第九話 帝都編 市ヶ谷
白い石膏版の天井が見えた。灰色の空調音がする。窓から見える光は屋外のものではない。この白い光は以前に見た事がある。地下都市だ。徐々に意識が戻ると共に体の各所の痛みが込み上げて来た。その痛みは刺激を増し全身に伝わる。背後から鼠色の機械音が聞こえ、漆黒の足音が響いた。
「患者が目を覚ましたぞ」
「鎮痛剤を投入だ」
「脳波が乱れてますが、大丈夫ですか?」
懐かしい白い声が聴こえた。
「トモコ・・・全身が裂けるように痛い」
「リンコです。今、鎮痛剤を投入してます。もう少しで痛みも治まります」
「リンコ・・・リンコさんかぁ・・・」
「タチバナさん、確りして下さい!」
「リンコさん・・・麻酔が効いて来たみたいだ」まるで白い柔らかな産毛に包まれるような心地だ。
「無事でよかったぁ・・・」
リンコの白い嗚咽が聴こえる。私の為に泣いてくれるとは。
「あれから、どうなったんだ?」
「あ、はい・・・すみません。あれから一週間が過ぎました。タチバナさんは救助隊が来て直ぐに気を失いました。手術の際に銃弾を二発摘出致しました。幸いにも急所は外れておりましたが、出血が酷く、手術の後も意識が戻りませんでした。あ、ここですか?ここは組織の病院施設です。私やハルオさんは、無傷です。けれども・・・私達全員が組織の規約を色々と破った為に何らかの処分が下されそうです」
「そうか、有難う。そして、迷惑に巻き込んで申し訳ない」
「いえ・・・迷惑だなんて、寧ろ、望んで飛び込んだのですから。私、そろそろ行きますね」
「有難う」
再び、私は微睡みの中に沈んで行った。
「おい、タチバナ!」
「ハルオ君駄目だよ、強引に起こしては」
「リンさん。こいつは丈夫な男です。此れくらいで、丁度良いのです」
意識の淵から再び懐かしい灰色の声が聞こえて来た。
「ハルオさん・・・リン局長・・・」
「ほら、起きたでしょう」
「うむ。タチバナ君、体調の方は落ち着いて来たかな?」
「はい。鎮痛剤のお陰で何とか」
「そうか。兎に角、大切な組織の調査員が無事で何よりだ」
「有難う御座います・・・」
「うむ・・・確かに、今回の君達の行動は組織の規範を明らかに超越するものであった。行動理由も決して純粋とは言えない。が、その結果、危険分子を一掃出来た。何よりも、君の戦闘力は眼を見張るものがある。そして、誘惑に負けず最後まで勇敢に行動をした。そこで我々は審査の結果、タチバナ君を組織本部へ迎える事にした」
「はい・・・」
「うむ。君の反応を見るにサヤカ君の事だね・・・彼女に関してはタチバナ君が落ち着いてから伝える。市ヶ谷の本部に回復し次第来る様に」
「了解致しました」
「じゃあな。ゆっくりと休めよ」
そういうなり、二人は戸を閉めて出て行った。部屋は均質な白色に戻り、静寂に包まれた。サヤカはどうなったのだろうか?リン・シユウの抑揚のない言葉から、感情を読むのは難しい。一瞬、御台場でサヤカの冷えて行く肉体の感覚がよぎり、黒い感情が湧いて来た。心臓の鼓動が激しくなり呼吸が苦しい。廊下を駆ける足音が聞こえ、看護師が入り、私の状態を確認した後、注射を打たれ、意識が遠退いた。
「もう退院しても良いだろう」
日にちの感覚も忘れた頃、担当医にそう言われた。病室の鏡で自分自身を見ると、見慣れないやつれた人物が写っており、それが自分であると気がつくのに暫く時間が必要だった。担当医からは精神安定剤と鎮痛剤を渡された。服は戦闘で千切れていたので、気を利かせてか新調の服が用意されていた。その脇には、組織が用意したと思われる最新の携帯端末もあった。携帯端末を起動をして画面を見ると、私は三週間近く病院にいたようだ。
特にこれといった色彩のない地下鉄を二度乗り換え、五反田駅に到着した。地上に出ると、空は既に暮れており、見慣れた駅前の猥雑な景色が眼に入る。息を切らしながら、坂道を登り、住み慣れた高層住宅の部屋に入ると、以前と何の変化もない単調で簡素な混凝土色の部屋があった。足元に白い冷気を感じた。私は床暖房の電源を入れ、南山西洋珈琲で購入した豆を淹れた後、座りながらゆっくりとそれを飲み干した。濃厚なとろみのある苦味を感じたが、相変わらず色は単色だ。私は色彩を失った。
