第九十四話
「シュトリ…?」
「やあ、気分はどうだい。セシール」
完全に元の姿へと戻ったセシールに、シュトリは軽い調子で言う。
その顔には今まで見たこと無いような、穏やかな表情を浮かべていた。
「うん。元気になったみたいで良かった。あまり無理はする物じゃないよ」
「どうして、私を…」
「父親が娘を助けるのに理由がいるかい?」
困惑するセシールにシュトリは小さく笑う。
ますます訝し気な顔をするセシールへ、シュトリは何を思ったのか首から下げていた懐中時計を渡した。
「コレは…?」
「お守りだよ。今まで、父親らしいことは何一つしてやれなかったからね…」
自嘲するような後悔するような顔で、シュトリは呟く。
いつも空回りばかりだった。
娘の為を思って行動しているつもりで、娘を苦しめるだけだった。
「…ずっと思っていたんだ。悪魔は人間には受け入れられない。だから、君が人間に関われば関わる程に不幸になるって信じていた」
「………」
「傲慢だったよ。我輩は、我輩が間違えたから君も間違いを犯すと決め付けた。子の生き方を強制しようとするなんて、親のエゴだったんだ」
それを、シュトリはセシールに教えられた。
子が親と同じ間違いを犯すとは限らない。
そんなことにも気付かず、良かれと思って子を支配しようとした。
「生命は生まれた瞬間から自由だ。それを支配する権利なんて誰にも無い」
その言葉は、セシールだけではなく対峙するサマエルに対しての言葉でもあった。
自らを生み出した存在だからと言って、奴隷のように従う義務は無い。
セシールは自身の望んだ物を掴み取った。
それが穢されることだけは認めない。
「セシール。我輩からのもう一つの贈り物だ」
シュトリはサマエルを睨みながら、前へ一歩踏み出した。
セシールを背に庇う様に両手を広げ、口を開く。
「君は我輩が護る」
「…は。モラクスに続いてお前もですか」
口調の割には、顔を愉悦に歪めながらサマエルは言った。
「たかが道具が主人に逆らって生きていられるとでも? 知っての通り、私は強いですよ?」
「子は親の道具では無いんだよ、サマエル。それが分からなかったから、我輩達は家族になれなかったのだろうな」
今でもシュトリは『愛』と言う感情が理解できない。
きっと、サマエルから生まれたシュトリの中には存在しない感情なのだろう。
それを掴むことは永遠に出来ないのだろう。
しかし、そんなシュトリでも、それが尊いことは知っている。
セシールとマナ、人と悪魔を超えて得た『絆』が得難い希望であることは知っている。
「時間回帰。秒針は逆転する」
シュトリの首の残った懐中時計が動き出す。
黒い煙を纏い、秒針が逆向きに回り続ける。
時間の逆行。
身体に負った古傷を、老い衰えた手足を、否定する力。
それこそが、シュトリの悪法『色欲』
「悪法か。自身の時を常に巻き戻し続けることで、私の不死性に対抗するつもりですか?」
「………」
サマエルの言葉には答えず、シュトリは走り出す。
魔弾を撃つこともせず、必死に走る姿にサマエルは嘲笑を浮かべた。
距離を離せば、シュトリに勝ち目は無い。
一方的に法術を撃ち続けるだけで、サマエルはシュトリを殺すことが出来るのだから。
「ふ、はは…」
だが、
距離を詰めたからと言って、それで勝機があるとも限らないが。
「ギャハハハハ! 小癪! まさか、そんな浅はかな考えで私を殺せると夢見ているのですか!」
シュトリが裏切ることなど、ソドムで挑発した時から考えていた。
シュトリの持つ悪法の性質も、とうの昔から知っている。
そもそも、その悪法をシュトリに与えたのはサマエル自身なのだ。
「箱舟の章。第八節展開」
サマエルは嗤いながら、神に祈るように両手を合わせる。
「『聖別方陣』」
ゴボゴボ、と音を発ててサマエルの足下から水が湧き出した。
光り輝く清らかな水は重力に逆らい、天へと立ち上る。
やがて、それは水の膜となってサマエルを包み込んだ。
「ッ! 聖水、か…!」
僅かに跳ねた水が触れた瞬間、シュトリはその正体を叫ぶ。
「その通り! 魔なる者から敬虔な仔羊を護る神の護り、と言うやつですよ! ギャハハハハ! カナンも良い物を残してくれました!」
サマエルは皮肉気にそう言った。
悪魔から人を護るべき法術は今、誰よりも邪悪な者に悪用されているのだ。
「お前の弱点は持続的なダメージです。一瞬で頭を消し去るようなダメージはともかく、継続的にダメージを追い続ければ、逆行が追いつかなくなる」
「………」
聖水が触れたシュトリの指先は、煙を上げてドロドロに溶けていた。
サマエルに接近するには、コレに飛び込まなければならない。
悪魔であるシュトリにとって、コレは酸の塊と変わらない。
聖水のプールは、シュトリの全身を溶かし続け、すぐに逆行が追いつかなくなるだろう。
「…ッ!」
それを理解しながらも、シュトリは止まらなかった。
ただ真っ直ぐに前を睨み、聖水の膜へと走り出す。
触れた端から煙が上がり、シュトリの全身には焼けるような激痛が走る。
「…!」
それでも悲鳴一つ上げることなく、シュトリは足を動かし続けた。
感覚は既に死に、視界すら霞む中、サマエルを探す。
(どこ、だ…!)
