31 エルボー光沢さん
八月六日(土)――。
蝉時雨のけたたましい東京武道館で、俺は素顔の三刀屋新吾として、エルボー光沢さんとの一騎打ちを目前に、控室の壁の前に立っていた。右手で、あのおふくろの般若の面を顔につけて精神統一をしていた。
おふくろと妹の身体の自由を奪ったかもしれない般若の面だったが、俺はこれを使わずにいられなかった。今日の対戦相手は日本プロレス界のトップを突っ走っている、あのエルボー光沢さんだ。緊張するなという方が無理だ。
般若の面の効果は抜群だった。体中の力みがすっと消えていくのが実感できた。俺は般若の面を外して小太郎に手渡すと、椅子に座って黒いリングシューズの紐を結び直した。
東京武道館に『新吾』のテーマが流れ始めた。能で使用する横笛のリズムだけで情熱とスピード感を表現したお気に入りの入場曲だ。
「新さん。リラックス、リラックス。光沢さんとの試合、とことん楽しんできな」
小太郎が背中で叫んだ。
「よっしゃ!」
俺は黒のショートタイツを両手で叩いて気合を入れてから、リングに向かうべく立ち上がろうとした。
「……?」
しかし、椅子から立ち上がれなかった。足腰に力を入れようとしても勝手にぶるぶると震えるだけで自由に動かすことができなかった。
後ろの小太郎がすぐに異常に気付いた。
「新さん、どうしたんだ?」
「う、動かないんだ。足腰に、力が入らない……」
「ええっ、う、動かないって?」
俺は震えた両手でパニクッタ頭を抱えたまま、どうすることもできなくなった。周囲で小太郎があたふたとしているのを感じた。
そこに、品子とユンボ杉山が入ってきたのが見えた。
「あ、兄貴、どうした?」
俺の異常な状態を見るなり、品子の顔が青ざめたのがわかった。
「あ、兄貴、まさか……」
「わ、わからん。手足が震えて足腰が立たないんだ。このままでは試合ができない。小太郎、すぐに光沢さんのところに行って、俺の状態を伝えてくれ」
「わ、わかったよ」
小太郎は、あたふたしながらも必死に控室を飛び出していった。
ユンボと品子が、俺の震えっぱなしの足や手を一生懸命マッサージしてくれたが、思うようにはならなかった。
『新吾』のテーマ曲がむなしく会場内に繰り返されているのが胸に突き刺さった。
やがて――慌ただしく控室に戻った小太郎は、試合会場に常に持ち込んでいるマイバッグから黒のショートタイツとロングシューズを取り出すと、品子を意識するかのように、隅にあった衝立の陰で、あっという間に贋作・新吾に変身して現れた。
「光沢社長から、新さんが無理なようだったら、贋作・新吾で行けと言われたんだ。悪いけど用意させてもらうよ」
俺は何も言えなかった。品子が小太郎に涙ながらに頭を下げた。
「小太郎、頼むよ。兄貴の分も暴れてきてくれ」
品子に頼りにされ、小太郎は、がぜん張り切った。
「わたしが小太郎のセコンドにつくよ」
ユンボが、パイプ椅子に座ってシューズの紐を結んでいる小太郎の頭をはたいた。
会場からは依然として、『新吾』の曲が繰り返し流れているのが聞こえていた。観客の異様なざわめきが、だんだんと膨れ上がってくるようだった。
コスチュームの準備ができた小太郎が「よしっ!」と気合を入れて、贋作・新吾として控室を出て行った。ユンボが私服のまま小太郎の後に続いた。
悔しくて情けないが、俺は、贋作・新吾の小太郎にすべてを任せるしかなかった。
すぐに会場からは、贋作・新吾の入場に大きなどよめきが起こっているのが聞こえてきた。
控室は、俺と品子の二人きりになった。
俺は品子の顔を見た。品子は笑っていたが、口元が少し痙攣しているのが見えた。
「なんも言わなくていいよ。まだ、あたいと同じだなんてわからないんだから。必ず病院で診てもらえよ。母ちゃんを恨むんじゃないぞ。母ちゃんだって犠牲者なんだからな」
品子はすでに達観していた。妹の存在がとてつもなく大きく、そして頼もしく感じられた。
観客のどよめきがひと段落すると、光沢さんの入場テーマ曲が流れ出して大声援に変わっていくのがわかった。
品子の言葉に心が軽くなった俺は、どうにか震えの治まった両足を踏み出して、よろよろと入場ゲートまで歩いていくことができた。扉を少し開けて会場内を覗くと、光沢さんと贋作・新吾の試合が始まるところだった。
カーン!