自分の嗚咽が聞こえた。部屋の景色は目に溜まった液体で歪んで見える。私は全てを手に入れるべく、行ける所まで行き、そして失った。サヤカ、そして色彩。頭の思考にサヤカと再会してからの思い出が無秩序に思い出され、息が苦しくなった。鞄より錠剤を取り出し、唾液で流し込んだ。効果が出るまで時間がかかる。後、五分だ。五分間耐えれば良い。そうすれば、また夢のない深い眠りに戻れる。
軋むような痛みと寒気で眼が覚めた。目前には木目が見えた。上下感覚が妙だ。私は均衝を失い床に倒れた。衝撃で意識がはっきりすると、どうやら机の上でうつ伏せに寝ていたようだ。既に日は登っている。私は熱い風呂に入った。傷口に沁みたが、同時に熱が巡り始め、意識も覚めた。組織に行こう。結局、一人で悩んでいても、同じ思考の循環の中にいるだけだ。そう思い、風呂を出て、御台場より放置されていた髭を剃り、水を二合近く飲むと気分が良くなった。
市ヶ谷にある組織の本部には地上入口がなく、地下鉄でしか行く事が出来ない。組織より与えられた案内に従い地下鉄を乗り換え、家から四十分程度で市ヶ谷駅に到着した。駅の構内は重厚な黄土色の陶器版で彩られている。改札で国民証をかざし、自己証明を済ますと、その先の案内に組織、正確にはアキヤマ研究機関の名前があった。案内に従い歩いて行くと、自動昇降機がある。以前利用した貴族院図書館のものと意匠が似ている。昇降機はゆっくりと移動する。扉が開き、明るく近代的な空間に出た、本部の入口だ。受付に行き、再び自己証明を済ませると、椅子に座り待つように促された。椅子は見たことのない立方体の合成樹脂製だ。腰を掛けると体に馴染み、程よい弾力がある。
「タチバナさん。体調はもう大丈夫でしょうか?」
横から懐かしい白い声が聞こえた。
「リンコさん。お陰様で何とか動けるくらいにはなったよ」
無理に作り笑いで返事をすると、リンコは素敵な笑顔を返してくれた。
「良かった・・・心配をしておりました」
「もしかして、リンコさんが組織を案内してくれるの?」
「はい。組織とは不思議な縁が色々とあり、本部で研修生として大学に在籍しながら勤める事に成りました」
「おめでとう!」
「有難うございます。後で、リン・シユウ局長も合流されるので、それまでは私がご案内致しますね」
「楽しみにしてるよ」
リンコが案内をしてくれると知り、心安い心地になった。簡単な所持品の検査を終え、自動扉を抜けると、建物にすれば三階分の高さの吹抜け空間に出た。視界を埋め尽くす数の制服を着た作業員達が電脳と睨み合っている。その先に巨大な球体が見えた。
「アキヤマ機関本部へようこそ!この部署では主に情報分析をしております。情報分析は、全国の調査員より集められたユメミに関する情報の管理、各ユメミの保護対策、ユメミ居住区の管理、そして最も大切な仕事でもあるユメミの構築した世界の解読、更にはユメミの世界へ潜入している調査員への補助をしております。中央の球体にはユメミの世界が映し出されております。見に参りましょう!」
球体へ向う途中、作業員の姿が見えた。不思議な事に彼らの作業画面は単色で何が写っているのか把握が出来ない。多分、情報秘匿の為であろう。特別な接眼を与えられ、許可を得た画面しか見えない設定になっているのかも知れない。球体に近付くと、それは無数の動画により構築されている事が分かった。リンコが操作盤を弄ると、そこに廃墟の動画が映った。廃墟には英語、支那語、露西亜語の表札、無数の銃痕、放置された死体や日本人には見えない肌の色をした人種が散見された。
「タチバナさんは、以前サヤカさんの世界に訪れたと伺いました。ここに写っている世界は『赤の世界』と呼ばれており、タチバナさんが潜入した世界と同じ様にユメミが創りました。『赤の世界』はサヤカさんの世界とは異なる歴史を辿り、極端な歴史の可能性を示しております。二つの世界は組織の管理する世界の中でも最古級で、不滅の灯明の如く七十年以上ものあいだユメミ達により引き継がれて参りました。この世界が成立するまでの経緯など説明は必要ですか?」
