第9話 樋口さんと角とかでぶつかって恋に落ちるやつ
昼休憩になると樋口さんはそっと教室から出て行ってしまう。
「あれ、樋口のやつまた変な遊びでも思いついた感じ?」
細目で常にサモエドスマイルの二階堂君はメロンパンをかじりながら、樋口さんが出て行った後ろの出入口を見た。
「えと、購買とか?」
「弁当派だから多分違うでしょ、ね、ちょっと見に行こうよ」
「え、えぇ、でも」
「違ったらまた戻ってこればいい。ほら」
二階堂君に急かされて、まだ食べている途中のおにぎりをラップに包み、樋口さんを追うことに。
階段に繋がる通路の角で立ち止まった樋口さん。
特に何かをするわけでもなく、壁にそって再び歩き始めた。
「あ、危な」
角から別クラスの男子がスマホを見ながら飛び出してきた。
すぐに気付いた男子はぶつかる寸前でスマホを上げて、立ち止まる。
なのに、樋口さんはよそ見すらしていないのに男子の胸にポンと当たるまで歩いた。
「え……」
スマホを持ち上げていた相手は、ごめん、と慌てながら謝り、顔を真っ赤にして立ち去っていく。ボクと二階堂君の横を通り過ぎていく彼は、制服のシャツをしわくちゃに握っている。
樋口さんは首を傾げて再び元の位置に戻る。
「何やってんだろうね、角で人にぶつかる悪戯?」
「いやぁそれはさすがに、ないかも」
多分だけど。
そしてまた樋口さんは壁にそって歩き出す。
今度は、年中ジャージの体育の仲原先生が欠伸をしながら顔を出した。
ごっつい、ゴリラみたいな顔つきで坊主頭、見た目がもう怖いのに、樋口さんは臆せず突っ込んでいく。
ぽん、というような感じで仲原先生の胸辺りに樋口さんの顔が当たる。
「うぉ! 樋口お前危ないだろ、今度はなにやってんだ?」
驚いた仲原先生は樋口さんに注意しながら、ボク達の疑問を解消するように訊ねた。
樋口さんは黙って仲原先生を見上げている。
「な……なんだ樋口、黙るな。ここで、何をしてる?」
「実験です」
目が点になる仲原先生は、理解ができずに頭を抱えた。
「あぁー、そ、そうか。すまん、なんの実験か知らんがぶつかると危ないから気を付けろよ」
触れないでおこう、そんな表情で仲原先生は立ち去っていく。
一体なんの実験なんだろう。ちょっと、心臓に良くない気がしてきたので、ボクは樋口さんに声をかけてみようとした。
樋口さんは元に戻らず、角を曲がってしまう。
「あれ、どっか行ったみたいだね」
二階堂君はメロンパンをかじりながら観察している。ボクはおにぎりを置いてきたのに……立ち食いしてる。
「う、うん。なんか心配になってきた」
ボクはこれ以上何かが起きないように、少し早足で角を曲がる。
曲がった瞬間だった。
柔らかい感触がボクの身体に触れて、目の前には切りっぱなし黒髪ボブヘアでサイドを耳にかけている樋口さんが。
まだ、実験の途中だった?!
反動で後ろに飛ばされそうになる樋口さんの腰に急いで手を回して、倒れるのを阻止。
「ご、ごめん樋口さん! 大丈夫だった?」
漆黒の瞳孔が大きくなった気がした。樋口さんは硬い表情筋で、目を丸くしたままボクを見上げる。
「はい、大丈夫です」
あとから心配して二階堂君が様子を見に来た。廊下を歩く皆の邪魔にならないよう隅に寄って、樋口さんの謎の実験について、改めて訊くことに。
「そんで、樋口はなんの実験やってたの?」
食べ終えたメロンパンの空袋を綺麗に畳む二階堂君。
「街角でぶつかるとお互い恋に落ちるという映画を観て、本当に恋に落ちるのか、興味があったのでやってみました」
「あはは、変なこと考えてんの、おもしろ」
二階堂君はサモエドスマイルよりもさらに笑顔を浮かべた。
面白くないよ、なにひとつ。
「それで樋口さん、結果はどうだったの?」
樋口さんが角でぶつかっただけで、よく知らない奴と恋に落ちるなんてふざけた話、あってほしくない。なんでって訊かれたらよく分からないけど、とにかく嫌だ。
樋口さんは目を細くした後、変わらない無表情で首を横に振る。
「よく分かりませんでした。意外と皆さん反射神経がいいので、寸前で止まる方が多いみたいです」
「そ、そっか、でも危ないから、そういうのはしちゃダメだよ」
すごーくホッとしちゃった。地に足がつく安心感に綻ぶ。
「そう……みたいですね」
「あー樋口、最後にトラとぶつかったじゃん。それは?」
「に、二階堂君!?」
いきなり何を訊くの、ボクは顔を真っ赤にして慌ててしまう。
「よく、分かりませんでした。多分」
多分、ってなに? ボクは高鳴る胸に汗ばんできた。
「もう一度、ぶつかれば分かるかもしれません」
「ぶつからなくていいから、怪我しちゃうから、ダメ!」
ボクは必死にこの実験を中止。
ぶーぶー言う二人と一緒に教室に戻ることにした。
柔らかい、手とかそんなんじゃない、樋口さんの身体にぶつかちゃった。転ぶのを止めようとして腰を掴んじゃったし、どうしよう、しばらく寝られないかも……――。