あの日
野原直樹は小学校の頃からの腐れ縁であり、親友だった。いつも一緒にいるのが当たり前の。しかし今は直樹の隣には例の彼女がいた。一緒に登校してきたようだ。
『例の』を説明するには、奏真の停学が決まった日に遡らないといけない。
その日の放課後、奏真と直樹が教室を出ようとした時だった。奏真は背後から生活指導の教師に声をかけられ、部活へ向かう直樹に「あとで」と手を振った。
教師の後をついて歩いている時も、奏真はなにか手伝いでもさせられるのか? くらいにしか考えていなかった。呑気に構え教師と一緒に生徒指導室へ入る。教師はパイプ椅子を引き、コの字に置いてある長テーブルに両肘を突くと、奏真を真っ直ぐに見て淡々と言った。
「水瀬、申し訳ないが持ち物検査をする。鞄開けてくれ」
「え……、あぁ。はい」
唐突な荷物検査が始まった。
生徒指導の日は第一月曜日と決まっている。たまにホームルームの時などに抜き打ちで持ち物検査が行われることも確かにあった。しかし、こんな持ち物検査は初めてだった。
なにごとかと不穏に感じながら奏真は鞄を開け、素直に中を見せた。
教師は中を覗き込み、教科書やらノートをゴソゴソと寄せ、中を探る。大きな内ポケットに手を突っ込み、その手がピタリと止まった。鞄からヌッと出てきた手には全く見覚えのないタバコの箱が握られていた。
「…………」
奏真は絶句してそれを凝視した。言葉が出るはずもない。
目の前で行われた検査だった。小細工もなにもない検査の結果。疑う余地のない現実。ただ『なんで?』という言葉が奏真の頭の中をグルグル回っていた。
「うーん。水瀬、親御さんに連絡してくれるか。モノ出ちゃったからな。停学だ」
「……意味、わからないんですけど」
呆然とする奏真に教師は「ふーっ」とため息を漏らし、渋い表情で言った。
「目撃したって言ってるヤツもいるんだよ。お前が吸ってるのを。三日間ちゃんと反省して、これまでの在り方を振り返ったらどうだ? お母さんが泣くぞ?」
「ありかたって……、それ、俺のじゃありません。触ったこともない」
散々、目撃者は誰なのか。指紋をとってくれ。と奏真は弁明し抵抗した。しかし教師は呆れるばかりでなにを言っても奏真の言葉を信じることはなかった。
重苦しい沈黙が続き、業を煮やした教師は「それなら先生から親御さんに電話するからな」と言った。
どうにもならない。奏真は悟り、スーパーで働く母親に教師の前で電話をかけた。
すぐにパートの制服のままの姿で奏真の母親が駆けつけた。
もちろん奏真は母にも「違う」と訴えた。全然わからない。自分の物ではないと。しかし母親は奏真を見ることもなく、足元ばかりを見つめ教師へ頭を下げ続けた。母親に奏真の言葉を聞く余裕は無かった。
結局、停学処分はその場で下された。
母親は奏真の背中を撫ではしたが、やはり顔を見るどころか口すらきかなかった。
なんで、なんで、なんで────。
タバコに、教師に、母親に。
奏真は孤独の中、音のない叫びを上げ続けた。
生徒指導室を出ると、部活上がりの直樹が帰る準備をして奏真を待っていた。「よお」と明るい表情で手を上げる。そのうしろには女子がいた。直樹と同じバスケ部の同級生で、いつも直樹のことを見ていたし、奏真がいる時も直樹に何度か話しかけてきていた。
奏真は俯いたまま、直樹へ「三日間の停学だって」とボソリと残し、二人の横を母親と共に通り抜けた。
あの時は、たまたま直樹にくっついているだけだと特に気にしなかった。しかし違っていた。奏真はその晩、見てしまったのだ。
無言のまま母親とトボトボと家へ歩いて帰った。幸いアパートには島田の姿はない。二人きりで誰の目もないのだから今度こそちゃんと母親に話を聞いてもらおうと思った。
奏真はダイニングテーブルの椅子に座って「母ちゃん」と呼びかけた。
母親は一度頷いただけで、服を着替えに寝室へ入った。奏真はそれもじっと待った。落ち着いて話さなきゃ意味がないと思っていたからだ。
静かな部屋で独り母を待つ。
やっと寝室から出てきた母親はそのまま流し台へ向かい、島田が残した食器を洗い始めた。
「ねぇ、母ちゃん」