「是非、聞かせて欲しい」
「はい。『赤の世界』は昭和二十年頃に日本で起こった、敗戦共産主義革命に因んで、共産主義の象徴である赤色が世界の名前になっております。動画をご覧下さい。この荒廃した街並みは銀座通りです。他にも丸の内など映されておりますが面影は一切ありません。この荒廃は昭和十年代に起こった第二次世界大戦という戦争が原因です。大日本帝国は独逸、伊太利亜と共に枢軸と呼ばれる同盟を結びました。日本国は主に英米と太平洋を舞台に戦い、序盤は善戦し、支配地域を短期の内に拡大致しました。その支配地域は現在の亜細亜連邦よりも巨大です。しかし、英米との戦争の傍で展開していた日支事変、相次ぐ増税による経済不況、生産力の低さ、戦略のなさ、諸外国への情報戦の敗北、米国による国際法を無視した無差別通商破壊、無差別爆撃などにより日本国は敗退を続けました。いよいよ、降伏直前という時に若手革新派が政府を掌握して、戦争継続を決断致しました。革新派は松代を根城にし、敗退を続ける日本軍と避難民を受入れました。最初は天皇万歳と言いながら松代内の共産化を進めた革新派は、次第に凶暴化し、指導者同士の終わりのない粛清を繰り返しました。挙句の果てには天皇家を残らず処刑致しました。その中で力を付けたセジマ・リュウゾウとノサカ・サンゾウは支那共産党と蘇維埃の協力を得て勢力を拡大致します。その結果、日本は松代を首都とした日本共産党が支配する日本民主主義人民共和国と、英米に占領された、九州、四国、中国を中心とした日本民国に分断されました。それ以外の亜細亜周辺国は見事に赤化しております」
「俄に信じがたいが・・・その、ユメミの作り出した世界は実在するのか?」
「答えるのに難しい質問ですが、限りなく実在に近い世界と組織では考えております。先も説明致しましたが、ここはユメミ達が構築した世界です。夢と言えば夢なのでしょう。ですが、それぞれの世界の住人は我々と同じ様に生活をし、寿命が来れば死にます。世界の情勢も刻々と変化を続け、私達が予想した通りに進む場合もあれば、予想外の結果を齎す場合もあります。何にせよ、ユメミの世界が齎す可能性は他の凡ゆる知見を超越した的中率を誇ります。実は私も先週初めて組織の本部に訪れて、実際に幾つかの世界に潜入致しました。何と申せば良いか・・・正に実在してるとしか言いようがありませんでした」
「そうか。肝心な事なのだけれど、ユメミの世界からどの様にして組織は知見を得ているんだ?」
「少し長く成りますが、宜しいでしょうか?」
「勿論」
「タチバナさんはクレオパトラの鼻の話をご存知ですか?」
「確か、もしもクレオパトラの鼻が低ければ歴史は異なった、ような・・・」
「はい。仏蘭西の哲学者パスカルが残した言葉ですが、歴史とは雑味で満ちております。たかが、クレオパトラの鼻の高さで歴史が変わるのか?という命題は歴史を考える上で重要です。私達に分かりやすい表現ですと、周瑜が醜男ならば・・・とでも言えば良いのでしょうか。些細な話に過ぎないと笑い飛ばせる事が出来れば良いのですが、実際の歴史はこの様な詳細の積み重ねで動いております。さて、ではその細かな詳細で構築されている歴史ですが、そこからどの様に知見を得るのかという問題に成ります。我々は既に起こった事柄から過去の分析はある程度出来ます。そして、そこからある種の法則の様なものを摘出する事が出来ます。しかし、その法則から未来を予測する事は困難です。その困難さは三体法則が原因と言われております。三体法則とは仮に、宇宙空間に月と地球だけが存在したとします。その場合、二者の運動の予想は可能です。ですが、そこに太陽や他の惑星が加わると予想は極端に難しく成り、正確な動きを捉える事は出来ません。現実世界も同様です。複雑に人々が入り組む世界の未来を法則から予想する事は困難です。その中で最も実際に起こり得る事との的中率が高い知見がユメミの観る世界です。ユメミの世界は、彼らの無意識の投影とも言えます。それこそ古来の霊媒行為はユメミの無意識を様々な形で言語化する行為だったとも言えます。その複数の無意識の集合体が複雑に絡まる事で逆に、信頼性の高い知見を生み出します。また、ある程度近い未来を観る事も可能です。タチバナさんの質問に答えますと、組織は常に我が国にとって最も有益な選択を提案しております。その選択の正確さを担保するのがユメミの世界です。異なる選択の結果を短期・長期で分析する事で組織は情報を収集しております。また、異なる技術開発も世界ごとで行われており、それらの技術研究も致します。例えば、タチバナさんが受付でお座りになった特殊樹脂製の椅子もその結果です。それと組織運営の為に、ユメミの情報を元に投資を行う部門もあります」
