おかしなふたり
曲が終わり、瀧本の手が止まる。
「お、そういや風呂入れるな。先に入ってこいよ」
瀧本はギターを壁に立てかけ、立ち上がった。たたんである服の山からグレーのスウェットを抜き、奏真に手渡す。
「これ貸してやる」
「どうも」
それを受け取り立ち上がった奏真だったが、ふと思いついた。
一年生の時に妄想し、願い、叶わないと思っていたこと。今、お願いしてみたらどうなるだろう?
奏真は振り返った。
「あの、お願いがあるんです」
「ん?」
「ギター、俺も弾けるようになりたい。教えてもらえますか?」
「お、おお。いいぞ。風呂上がったら教えてやるよ」
「うん!」
奏真は喜びのあまり叫びたくなった。しかしグッと我慢して風呂へ向かう。
今日は夢が叶う特別な日なのかもしれない。
奏真のテンションはグングンと上がり、その勢いのまま豪速で体と頭をワシワシと洗った。長湯などしていられないとばかりに、チャップンと身体があったまる程度にお湯に浸り、ササッと出る。
手渡されたスウェットは言わずと知れた2Lサイズ。上下ともダボダボだった。しかし、腰は紐で調節すればいい、袖も裾もキュッとゴムでしまっているから問題はない。頭をバサバサと適当に拭き、そのままタオルを首にかけ奏真はウキウキと部屋へ戻った。
「お風呂ご馳走様です」
瀧本はドアを開けた奏真を見るなり驚いた顔をした。
「早くね? ちゃんとあったまったのかよ!」
「洗いましたよ? ホラ」
瀧本の真ん前にペタンと尻を落とし座ると、頭をズイッと突き出す。そのまま少し顔を上げ瀧本を見上げた。
「ね?」
瀧本は顔を強張らせ、奏真の首にかけてあるタオルを勢いよく取った。それを奏真の顔に被せる。
「ばっ、バーカ。あったまったのか? って聞いてんの!」
頭の左右をガッ! と強い指圧で掴まれ、そのままガシガシと擦られる。指が頭蓋骨にめり込みそうな勢いだ。あまりの強さに奏真は目をギュッと瞑った。
「うわうあう。痛い痛い! ちゃんと浸かりましたってば!」
顔面をタオルで覆われ、頭を揺さぶられながら。見えない状態で両手を持ち上げ、手探りで瀧本の頬を挟む。手がポカポカとあたたかいことを教えようとしたのだ。
「ね?」
ビクッと瀧本の動きが止まったかと思うと、挟んだはずの顔がバッ! とどこかへ行ってしまう。奏真は両手の間にあったはずの瀧本を空中でちょっと探していると、タオルがパサリと落ちた。
見えた瀧本の姿は一メートルほど遠ざかり、背中を壁にくっつけていた。
「瀧本さん?」
奏真が首を傾げると、瀧本が床に落ちたタオルを取り上げた。そのタオルで己の口を塞ぎ、なにかを喚くように頭を左右に振る。瀧本は口からタオルを離すと、ギャグにいまいちピンと来ていない奏真の手前恥ずかしくなったのか、顔を赤くして今度はビシッと言った。
「いいか? ちゃんと髪の毛乾かせよ! 湯冷めしちゃうからな!」
瀧本は立ち上がり、奏真の頭に再びタオルを被せ、そそくさと風呂場へ行ってしまった。
挙動不審な瀧本に奏真はやっぱり首を傾げ、言われた通り髪をガシガシと拭いた。
タオルの間から布団の上のギターがチラチラと目に入る。
いいなぁ。カッコいいなぁ。触ってみたい……。
上半身が誘われるように傾いていく。
奏真はその体を引き留めた。
瀧本さんはお風呂から戻ってくれば教えてくれると言った。そしたら触らせてもらえる。勝手に触って機嫌を損ねたら、触らせてもらえなくなるかもしれないぞ! 我慢だ。我慢だ奏真!