狭く、静かなアパートの一室。奏真の声は聞こえてるはずだが、母親は振り返らず手も止めなかった。奏真はカッとなり、思わず拳をテーブルにダン! と叩きつけた。ビクッと揺れる母の背中。奏真はハッとして、慌てて自分の気を静めた。驚かせてしまったことを後悔しながら、なるべく静かに語りかけるように母親へ訴えた。
「ねぇ、話を聞いて? 俺、やってないよ」
やっと手を止め、少しだけ横顔を見せた母親に、わずかな安堵が奏真の心に灯る。しかし母親から出たのは拒絶の言葉だった。
「わかったから……。ご飯にしましょ?」
この話はもう終わりにしてくれ。そういうことだった。
信じてくれない。
奏真は唇をギリッと噛み締めた。行き場のない感情が今度は溢れ出さないよう、自らの拳にグッと閉じ込め握り締めた。
こうやって、握り潰して蒸発しちゃえばいい。俺なんて────。
奏真はひたすらそう念じた。
しばらくして、外から音程のずれた大きな歌声が聞こえてきた。
アイツの声だ。
奏真は立ち上がり自室へ入ると、制服を脱ぎ捨てジーパンとトレーナーに着替えた。カバンの中の財布を掴み、上着を手にアパートを出る。母親にはなにも言わなかったし、どこへ行くのと聞かれもしなかった。
階段に差し掛かると、ちょうど島田が登って来るところだった。奏真は俯き、早足で階段を降りようとしたが、当然ながら島田に気付かれた。
島田はわざわざ足を止めスペースを開けると「お、夜遊びか? 非行の一歩だな」とニヤニヤ笑いながら言った。
どこまでも嫌味なやつ。
奏真がムシャクシャしながら向かったのは直樹の家だった。
電話しようとポケットに手を突っ込み、財布しか持ってないことに気づく。しかし、流石に帰宅しているだろうと考え、家まで行ってみた。
小学生の頃からの通い慣れた道。角を曲がり、奏真は足を止めた。
直樹の家の前には、自転車を持った直樹と、放課後一緒にいたバスケ部の女子がいた。
嬉しそうに話す直樹の表情が視界に飛び込んできた。
奏真にとって直樹にくっついている女子などどうでもよく、存在を認識する程度で、表情など目にも入っていなかった。
ただただ直樹の笑顔を凝視する。
奏真は直樹を遠くから眺め思った。
俺が先生から尋問を受けてるあいだ、身を切るような無言の空間で母親を待ってるあいだ、その時に直樹はあの子とどうにかなっちゃったのだと。
それで一緒に帰る約束なんてして……あんな嬉しそうな顔して……。
彼女を連れ、教室に入ってきた直樹は奏真を見るなり笑顔になった。でも、その笑顔は奏真の知っている見慣れた笑顔ではなく、ぎこちない笑顔だった。横の彼女は奏真を見て、あからさまに眉を寄せている。
なんだよ、あんたのクラスはここじゃないだろ。なんで一緒に入ってくんだよ。
奏真はムカムカした気持ちが表情に出てしまう前にパッと俯き、直樹から目を背けた。
直樹の席は廊下側の一番端。ドアのすぐ横だ。
それをいいことに、彼女はチャイムが鳴る寸前まで直樹をガードしていて、直樹が奏真の元へ来ることはなかった。
もちろん休み時間も一緒。毎回毎回ボディーガードのように彼女は直樹にまとわりついている。それが視界に入るたび、「自分のクラスに友達がいないのかよ」と今朝の不安をすっかり忘れ、胸の内で悪態をついた。
結局、停学明けの初日は直樹抜きで過ごした。初めてのことだ。
六限目終了のチャイムが鳴る。一日が終わってしまう。せっかく学校に来れたのに、無情にも今日は金曜日なのだ。奏真は明日から始まる土日の予定を立てるべく、鞄を持って立ち上がろうとする晋吾に声をかけた。
「あ! 晋吾、明日ヒマ?」
「明日は〜、悪い、父ちゃんと海釣りに行くんだ。五時起きでっ!」
「ご、五時っすっか...」
鼻息を吹かし、やる気満々の晋吾はすごく嬉しそう。
……父ちゃん……か……。なんだ、……残念。
晋吾の話を聞き、『もしも』と奏真は思った。
父親と過ごす休日の釣りを奏真は無意識に想像していた。釣りなど行ったこともない。それでも情景は色鮮やかに見えた。思い描いたのはもうぼんやりと薄れてしまった父の顔。奏真に話しかけるその時の感覚だけはリアルに覚えている。大きくて温かい影。
父さんがいたら……父さんなら……俺の話を聞いて、信じてくれた。
ありえないことを想像する幼稚さに嫌気が差し、奏真は妄想を振り払った。
もう、この世にいないのに。『もしも』なんて存在しないんだよ。天変地異が起こったってありえない。ありえないんだよ。