「それが、組織の本来の仕事という事なのか・・・」
「はい。ですが、最初の内は政府も組織の知見に半信半疑でした。大きな契機は昭和七年の十二月騒動と言われております。その当時、組織の存続は風前の灯火でした。組織がアキヤマ・サネユキの元で第一次欧州大戦を予知したとは言え、日露戦争以後、我が国は深刻な平和ぼけが続き、国防に関する意識が薄れておりました。更に長引く物価下落不況が原因となり、国家知見への予算が毎年削られている状態も重なっておりました。その様な状況の中、組織の中興の祖とも言われるカヤ・オキノリが尽力し、ユメミの世界を通じて、戦争に我が国が巻き込まれ国土が灰燼と化す可能性を予見致しました。カヤは早速、戦争に巻き込まれる直接の原因を取除く事に致しました。原因の一つは日本国内に巣食う危険分子、即ち共産主義に染った偽装転向右派やそれに賛同する左右両翼の過激派。そして、もう一つの原因が不況です。これらの状況を一変させるには切欠が必要でした。それが十二月騒動の正体です。この騒動は政府中枢に巣食う危険分子の排除に成功しました。また、冷飯を食らっていた、自由主義者の登用も致しました。イシイ・キクジロウやヨシノ・サクゾウなどの活躍は有名ですよね。ですが、幾ら国体を揺るがす危険分子を検挙しても、経済が好転しない事には、危険思想への魅力を断つ事は出来ません。カヤは次に経済を長期的に繁栄させる事に成功しました。十二月騒動という大きな選択をするにあたり、作られた世界が二つあります。『赤の世界』と『八月十五日革命の世界』です。これらの世界は十二月騒動のない世界の二つの姿です。これら二つの世界は恐ろしい結果を我々に提示し続けており、戒めとして今も継続しております」
「・・・世界は幾つも存在するという事なのか?」
「はい。組織には今御覧になっている『赤の世界』や先にお伝えした『八月十五日革命の世界』、以外にも大小無数の世界があります。それぞれに異なる予算が割り当てられており、予算と世界の規模と知見の正確さは相関関係にあります。平均としては数百名単位で一つの世界を持続しております。中には予算の関係や、知見の必要がなくなった世界は破棄される場合もあります」
「世界が破棄される・・・」
「ええ、色々と倫理的な議論はありますが・・・」
「因みに最近作られた世界では、どういう類の世界があるか分かるか?」
「私も全てを把握してはおりませんが、タチバナさんと縁のある世界ですと、新京同時多発恐怖行為が起こらなかった場合の世界があります。恐怖行為が起こらなかった結果、満洲の経済は停滞し、北支那への警戒が緩み北支那人の人口侵略を受けて満洲西部内に親北支那地域が誕生してしまいます。北支那へは常に危機感を持ち、パーマストンの砲艦外交に習い、十年ごとに空爆をする位が最善の二国間関係との教訓を得られました。更に言えば、国毎に適切な関係を築く事が重要です。新聞でよく言われる慣用句ですが、話せる相手とは話し、話せない相手には言う事を聞かせる、ですね。因みにこの世界は既に放棄されております。では、次がありますので、ユメミ居住区に御案内致しますね」
自分の巻き込まれた事件の裏に組織の関与を知り、言語化し難い嫌な心持ちがした。リンコは中央の球体を横に曲がり、自動昇降機まで移動した。扉が開き昇降機はゆっくりと移動している。自動戸が開くと、強い日光が感じられた。目が慣れて来ると、そこには数多くの影、いや、人が歩いている。しかも、単色ではあるものの発光色を感じる。それも、一人や二人ではない、全員だ。街並は典型的な商店街だ。看板建築、明治期の木造商店、洋風建築など、典型的な建造物が街並を構成している。街行く人達の表情も自然で、ここが共同体として成立している事を物語っているように思えた。
