飯もぜひ食べていくと良い」
「こちらこそありがとうございます。お言葉に甘えます。あと、すいません。お手洗いお借りしていいですか」
「かまわないよ。灯」
黒髪おかっぱの少女は、男に了承の意味でお辞儀をした後、桃に目でついてこいと訴えた。
「じゃあ、また後でね」
✳︎
「灯ちゃん、って呼んでいい?案内してくれてありがとう」
桃は前を歩く灯に声をかけるが、灯は反応を示さない。声が聞こえてない、というわけではないらしいので、反応する意思がないのだろうか。
「電車乗り過ごしちゃってね。気付いたらこの駅にいたんだ。すごい長い階段だよね、びっくりしちゃった」
ここに来るまでの経緯を取り留めなく話すも少女はこちらを見ない。トイレにつくと目でここだと指示された。
(人見知りなのかな)
どこかで見かけたことのある気がする。会ったことがないか後で聞いてみようと考えながらトイレから出て、ハンカチを取り出そうとしたところでうっかり鞄の中身をぶちまけてしまった。
灯も呆れたような目で、それでも鞄の中身を一緒に拾ってくれる。
「あなた、たばこをもっているの」
コロコロと転がったタバコを手に取って、灯は囁くように、そう言った。灯が口を開いたことに驚きながらも「駅で、持っていくように書いてあったから」と、経緯を説明する。
「そう、そうなの。……時間がないから端的に言う」
灯はタバコ桃に握らせながら目をしっかり見つめた。
「ここで出されるものには口をつけないで。本名は伝えてはいけない。その時が来たら私と一緒に逃げて。あの男の前では私は喋れなくなるから。あいつらは」
桃は目を瞬かせる。逃げる?どういうこと?頭が混乱し、どういうことかと重ねて聞くその前に、遠くに男の大きな影が見えた。心なしか神社で見たときより大きく感じる。灯は影に気がつくと隠すようにタバコを桃の鞄に押し込み、影に向かって頭を下げた。
「随分長いから迷ったのかと、迎えにきたよ」
「すいません、私が鞄の中身を落としちゃって」
灯は目線を合わせないように黙って横に立っている。
「行こう。食事の用意ができている」
✳︎
赤い橋を渡って、ようやく家屋につく。入り口の戸をガラと開けると、男とはまた違う、狐とおかめの面をつけた着物の女性2人が頭を下げて出迎えていた。
「おかえりなさいませ。そちらは」
「灯に案内をさせるから気にしなくて良い。食事と湯の用意を」
「かしこまりました」
音を立てずに女達は立ち上がり去っていく。蝋燭の火が玄関を明るく照らしている。奥まで続く畳に、屋敷の広さが気になった。
「とても素敵なお宅ですね」
「ありがとう。そういえば、まだ名前を聞いてなかったね」
「そうですね、……お世話になります。猫田梅です」
桃は、先程の灯の言葉を思い出して咄嗟に偽名を名乗った。
「そう……猫……、犬じゃなくて良かったよ。私は犬が大嫌いだからね」
優しげな声から一変して、冷たい声が広いロビーに響く。本名の犬塚桃を名乗らなくて良かったと、心から思える声音だった。
「さぁ、上がって。灯に案内してもらって荷物を置いておいで」
頷いて靴を脱ぐ、何気なく灯の動きを目でおっていると、透けるように白い手で桃のスニーカーを布の袋に入れた。
「え?」
灯は男と合流して以降初めて、桃と目を合わせた。人差し指を口に当てる。目がガラス玉のようにキラキラと光に揺れて反射していた。
そのまま灯の案内で、6畳の和室に通された。障子の向こうに誰もいないことを確認した後、障子を閉じた灯は小声で桃を呼んだ。
「この後の食事には、一切手をつけないで。食欲が無いでもなんでもいいから。途中で電話を貸してと席を立ちなさい」
同じ年頃だというのに随分偉そうだが、灯の美貌が有無を言わせない。
「ねぇ、なんであの人の前では喋らないの」
「そういう契約だから。捨てられていた私を拾ったあの男と私の契約」
「それって違法だよね。一緒に警察に行こう」
桃の真剣な声音に、灯は大きな目をさらに見開いた後クスリと笑った。
「そうね、無事にここから帰れたら、連れて行って」
その後、出迎えてくれた2人の女性に連れられて、大広間へと向かった。
「お食事の用意ができました」
ズラリと並んだ面に少し戸惑う。上座の男の横に用意された席に着き、一同の視線が痛いほど刺さった。男の一声で皆が一斉に食事を始める。
桃の前にも赤いお膳に乗った食事が、美味しそうに並んでいる。ハンバーガーを食べてきた桃の目にもあまりに美味しそうに映り、箸に手を伸ばした。手を合わせてメインの肉料理に手を伸ばす。箸で肉を掴み、口に運ぶ途中で、ガシャン、と外でガラスの割れる音がした。音に驚き箸から肉をこぼす。
「ごめんなさい」
男に謝りながらも、灯の言葉を思い出し、冷や汗をかいた。目の前の料理が抗えないほど美味しそうに感じて、自制が難しい。
「あの、そういえば、家に電話をかけたいのですが。電話をお借りできますか」
結局、灯の指示通り男に頼むことでこの場を離れることにした。
「一緒に行こう」
男が立ち上がり、桃についてくるように促す。これは電話のあるところまで連れて行ってくれるということだろうか。
桃は名残惜しげに料理を見ながら、男の後をついて行った。
「私から電話をかけて、猫田さんにかわろう。電話番号を教えてくれるかな」
朝ドラでしか見たことのない黒電話の前で、男は受話器をもっている。使い方がわからないので男の言うままに電話番号を伝えた。男はぐるぐると、番号を回していく。見ているだけで酔ってしまいそうだが珍しさに目が離せない。
(しまった。私偽名を伝えているんだ、どうしよう
)
ここで偽名だとバレてしまったらどうしたら良いか。しかも男が嫌っている犬の名のつく名字なのだ。変えるのは名前だけにしておけば良かったと後悔しながら、男の反応を伺った。妙に心臓がバクバクしている。
「猫田さんのお宅ですか。初めまして。私、木津と申しますが。梅さんが道に迷われたようで今うちにいらっしゃいまして。ええ。今代わりますね」
「え?」
猫田で通じたのか。電話番号を伝え間違えたのだろうか。戸惑いながらも、受話器を差し出す男からおそるおそる受け取った。
「お母さん」
「梅?もう、心配かけて、今どこにいるの」
なんだ、これは。
母が、母の声で、私の名前では無い名前を読んでいる。
「お母さんなの?」
「……あなたが電話をかけてきたんでしょう?」
ひゅっ、と思わず息を飲む。聞いたこともないほど冷たい母の声。
「そう、だね。今、木津さんのお家にいるの。明日になったら電車が出るから、明日帰るね」
「そうなの。木津さんに迷惑をかけないように、気をつけて帰ってらっしゃい」
コロっと、いつもの母に戻る。
が、これは、母ではない。
心配性の母が見ず知らずの男の家に泊まることをこんな簡単に許可するはずが無い。母なら絶対に住所を聞いて車で迎えにくる。私がわからなければ、男に電話を代わるように言うはずだ。これは、誰だ。
「もう、終わったかな」
受話器をもったまま震えていると、頭上から男に声をかけられた。表情が無いはずの能面は、何故か笑って見えた。