ゴングが鳴った。
光沢さんと贋作・新吾の試合は、終始、光沢さんがリードしていた。
いつもより試合の組み立てがぎこちない贋作・新吾を引き立てながら、観客にとっては両者一進一退の攻防戦と思わせて試合を組み立てていた光沢さんのうまさが光っていた。
考えてみれば贋作・新吾といっても、素顔の三刀屋新吾はデビューしてからまだ数試合しか行なっておらず、そのプロレススタイルはいまだ確立されていなかった。真似をしろといっても無理な相談だったろう。そんな小太郎の心境を、光沢さんは十分にわかっているかのようなファイトだった。
終盤になって、贋作・新吾の技を十分に引き出した頃合いを見て、光沢さんの猛攻が始まった。一発、二発、三発、四発、五発と速射砲のエルボーをさく裂させると、最後は一回転してのローリングエルボーを小太郎の頬に叩き込んだ。
贋作・新吾は仰向けにぶっ倒れた。ダウンした贋作・新吾は、なぜか笑っているようにも見えた。
光沢さんがトップロープに駆け上って、贋作・新吾にフライングボディプレスを敢行した。
贋作・新吾は、カウント二・九で肩を上げる。観客が興奮して床を踏み鳴らす重低音ストンピングが会場全体に響き渡った。
光沢さんは贋作・新吾を無理やり引き起こすと、そのグロッキーな顔面に渾身のエルボーを数発叩き込んでから、必殺のタイガードライバーで贋作・新吾をマットに沈めた。
突然の対戦相手変更にもファンからのブーイングはいっさいなかった。たとえ対戦相手が誰であろうと、光沢さんのパーフェクトなプロレスにブーイングは皆無だった。
セコンドのユンボ杉山が私服姿のまま、リング上で大の字に倒れている贋作・新吾に駈け寄ったのが見えた。
俺はファンに見つからないように入場扉を閉めると、品子の待つ控室に戻った。いつもと変わらない足取りに戻っていた。
パイプ椅子にどかっと腰を下ろした。すべてが終った。俺は大事な試合に穴をあけた。光沢さんの期待に応えることができなかった。プロレスラー失格だ。
品子が後ろから優しく肩に手を置いてくれたのがわかった。うれしかった。
やがて、小太郎がユンボの肩に支えられながら控室に戻ってきた。荒い息の中、
「光沢さんのエルボー、すげーきいたよ」
満足で、はち切れそうな顔をしていた。そんな小太郎がうらやましかった。
俺は小太郎を連れて、お詫びのためにすぐに光沢さんの控室を訪ねた。光沢さんは二本の指でワイパーのように額の汗を拭きとってから、
「今日はお疲れ。いいんだよ。プロレスラーがリングに立てないなんてのはよっぽどのことなんだから。何も言わなくてもわかってるよ。体調戻してから、また、お願いしますよ」
少しかすれた声で力強く俺の肩を叩いてくれた。小太郎には、
「お陰でダイヤモンドの原石を見つけたよ。久しぶりに気持ちいいエルボーを決めることができたかな。何発もヒットしちゃって悪かったね。十九歳だってね。期待してるよ。これからもナビのリングに上がってほしいな。いや、いっそストロングジャパンや匠を辞めてうちに来ないか? とことん歓迎するよ」
小太郎が照れくさそうに後ろ頭をかいた。
俺とは学年がたった一年先輩の光沢さんだったが、人間としての器は、はるかに上だった。




