冷たく優しい掌
俺が目を覚ますと、そこは水の中でも神の御許でもなかった。
だが、俺はこの日の出会いを一生忘れないだろう。
何故ならば──神よりも尊い、俺だけの女神に出会ったのだから……
「お目覚めですか……?」
心の底から心配していると分かる優しい声音で、女性が俺に問い掛けてくる。
開けた瞳を何度か瞬きさせ、俺は声が掛けられた方へと視線だけを動かした。
まだ少し霞む視界に入ったその姿は、一見すると何処にでもいる若い村娘に見える。だが、髪はこの国では珍しい黒い艶のある髪をしていたのが印象的だった。
「あの……」
俺は一瞬だけ、後ろで纏められた黒髪とこちらを見つめる相手の顔に見惚れてしまい、言葉を失う。
「……大丈夫、ですか? 私の言葉、分かります……よね?」
すると問い掛けに答えない俺を、女性は何を勘違いしたのか。心配そうな顔でこちらへと顔を近付けると細い手を、俺の額に乗せてきた。
「熱は下がってるみたい……よかった……」
背筋がゾクリとするような冷たい掌に、俺は思わず訝しげな表情を浮かべてしまう。
女は俗に手足が冷たくなり易い、と聞いた事はあるが……こんなに冷たい手を持つ女など、今まで会った事が無い。
しかし、俺の疑問も直ぐに謎が解ける。俺が寝かされている場所の直ぐ脇には桶が置かれて、そこには湿った布が垂らしてあるのが、視界の端に映ったからだ。
「もしかして……ずっと、看病してくれたのか……?」
心配そうな表情から一転、女は俺の言葉を聞くなり花が咲いたような笑顔を浮かべた。何度も頷きながら、胸の前で手を叩いてみせる。
「よかったぁ。言葉が通じるんですね! 見た所、傭兵の方だったから……言葉が通じなかったらどうしよう、って思ってました! ほら、よく別の大陸の方が傭兵をなさってたりするじゃないですか!」
「……いや、質問の答えになっていないんだが……まぁいい。だが、俺を傭兵だと知って何故介抱などした?」
俺は痛む身体を起そうと床に手を付く。喉の奥から思わず呻きが漏れ、それを聞いた女が慌てて押し留めようとするが、構わず手で制して再度問い掛けた。
「アンタも……好きで俺みたいなヤツを介抱したわけじゃないんだろ?」
痛みを堪えながらも吐き捨てる様に放った俺の言葉を聞いて、女の表情は僅かに曇りを見せた。
この国において、傭兵の評判は夜盗よりマシと言ったところか……もしくは地方次第で、夜盗よりも嫌われていたりする。
傭兵という職業ではあるが、高い割合で食い詰め者が山賊に早代わりしたりもするのだ。だからこそ──山賊も夜盗も傭兵も、普通に真っ当な生活をしている村人にとってはそう変わらない印象を抱いている筈なのだ。
きっと目の前にいる女だって、俺が傭兵だと知っているのならばその様な印象を持っているに違いない。現に表情を曇らせ、口篭っている事が何よりの証拠だった。
「……その、とても言い難いんですけど……」
「何だ? 何か村で困りごとでもあって、恩を着せろと村長にでも言い付かっているのか?」
遠回しな機嫌伺いや、体裁で上塗りを固めた言葉などは学の無い俺にとって、聞いていて余り心地良いものでは無い。どうせならば、ハッキリと用件を言ってくれる方がまだ分かりやすい。
だからこそ……ほぼこれで間違い無いと思っている考えを、俺は自分の口から敢えてぶつける事にした。
夜盗や獣の類に襲われ、頭を悩ませている村などそう珍しくも無い。
これらの悩みは傭兵を雇えばある程度は解決が出来る問題でも、先立つモノ……つまり金がなければまず解決はしないからだ。
税として作物を収め、日々食う分と雪間節の間を辛うじて過ごせる分の蓄えしか残らない村ならば、問題が解決出来ず頭を抱えて時が過ぎていたとしても当然だろう。
もしもそんな問題を抱えた所に、傷を負った傭兵が運び込まれたらば……村人達は最低限でも介抱して恩を着せるだろう。そうなると、回復した後に安い賃金か滞在賃を帳消しにする形で悩みを解決してもらえるのだから、容易いものだ。
団にいた連中とは幾度かそういう話をしてきた事もあったが、俺達にとっても別段酷い話では無いし、嫌な印象も沸き上がらない。むしろ、そうするのが普通だとさえ思っていた。
俺が先に本題を告げたから、戸惑っているのだろう。
女は暫く眉を顰めて形の良い顔を曇らせたまま、続ける言葉を考えている様子だった。
髪と同じ黒い瞳を、何も無い宙へと何度か漂わせた後に──口篭りながらも恐る恐る声を出す。
「その……私が、拾ってきたので……」
「……は?」
女の口から飛び出した言葉は、完全に俺の意図を外れた。
思わず口から飛び出した声は間抜けなもので、最初は俺も自分の声かと疑う程のものだった。
「ですから……川で水汲みをしている時に流れてきた貴方を、私が拾ったので……拾い主として面倒をちゃんと見ないとって……」
「拾ったって……面倒って……俺は犬かよ?」
女が告げた余りの言い草に、身体の痛みも一瞬忘れて俺は即座に切り返す。だが、当の本人は気にしていないらしい。ただ憮然と言い放った俺の言葉から、怒っているのだと勘違いしたのか、少し俯いて上目遣いでこちらの様子を伺っていた。