命など既に諦めている。
この身体が完全に朽ちる前に、サマエルを倒す。
セシールを、この手で護る。
それが、それがシュトリに出来る唯一の…
「―――残念でしたねェ」
その声は、正面から聞こえた。
続いて胸に衝撃が走り、心臓が潰れる音が響く。
「命を賭けようが、何を犠牲にしようが、現実なんてこんな物です。弱い者は死ぬしかない」
「ぐっ…あ…」
「お前の努力は全部、無駄! 無意味! 悪魔の魂に救いはありません。その無念を抱いて消え失せろ!」
揺らぐ意識が、霞んだ視界が、サマエルを捉える。
嘲笑うサマエルを見つけたシュトリは殆ど溶けた腕で、その肩を掴んだ。
「一つ、疑問に思っていたんだ」
「………何です?」
「君は、四百の命があることを主張する。無限の命、ではなく、何故か『四百』に拘る…」
その疑問は、マナも感じていたことだった。
悪魔を無尽蔵に生み出せるのに、どうして四百で生み出すのをやめたのか、と。
「四百。君が、カナンに封印されていたのも四百年。無関係とは思えない…」
掠れた声で、シュトリは語る。
サマエルの持つ能力。
その正体を。
「つまり、君は一年に一体までしか『命』を創造出来ないんだ。死んだからと言って、すぐに補充できる物ではない…」
恐らく、四百年前より前に作った『命』は全てカナンとの戦いで失われてしまったのだろう。
だからこそ、以降の四百の命しか持っていない。
「…だったら、どうしたと言うのですか?」
苛立ちの混ざった顔で、サマエルはそれを肯定した。
認めた所で、サマエルの不死性は変わらない。
命の補充に一年掛かると知られた所で、四百の命を持っていることに変わりは無いのだから。
「いや、ね…」
そこでシュトリは笑みを浮かべた。
酷薄な、悪魔らしい残酷な笑みを。
「もし、『君の時間』を『三百年分』戻したら、どうなるのかなぁって」
「――――――――――――」
サマエルの思考が止まった。
時間を、戻す?
三百年前の状態に戻る?
そんなことを、すれば…
「あ、ああああああああああ! お、お前! お前、まさか…!」
シュトリはずっと悪法を使用していた。
サマエルはそれを、自身の身体に使用していると勘違いしていたが…
ならば、何故シュトリの傷はいつまで経っても元に戻らないのだろうか。
「残念。もう終わったよ」
地面へと叩きつけられたシュトリは悪戯が成功した子供のように言った。
「君の命は、三百ほど減少した。出来ることなら、生まれる前まで戻してやりたかったけどね」
「く、そがああああああああ! やりやがったなァ、貴様!」
体内から三百の悪魔が消えたのを確認したサマエルは、絶叫する。
既に体内の命は百を切っている。
たったこれだけで、サマエルは三百もの命を一瞬で失った。
「死ね! 死んで地獄で後悔しろォ!」
「…残念だけど、サマエル。我輩は何も後悔していないんだ」
怒りのままにサマエルが放った炎を見つめながら、シュトリは朗らかに笑った。
次の瞬間には死ぬと理解しながらも、その心を支配するのは満ち足りた感情だった。
「…コレで少しくらいは、あの子も見直してくれる、かな…?」
最期に、一瞬だけセシールへと視線を向けてシュトリは炎の中に消えた。
「満足そうに死にやがって! クソが、クソがァァァ!」
燃え尽きたシュトリの灰まで踏み躙りながら、サマエルは叫んだ。
憤怒の形相でマナとセシール、バジリオ達を睨む。
「チッ! 法術ならともかく、悪法は簡単に解けないか」
この状態でも人間共を皆殺しにする自信はあるが、サマエルは自身の身体を優先した。
近くで様子を窺っていたアンドラスを呼び寄せる。
「…一度退きますよ。ついて来い」
「は、はい!」
転移の法術を使いながら、サマエルはマナの顔を見つめた。
「…ッ!」
忌々しい、カナンの後継者。
それを今、この手で殺せないことに怒りながら、法術を使う。
「チッ」
最後にもう一度舌打ちをして、サマエルは姿を消した。