「ここにいる全員がユメミなのか?」
「はい。ここにいるユメミは東京地域で保護されたユメミ達です。地上での生活環境を維持しながら保護をするべくこの街は造られました。ここは地下深いですが、地上より日光を取り入れております。また、年季の入った建物も殆どが地上から移築したもので、生活感を出す努力をしております。ここではユメミ達が自由に仕事をする事が出来、外部の商品も購入出来ます。地上への外出も我々の監視付きですが可能です」
「成る程・・・あ、じゃあここにハルオの恋人の・・・」
「キヨコさんですね!はい、おります。多分、ハルオさんも来ている筈です」
「良かった。会えたんだ」
「はい。無事に会えました。折角なので、キヨコさんの経営している喫茶店に行きましょうか?ハルオさんもそこで本を読んでいると思います」
これまで自分の報告して来たユメミがここに送られていることを思うと不思議な気持ちがした。記憶にある顔はないか見回したが、実際仕事中は相手の事を記憶に残るほど観る事はない。リンコを追い、賑わいのある商店街を抜ける。天井を見上げると無数の光源が見えた。光繊維で地上から採光しているのであろう。商店街を脇に曲がり、少し歩くと外観は一見何処にでもある様な二階建ての木造商店建築が見えた。リンコがそこを笑顔で指差している。一階部分はよく見ると白い陶板貼りの内装で現代的だ。さらに近付くと、珈琲と麦餅挟みを楽しむ客が多く見えた。
「このお店?お洒落だね」
「はい、ここです。良い雰囲気ですよね。私もユメミ居住区に来る際はよく利用させて頂いてます!ここの珈琲は美味しいですよ!」
麻製の手触りの良い暖簾を潜ると、珈琲の芳醇な香りが漂った。店内はユメミで埋まっていた。中に珍しい西洋人が一人いた。よく見ると以前、上野で私が組織に報告をした、苦虫を噛んだ様な表情が印象的な仏蘭西国籍の男だった。奥に一人、発光していない男がいた。ハルオだ。私達に気がつくと手を振り、近くに来る様に促した。
「よお。無事だったか?」
「はい。鎮痛剤のお蔭で何とか歩ける程度には成りました」
「そうか、それは良かった。俺もお前に感謝しないとな。お前のお陰でキヨコに再会でき。茜色の味のする珈琲が呑めるのだから。リンコ、ちょっとは時間の余裕はあるのか?」御台場の作戦を進める中でハルオとリンコは気楽に話す仲になっていた。
「ええ・・・タチバナさんとはこの後、ユメミの作業空間を案内するのですが十分程度でしたらば」
「そうか、じゃあここで喫茶して行かないか?」
それはとても、魅力的な提案に感じた。それにハルオから聞きたい事もあった。
「ええ、お願い致します」
「あらっ、彼が噂のタチバナ君?生傷が男らしいわね」
ハルオの後ろに痩せ型で長身の女性が黒い洋装を綺麗に着こなし立っていた。キヨコであろう。調査で報告をした際に会った筈だが、記憶の印象よりも生き生きしており、明るい感じがする。
「はい。初めまして・・・でもないですが」
「私ね、実は貴方に感謝をしているのよ。こっちでの生活は楽しいし。貴方のお陰でハルオ君とも再開出来た。本当に有難う。ちょっと待っててね、珈琲で良い?」
「お願い致します!」
リンコと声が重なり、二人で顔を見合わせて笑った。
「ま、という事だ。お前がキヨコを報告してくれたお陰で彼女は元気でいる。俺からも、その、何だ・・・有難う。本部に来てから分かったのだが、キヨコが保護される際に、諸外国の工作員に気付かれない様、組織は隠密行動を取る必要があった。それに俺とキヨコの関係が組織に知れない様にキヨコが配慮して、何の音沙汰もなく消えた。組織に保護されてからは外出や外部との接触は制限されていたから、連絡のしようもない。キヨコとしては俺が組織にいる限りいつかは会えると考えていてくれたのだが・・・」
