消えない過去 Ⅲ
剣人の耳元にささやき、俺ははじめて剣人から視線を離した。
俺の視線から解放されると、突然剣人の目に色が戻った。
「お、俺、さっきなんて言って……? すげぇ最低なこと、言った気が……」
それまでの言動を思い出してか、剣人の顔から血の気が引いた。
「綾瀬……俺」
それはいつもの人のよさそうな剣人だった。学級委員とバスケ部の部長を務める優等生で面倒見のいい剣人。
俺はぐっと拳を固めて、もう1度剣人の耳元に口を寄せた。俺の拳が殴りかかるようにでも見えたのか、山根がひっと悲鳴をあげる。
「汚れ役を被らせて……悪い」
剣人にしか聞こえないよう小声で言った。
剣人は何かを察したようだ。力なく「ハハ」と笑った。
「わかってる、自業自得だ……」
剣人の恋愛はたしかに欠点だらけだった。好きでもない相手と付き合うような薄情者だ。しかし剣人は一途だった。その一途さがゆえに苦しんでいた。ふられてもなお、同じひとりを思い続けて。そのせいで周りが見えなくなっていたのかもしれない。
『剣人くんは、ちょっと怖いな。男の子だし……。でもいい子だよ。それはきっとあなたの方が知ってるよね』
「約束、するよ。小笹には近づかない」
剣人もまた、俺にしか聞こえない声で言った。
俺はうなずいて、今度は田沼と山根のふたりに向いた。
田沼はやはり真っ赤な目で何かをこらえている。山根は相変わらず泣きはらした目で震えていた。
「……あのさ、綾瀬」
田沼が口を開いた。
「深和ちゃんを傷つけてるのは、ウチらなんだね?」
田沼はだいぶ話が飲み込めていると見えて、俺はふっと笑った。
「正確には、君たちの邪な感情。あの子は絶望する。不誠実な世の中全てに……」
「ヨコシマな……感情?」
「やがてあの子は人間を嫌い、何もかもを拒絶するよ。それはもちろん君たちのせいだけじゃない。だから俺のやっていることが最善の措置とは言えないけどね……でも、絶対に。これだけは言える」
ああ、時間がない。期限はもうすぐそこまで迫っている。
この教室の中でそれぞれに俺が傷つけた3人を見回す。
本当は、ここで言うべきじゃない。俺が言いたかったのはこの人たちにじゃない。ただ、俺には圧倒的に時間が足りなかった。
だから今ここで、俺が言いたかった、何より伝えたかった言葉を自分の中に刻む。
「深和は俺が守る。何があっても、何度だって、必ず守る。たとえ……世界が君を忘れても」
今度も伝えられなかった。届かなかった。でも、それでもいい。俺の証はきっと、彼女の中に残せたから。
偽りの俺にできる最後のことだった。
たとえ世界が君を忘れても。
君の居場所はちゃんとある。
俺がその場所をこじ開けにいくから。
君が安心して立っていられる場所を、安心して横になれる場所を、安心して笑顔を見せられる場所を。
俺がその場所を君に遺すから。
わっと山根が泣き崩れた。田沼は山根を優しく抱き寄せて、自分もこらえきれなくなったのか、その肩を震わせた。ふたりの涙は同胞の意味でお互いを癒しているように見えた。
剣人は一瞬俺と目を合わせ、そのあとすぐに教室を出ていった。
俺もまた、そこを抜け出した。教室を抜け、校舎を抜け、校門も抜けた。
俺には時間がない。
最後にまだもうひと仕事残っている。