自分に言い聞かせ、頭を拭く。
早く戻ってこないかなぁ……。
奏真は込み上げる欲望を必死に堪え、頭に被ったタオルの両端をギュッと握り押し付けるように左右に引っ張った。それでも意識はギターに向きっぱなしだ。
……ちょっとだけなら……指先で、弦に触れるとかじゃなくって、ちょっと……突っつくだけ……。突っついてすぐ戻ったらわかんないよきっと。
黒い欲望が背中をズイズイと押すたび、奏真の白い良心は徐々に押しのけられていく。
ちょっとだけなら。
唇を軽く噛み、猫のように四つん這いになった奏真が、ギターへとジリジリ近づき手を伸ばす。
「は〜。あちぃ~」
デカイ声と共に勢いよくドアが開く。奏真は四つん這いの姿勢のままビクッと跳ねた。尻を瀧本へ向けた姿勢のままソロリと振り返る。
「あ……」
風呂から出てきた瀧本は黒いジャージのズボンだけ履き、首からタオルを掛けていたが、奏真の姿を見た途端、手のひらで口をバッ! と塞ぎ、そのまま部屋に入らず身体を引っ込めてしまった。
あっちゃ〜……。
奏真は伸ばした手を引っ込め、指先で頭をポリポリと掻いた。部屋の外から、引っ繰り返った瀧本の声がする。
「な、なにやってんのぉ!?」
「あのぉ……ごめんなさい……」
奏真はとりあえず謝り、その場にそのままペタンと腰を下ろした。
「待ってたんだけど、我慢できなくって……その、早く……えっと……」
なんて言ったらいいか思案してると、顔を赤くした瀧本が部屋にズイと入ってきた。
奏真の前にあぐらをかくと、チラと奏真を見て恥ずかしそうに目を伏せる。困ったような表情で、手で口を塞いでいる。
そんな瀧本をジーッと見ていると、口を覆っていた手がソロソロと下りる。
「……そんなに、好き?」
「……はぃ……」
瀧本は怒っているようにも見えないが、妙な態度だ。困っているように見える。やっぱり、留守中に大事なギターを触ろうとしたから機嫌を損ねたのかもしれないと思った。
瀧本さんは優しいから、悪さしようとした俺にどうしたもんかと困ってるんだ。ちゃんと待っていればよかった。
後悔しながら落としていた顔をおずおずと上げ、瀧本の様子を伺う。
「……こういうこと、あんまり慣れてないっつーか……でも、なんて言うか……気持ちはスゲー嬉しいと思ってる」
「……はぁ」
「それに……」
「それに?」
「可愛いと、思ってるよ。なんて言ったらいいのかな……ほっとけないつーか……」
「……どうも……」
瀧本の話はどうにも要点が見えない。どう叱ったらいいのか迷っているのだろうか? やっぱり、ギターを教えてとおねだりするのは早かったのかもしれないと奏真の元気はどんどん萎んでいく。落ち込んでいると、瀧本が髪をガシガシとタオルで拭きながら、ギターを掴んだ。
「もう、恥ずかしいからおしまい!」
「へ?」
「じゃ、やるかっ! ギター」
まさかの言葉にパァッと奏真の目の前が明るくなる。
「はい!」
奏真は両手を床につき、正座のままズイズイと瀧本に寄った。そして、嬉しい気持ちを伝えるため、ありったけの笑顔で言った。
「よかった! 機嫌損ねちゃってもう、できないかと思っちゃった」
「うっ……ま、まずはだな、……とりあえず、ギター弾く前に、手ぇ見せてみろ」
「はい」
両手をパーに開き瀧本へ差し出す。
「うん。いいな。爪が長いとダメだから。いつも短くしとけよ」
「ういっす」
「あとは〜、弦のチューニングするところ、ここがヘッドね? で、ここがネック、で、ここがボディ。人間の身体と同じだ」
分かりやすい説明に、奏真はふんふんと瀧本の言葉に真剣に頷いた。
「で、一番太くて自分寄りの弦が六弦、一番細い弦が一弦な? とりあえず、指で弦を押さえないで、上から順番に弾いてみろ」
瀧本はそう言うとギターを奏真の前に出してくれた。
奏真の心拍が緊張と喜びで速まる。チョンと触れるだけなんて思っていたギターが今、奏真の前に堂々と差し出されている。触れるどころか弾いていいと言う。こんなにすぐに触れるとも思ってもなかった奏真の手が震える。緊張で竦む腕を伸ばしギターを受け取ると、ゾクゾクと感動が込み上げる。
嬉しくてたまらない!
ニヤける頬を誤魔化すように唇を軽く噛み、ギターを構えた。思ったより重みを感じる。言われた通り、左手で弦を押さえずに、右の親指で弦を上から順番に落としていった。音の振動を直接感じる。音が奏真の中で響いた。
「なんとなく和音になってるだろ?」
うんうんと、興奮のままに頷く。
「チューニングは自分のギターを買った時に教えてやるよ。まず、Cコードな。Cコードは押さえる場所が決まってんだよ……」
瀧本は親切かつ丁寧に初心者の奏真へギターの基本を教えた。時間はあっという間に過ぎていく。「もう、遅いから今日は終わり」と言われ時計を見れば、すでに二時間も経っている。
「隣から苦情がくるといけないもんね」と、奏真は惜しみながらギターを瀧本へ返した。瀧本がギターを布で拭きながら言う。
「ギターは汚れやすいんだよ。手で触るから指紋や皮脂もベタベタつく。木製だからシミにもなりやすい。だからメンテも大事なんだぞ」
「はい」
瀧本が掃除する手の動きから、ギターを大事にしていることが伝わってくる。その様子を見て、いつかは自分のギターを持つんだと奏真は決意した。
瀧本が押入れにギターをしまい、テレビを点ける。二人でコタツに潜り、録画してあるお笑い番組を流しケラケラと笑っていたが、気がつくと奏真は目を閉じていた。
「おい。寝るなら布団入れよ」
瀧本の声に、ピクッと目を覚ます。手の甲で目をぐしぐしと擦った。時計の針は十二時半を指している。まだまだ全然早いのに、ダッシュで街中を走り回ったり、ギターに興奮したりとアドレナリンをたくさん放出したせいか、眠くてしかたない。
「あい……お先です。おやすみなさい」
座ったまま頭を下げ、奏真はもぞもぞコタツを抜け出した。
「おう、おやすみ」
遠くでぼんやり聞こえる瀧本の声に頷きながら、フラフラと這いつくばり布団へ潜った。
掛け布団にすっぽり全身くるまれば呆気なく瞼が落ちる。なにも憂うこともなく、穏やかな気持ちのまま奏真の意識は遠のいていった。