ハルオから真顔で感謝をされ、少し対応に困ったが悪い気持ちはしない。お互いに思い合っていても、ハルオとキヨコの様にすれ違う事もあるのだろう。その様な二人でも再会をすれば理解出来た。人間関係とは、そういうものだと信じたい。
「そうそう、お前さんが病室にいた時は、組織の事情で伝えられなかったがサヤカは生きている。が、意識はない。昏睡状態だ。だが、気を落とすな。彼女の精神はあちら側で生きている。幸いかしらんが、ユメミの世界は繋がり拡張する事もある。組織ではそれを人為的に繋げているが、サヤカは昔から、組織の作った『八月十五日革命の世界』と繋がっていたみたいだ。そういう事は往往にしてあるようだ。だが、話は簡単ではない。ユメミの中には自分の作り出した世界に引き込まれて、戻れなくなる事がある。まあ、ここまで話せば分かると思うが・・・」
「サヤカが生きている・・・つまり『八月十五日革命の世界』でサヤカを見つけ、連れ戻すという事ですか?」
「そうだ。お前はその為に本部に呼ばれた。だが、組織も人の恋路を手助けするほどお人好しではない。そもそも本部で解決出来ればお前を呼ぶ必要などなかった。俺やリンコが本部に呼ばれたのも同じ理由だ。俺はキヨコと共にお前とあちらでサヤカを呼び戻す行動の補助をする。リンコはこちら側で俺達の行動の支援を頼む。お前は向こうの世界でサヤカを見つけ説得し、こちらに戻る様に促す。それをするのにお前が適任と組織が判断した」
「成る程。了解です」ハルオからサヤカの話を聞き、胸のつっかえが取れた。
「会話の途中に失礼。珈琲を二つどうぞ」
キヨコが木製の盆に茶碗を二つ乗せて来た。芳醇な茜色の香りがする・・・茜色?おや、色が戻っている。茶碗は両手に収まる大きさで、触れるとほんのり暖かく、肌に優しく馴染む感触がある。釉薬は赤茶けており、艶の鈍い色合で、中の漆黒色が映える。口に運ぶと柔らかい淵から、絶妙な温度の液体が口に運ばれ、目の覚める様な織部色の苦味、辛子色の酸味が交互に花開いた。茶碗を置き、辺りを見て回ると喫茶店の人、音楽、空気、至る所に色が溢れている。
「実はハルオさんに相談しようと思っていた事がありましたけど・・・いま、解決したみたいです」
「おう。良かったな。ここの珈琲のお陰か?」
「はい。実は御台場での事件以降、観じる色が全て単色になっていました。もともと、共感覚に覚醒したときも、新京恐怖行為に巻き込まれたのが原因でしたので、同じ事かと思いましたが・・・先程、サヤカが生きてると知り安心し、珈琲を呑むと、一気に色彩が戻りました」
「それは、ある種の心理的要因が大きいかもな。俺も一時、キヨコがいなくなってから色が見えなくなった事がある。それから、暫く色が薄れていたが、キヨコと再会して珈琲を呑んだら色が完全に戻った。キヨコ。珈琲に何か入れてるのか?」
「特に特別なものは入れてないけど、水は富士の地下天然水。豆は私の好みで混ぜたものをここで焙煎してるわ。魔法はないけど、結構手間はかかってるかな」
キヨコが最初見た時よりも生き生きして見えたのはある種の生き甲斐を見つけたからだろう。私達は美味しく珈琲を頂き、体の疲れも幾分かほぐれた。
「タチバナさん。そろそろ最後の施設に参りましょう!」
「そうだな・・・キヨコさん。珈琲有難う御座いました」
「また、遊びにいらしてね」
私達は店を後にし、商店街の裏路地を進んだ。背の高い生垣を抜け、木造の民家を曲がると街は終わり、混凝土の壁に突き当たった。よく見ると、そこには扉があり、簡単な認証作業を終えるとそれは開いた。その先には、細い無機質な回廊が続いる。数分間そこを歩くと、再び扉が見えた。ここでも認証作業があり、それを終えると扉が開き、今度は真っ暗な部屋に辿り着いた。目が中々慣れない為、何も見えない。リンコは足元を指し、発光する案内に従うように促した。目が慣れて来ると、自分が巨大な空間に居ることが理解出来た。薄暗い室内を照明頼りに見回すと、棺の様な箱が無数、扇の様に配置されて居るのが確認出来た。
「ここが作業空間なのか?」
「しー・・・・ここでは静かにして下さい。後で説明致します!」