仕方が無いので、怒っていないという素振りで肩を竦めてやるとようやく安心したらしい。元の穏やかな表情へと戻ると、今度はゆっくり……俺がこの村に辿りついた状況を、少しずつ教えてくれた。
俺が所属していた傭兵団がいたのは、ここから遥か遠くに見える山の中腹だった。
そこで山賊退治の依頼を果たすべく、山賊達のアジトへと向かっていたのだが……運悪く昨日振った雨の所為で発生した土砂崩れに遭遇し、俺達全員を飲み込んだのだ。
俺はたまたま運良く土砂に紛れた木に捕まって川まで無事に辿りつけたのだが、それすらも出来なかった他の仲間達が皆土砂に飲まれてしまった光景が目に焼き付いている。
俺がハッキリ記憶として覚えているのは、ここまでだった。
後は雪間節ですら轟々と流れる、冷たい濁流の感触しか覚えていない。
そして……どういう経緯を辿ってか、俺はこの村近くまで流されながらも生きて辿り着けたらしい。さらには辛うじて息がある俺が上流から流されてきたところを、たまたま運良くその時に水汲みをしていた目の前の女性──フォルトナに“拾われた”との事だった。
偶然が重なり合った幸運に命を救われ、本当ならば神にでも感謝しなければいけないのだろう。だが、その話を聞いた所で……俺は、素直には喜べなかった。
「そうか……俺だけ、なんだな? 流れてきたのは?」
「ええ……私が知っている限りは、ヴァルだけよ」
再度「俺以外の仲間は流れてこなかったんだな?」と確認を取るも、フォルトナは悲しそうに俯いて首を振ると俺の言葉を肯定する。
長い間傭兵という稼業についていると、目の前で何人もの仲間が命を断ちこの世と決別を告げる瞬間なんて嫌という程目に入れてきた。例えそれが殺られたとしても、不慮の天災だとしても昨日まで酒を酌み交わしていた連中と二度と会えなくなるのは余りいい気分では無い。
かといって感傷に浸るには、既に俺は歳を取り過ぎていた。
だからこそ──フォルトナが放った言葉を聞いた次の瞬間には、思考に引っ掛かった彼女の言葉について即座に異議を唱えてしまっていた。
「おい……助けて貰った俺が言うのも何だが……ヴァルとか愛称をいきなりつけるのは、人としてどうなんだ? まぁ……感謝はしているし、別に構わんが……」
「……あら、ごめんなさい」
俺の口から飛び出した非難の言葉を聞いて、フォルトナは何度か大きな目をパチパチとさせる。この女は暫く意味を考えるのに時間を要するらしく、口を何度か小さく動かして俺には聞こえない程の声で何かを呟いている。
やがて納得したのかフォルトナは明るい笑顔を浮かべ、共に手を叩いた。
「ヴァルが気に食わないなら……ヴァって愛称はどうかしら?」
「それは愛称でも何でもなく、声を出してるだけだろっ!?」
明るい笑顔で放たれた提案を、条件反射ともいえる速さで俺は即座に否定する。
どうやら、彼女が考えていたのは『人が勝手に愛称を付ける行為は失礼だ』という常識を咀嚼して理解していた訳では無く『ヴァルという自分が付けた愛称を、俺が気に食わないから否定した』という風に捉えていたのだ。
熱が下がったらしい俺の頭が、今度は熱を通り越して痛みを伴う錯覚に襲われる。
言葉は通じるも、俺の意志が全く伝わらない命の恩人は、俺の言葉を聞いて形のいい唇を尖らせながらも拗ねた素振りを見せていた。
「好きに呼んでくれって、さっき言ったくせに……」
「……好きに呼んでくれ、ってのは相手の常識を信じた上で言ったもんで……何処の世界に一文字発音で呼ぶ奴がいるんだよ!」
「ヴァって案外、細かい事を気にするのねぇ?」
「……ヴァルでいい」
噛み合わない会話にも、限度というものがある。
こめかみに鈍い痛みが走り、俺は思わずそこを押さえてしまっていた。
目の前にいる女に対し、反論する事の無意味さをようやく思い知った上での行動だったのだが、どうやらフォルトナにはそう見えなかったらしい。
慌てて桶に掛かった布を取ると手ごと水に漬け、絞った布を俺の額にそっと当ててきた。
「……やっぱりまだ、無理して起きちゃ駄目よ」
「いや、これは……」
心配が混じった声色のフォルトナに対し、何故安心させようとしたのかは……俺自身にもよく分からない。大丈夫だと言う前に、俺は咄嗟に布を持つフォルトナの細い手を掴んでいた。
水に触れた直後の冷たいフォルトナの手に、俺は体温を奪われてゆく感触を味わう。言うべき言葉を頭の中で選んでいるうちに、先に声を出したのはフォルトナの方だった。
「……手、随分と暖かいのね? まだ熱でもあるの?」
「いや……単に、お前の手が水を触って冷えてるだけだ」
「……あ、そっか」
フォルトナの口から飛び出した言葉は、またもや微妙にズレを感じたものであった。
咄嗟に言い返すも言葉の内に含まれた……俺を心配しての気持ちを感じ取ると、それ以上は何も言えない。
助けて貰った手前もあるし、何より──不思議と目の前にいるこの女性に対して俺は極力、横暴な態度は避けたいとも思っていた。
目の前で微笑むフォルトナを見て“変な女だ”と思ったのが──将来妻となる女性に抱いた、俺の第一印象だった。