33 小太郎と母
八月も終りに近づいたある日――その日は、昼間の事務所にも夜の『風姿花伝』にも誰一人として訪ねてくる者がなく退屈な一日だった。
ストロングジャパンの試合や遠征以外の日には必ず顔を見せる小太郎も来なかった。昨日の午前中の道場では威勢のいい声で他の練習生の誰よりもトレーニングに打ち込んでいた姿を目にしたが、それきりだった。小太郎はどうしたんだ。心配になった。時計を見ると、午後十一時を過ぎていた。
つまらねえな、寝るか。しかたなく『風姿花伝』の看板をしまって事務所の明かりを消そうとしたとき、ふらりと小太郎がやってきた。かなり飲んでいるような足取りだった。目つきもすわっていた。
「小太郎……」
俺は、小太郎の姿を見て自然と顔がほころんだ。
「だいぶ、やってきたようだな。外で飲むなんて珍しいな」
事務所のパイプ椅子に無理やり座らせてコップ水を飲ませた。
「ふー」
小太郎は一気に飲み干すと大きく息を吐いてから、険しい顔つきで俺を睨んだ。
「母ちゃんに会ってきたよ」
「えっ?」
俺は耳を疑って小太郎に聞き返した。
「か、母ちゃんって……?」
「おれの母ちゃん。名谷結子だよ。新さん、知ってたんだろ?」
「あ、ああ……お母さんと会ったのか?」
「うん、名古屋まで会いに行った。贋作・与作として新さんと闘った時、母ちゃん、会場に来てたんだってな」
「あ、ああ……」返事に困った。
小太郎は俺から目を離すと、初めて母親のことを話し始めた。
「母ちゃんは、与作の大ファンだったんだ。名古屋周辺でビッグジャパンの試合がある時は、必ず俺を連れて与作の試合を見に行ってたのを覚えてる。家に帰って与作の真似をすると、母ちゃんはすごく喜んでくれて――そのうれしそうな母ちゃんの顔を見たくて、おれは与作の真似をした。与作のプロレスにはまったんだ。でも、だんだん母ちゃんの姿を見るのが嫌になってきてね……夜の仕事だよ。朝方、自宅まで男の車で帰ってきたり、おれが柔道の朝練でうちを出るときに、いつも酒臭かったり――食卓に置いてあるのは飯のお金だけ。すれ違いの生活だよ。中学卒業したら、おれが働いて稼ぐから夜の仕事だけはやめてくれって言ったんだけど、母ちゃんは黙ってるだけだった」
小太郎が暗く下を向いた。
「お母さんに会いに行って、お母さん喜んでただろ」
俺は明るく言って、小太郎の様子をうかがっていた。
「…………」
小太郎はうつむいたまま何も言わない。
「でも、どうして今になって、お母さんに会いに行ったんだ?」
小太郎が顔を上げた。泣きそうな顔だった。
「母ちゃん、入院したんだ」
「えっ、入院?」
「ああ、スナックで接客してる時に突然体調が悪くなったみたいなんだ。軽い脳梗塞だって。幸いにも後遺症はほとんど残らないようなんだけど」
「そうか、それは不幸中の幸いだったな。でも、どうしてお母さんが入院したと知ったんだ?」
「昨日、新さんが昼飯に出てる時に、おれが電話番をしていた事務所に病院から電話があったんだ。母ちゃんの財布の中に、ここの住所と電話番号が書いてある紙が入っていたみたいだ」
寛徳寺で結子さんと会った時に俺が渡したものだ。役に立ってよかった。
「それで、お母さんとは話ができたのか?」
「ああ、久しぶりに話したよ。そして、全部聞いたよ」
「……」
俺は、これまで小太郎に真実を隠してきた後ろめたさから視線を下げた。小太郎が突然わめきだした。
「めっちゃくちゃ、驚いたわ! おれが新さんや品子さんと同じ与作さんの子どもだったなんて……そんなのありえないっつうの!」
小太郎が事実を打ち消したいかのように激しく頭を振った。俺は何も言えずに小太郎を見ているだけだった。
「……品子さんは、このこと知ってるのかい?」
少し気持ちを落ち着かせてから小太郎が言った。
「いや、俺と小太郎のお母さん、そして俺が原因不明の病気となった時にすべてを打ち明けた辰波さん以外は誰も知らないはずだ」
「ああ、どうしたらいいんだ。品子さんと腹違いの姉弟だったなんて。腹違いの姉弟ってことは、け、結婚を前提としたお付き合いができないんだよね?」
真面目な顔で訊いてくる。小太郎が一番ショックだったのは結局そこのところなのか。
「当たり前だろ!」
俺は思わず小太郎の頭を小突いた。小太郎が笑った。
「ショックだったけど、でもホントは少しホッとしたんだ。与作さんの子どもで、ゼアミとヒンコと兄弟だったなんて、すごい誇らしいよ」
ここにたどり着くまでに小太郎なりに随分と葛藤してきたようだった。小太郎は、もう大丈夫だと思った。朝になったら品子にすべてを話そう。俺は冷蔵庫から缶ビールを二本持ってきて、一本を小太郎に渡した。
「兄弟の盃だ。小太郎、仲良くやろうぜ」
勢いよく乾杯した。俺は一気に飲み干すと、心からの安堵感に「プハー」と大きな息をもらした。
「でも、今さらお兄さんなんて呼べないな。これまで通り、新さんでいいかい」
「ああ、もちろんさ」
俺が日本に帰ってきてから丸二年が過ぎたが、なんだか少しずつ身の回りのストーリーがまとまりつつあるような気がする。
小太郎が鼻唄交じりで合宿所に帰った後、俺はいつの間にかゼアミの部屋に立っていた。
後は、この身体か。俺は、ゼアミの部屋の一番奥の壁に飾ってあった、般若の不思議な面を見つめた。
俺のこの身体はいったいどうなっちまうんだろうか? そして俺のプロレスは? 無意識のうちに般若の面に手が伸びていた。これを付けて、とにかく不安をかき消したかったんだ。
…………?
ふと、蒸し暑さで目が覚めた。
いつの間にかゼアミの部屋で寝ていたようだ。顔の近くに、あの般若の面が転がっていた。俺はその面を壁にかけてゼアミの部屋を出た。
すでに昼の十二時を回っていた。大寝坊だ。日曜日で事務所が休みだからよかったが。台所で顔を洗い歯磨きを済ませて事務所に入ると、俺の机に置きっぱなしにしてあった携帯電話の着信通知が点滅していた。品子からだった。
電話をかける。
「馬鹿ヤロー、何やってんだ! 何度かけても出やがらねえから、どうにかなっちまったんじゃねえかと心配してたんだぞ!」
いきなり品子の怒鳴り声が聞こえてきた。
「わ、悪かったな。小太郎と兄弟の盃を交わしていて遅くなっちまってな」
「きょ、兄弟の盃って、なんだそりゃ?」
「うん。実はな――」
俺は品子に、民子を亡くした征三が巡業先の名古屋で名谷結子というスナック勤めの女性と一夜限りの契りを結んだこと、その後に結子は征三の子を身ごもって男の子を生んだこと、その男の子が小太郎で俺らとは腹違いの兄弟であること、小太郎のお母さんが名古屋の病院に入院していることなど――すべて話した。
「そうか……。母ちゃんを亡くして親父も寂しかったんだな。それにしても、あの小太郎の奴が腹違いの兄弟だったなんて。なんか、こう、こっぱずかしくていけねえな」
品子はまんざらでもないような口ぶりだった。以外にもあっさりと真実を受け入れてくれたようだ。