とリンコが声を押し殺して言った。扇状に配置された無数の棺の中央部に我々は着いた。そこには監視塔の様なものがある。リンコはそこに行く為の自動昇降機を呼んだ。昇降機は音もなく止まり、扉が開いた。中は狭い。昇降機が登るにつれて、私が見ていた棺は扇状というよりも、この監視塔を中心に円形に据えられて居る事が分かった。昇降機が止まり扉が開くと、リン・シユウが待っていた。
「やあ、タチバナ君。ようこそアキヤマ研究機関本部へ。体の痛みは幾分か治ったかな?」
「はい。お陰様で随分と痛みは引きました」
「そうか、それは良かった。タチバナ君、此方まで来てくれないか?」
私はリン・シユウの方に近付いた。そこからは部屋全体が見渡せ、無数の棺が見えた。
「この一つ一つの箱の中でユメミ達が睡眠を取り、世界を構築している。そして、ここで創られた世界の情報を我々は分析する」この棺みたいなものにユメミ達が寝ている。すると、サヤカも・・・
「私の仕事は、選択をする事だ。選択とは、それ以外の可能性を捨てる事でもあり、時に残酷な結果をもたらす事もある。では、何の為に選択をするのか?それは御誓文が息づく世界を守る為だ」
御誓文、即ち国際法を守り、同時に守らせ、公平かつ民主的で自由な社会という意味だろう。
「以前、組織より満洲へ出向していた。その際、ユメミの世界から導き出した選択を満洲国政府に提案した事がある。それは新京で起こる恐怖行為を黙認する事だ。結果、満洲政府はそれを受け、恐怖行為は予想通りに発生し想定以上の犠牲者が出た。が、長期的に考えれば亜細亜連邦にとってそれは良い選択であった」
「リン・シユウ局長が恐怖行為を黙認を提案したのですか・・・先程、リンコさんより話を伺い、満洲国全体の利益を考えれば最善の提案だったとは思います。ですが、個人としては知人も多く犠牲に成り、素直に受け止められません」
「タチバナ君が恐怖行為に巻き込まれ、その結果、特別共感覚に覚醒し、恐怖行為を黙認した私が君を組織に推薦して、君が組織で働く事になった。だが、タチバナ君の境遇は我々の知見には含まれてはいない。勿論、恐怖行為により誰が犠牲になるかも予想は出来ない。我々は知見を通じて予想をする際に細かな事の積み重ねによる結果を重視はするが、過程に関しては認知しないのだ」
「納得は出来かねますが・・・受け止めます」
「うむ。そうしてくれ給え」
「関連して伺わせて下さい。リ・トモミが新京恐怖行為の実行犯だと伺いましたが何かご存知でしょうか?」
「如何にも。リ・トモミは実行犯だ。が、利用価値があるから泳がせる事にした。今回の君も関わったユメミ・イロミの亡命未遂も我々としては、君達が実際に亡命しても構わなかった。それが新たな北支那との火種に成るからだ。この程度の事はユメミに頼らずとも判断出来る些細な事柄だ」
私はある種の敗北感を通り越して、無力感を感じた。結局、自分の行動はリン・シユウの手の上で踊らされていたのだと。だが、組織の提案のみで政府は決断をしている筈はない。
「では、我が国で続いている物価下落不況を組織はどう見てますか?これこそ放置をしたら、危険思想の賛同者を増やし社会が不安定化するのでは?」
「うむ。我々としても、物価下落不況は良くないと把握している。政府に金融緩和、減税、有効な財政出動など改善策を提案はしてはいるのだが、我々の予算を掴んでいる大蔵省が妨害をしてくるのだよ。まあ、近い内に面白い事があるかも知れないがな」
そう言うと、リン・シユウは静かに笑った。
「折角なので、ここの説明をしよう。ここでは、先ほど見て貰った、情報分析部の球体に映っていた『赤の世界』を管理している。ユメミはここで二日程寝て貰い、作業を終えると別のユメミと交代をして貰う。ユメミの仕事は寝て夢を見る事だ。一人一人のユメミが他のユメミと同じ夢を観る事でこの複雑な世界は構築されている。ユメミは向こう側の世界、組織の作った地下都市、一般人の住む世界と幾つもの世界を行き来している。その結果、極稀に自分の住む世界が分からなくなるユメミがいる。そういったユメミは夢の世界に閉篭もる事がある。しかし、ユメミの物理的な肉体はここにある。我々がユメミの作業時間を二日に限定しているのにも理由がある。向こうの世界に長くいればいるほど、こちらに戻って来られる可能性が低くなるからだ。同時にユメミの生命維持が困難になる。これまで我々はそういったユメミを向こう側から連れ戻す作業もこなして来た。タチバナ君も貴族院図書館別館の資料を読んだから知っているだろうが、組織の創設者であるアキヤマ・サネユキも向こうの世界から戻って来れなくなった一人だ」
ここで、リン・シユウは言葉を一旦切った。
「そう・・・サヤカ君の事だ。彼女は生きている。物理的には此方の世界で延命措置を受けている。だが、意識はない。意識は向こう側にある。そして、サヤカ君の存在が向こうの世界を崩壊に導いている」
「どういう事ですか?」
「うむ。世界を構築するには多くのユメミの無意識が必要だ。だが、その中で意識的に世界を弄るものがいると、世界を構築している秩序が崩れてしまう。それ自体は使い方さえ誤らなければ問題はない。我々が知見を得る際に構築する新しい世界は、意識的なユメミの介入により可能になる。普段はその様な意識的な介入は必要ない、それは知見の精度を低め、最悪の場合は世界の崩壊を起こす。以前、あるユメミがふざけ半分で街の真ん中に象を出現させた事がある。何処からともなく現れた象を暴れ回り、それが切欠となり、その世界は崩壊した。被害は数十名のユメミの意識が行方不明となり、数億円もの予算が無に帰した。その危険がサヤカ君のいる『八月十五日革命の世界』に起こりつつある。この世界は『赤の世界』と並ぶ最古級の世界で常に貴重な知見を提供する事から政府は永久保存を決めている。本来ならばタチバナ君を呼ぶことなく我々でサヤカ君の問題を解決するのが筋なのだが、我々は何度か挑戦をして失敗をした。ユメミの生命維持装置を強引に切れば、連動して世界を破壊しかねない。また、サヤカ君のいる世界に侵入をして説得を試みた隊員達は行方不明だ。現状は救出隊員の生命も危険な状況と言える。多分、世界の秩序の崩壊と救助隊の行方不明は関係があるかも知れない。これが現状だ。そこで、タチバナ君に来て貰った」
「状況は理解出来ました。救出隊員の救助とサヤカの説得を致します」
「うむ。救出の為に、タチバナ君、ハルオ君、そしてキヨコ君の三名で『八月十五日革命の世界』に潜入して貰う。ユメミの世界への潜入及び、支援に関する技術的な作業はリンコ君が担当する」
リンコが軽く頷いた。
「はい、お任せ下さい。それに向こう側に行っても、私と連絡を取る事も出来ますから、ご安心を!」
「『八月十五日革命の世界』にはいつ潜入すれば良いですか?」
「今すぐに・・・と言いたい所だが、今回の作戦には危険が伴う。二日後に組織本部に来て欲しい」
「了解致しました。後・・・可能であればサヤカに会う事は出来ますか?」
「出来るが、余りおすすめはしない」
「お願い致します」
「ふむ。自分が納得しないと前に進めない性格の様だからな・・・リンコ君、タチバナ君を案内してあげてくれないか?」
「はい、分かりました!」
現状のサヤカを見ない方が良い事ぐらい頭では理解しているつもりだった。好奇心とは違う。上手く言語化する事が難しいが、兎に角、行かなくてはならない気がした。サヤカの眠る棺はユメミ達が眠る円形の部屋の脇にある別室にあった。リンコは外で待つと言うので、私は一人で部屋に入った。部屋は薄暗い。そこには数個の棺が置かれている。これらの棺は、リン・シユウの説明だと救助隊員達のものであろう。サヤカの棺からは水色の発光色を観じた。棺は上から見ると透明な合成樹脂で出来ており、中が確認出来る。他の救助隊員達も棺を通して見える。彼らは只々眠っているようにも、死んでいるようにも見える。私は一瞬目を閉じ、深く息を吸込んでからサヤカの眠る棺の中を見た。薄がりの中から見えたサヤカは瘦せ細り、顔色が青ざめている。幾つかの管が繋がれており、そこから栄養補給を受けている様だ。私の胸の奥の方に赤茶けた泥の様なものが流れる心地がした。平坦な日常を逃れ、真の充足を求めたいと欲し、行ける所まで行った結果がこれだ。が、まだ終わってはいない。サヤカは生きている。向こう側の世界で・・・