第九十三話
「嘘…」
呆然と、マナは呟く。
無意識の内に伸ばしていた手が、力無く落ちる。
セーレは、サマエルの放った聖撃の中に消えた。
その意味を、頭が理解することを拒否している。
「そ、そうだ。転移は…」
セーレには『転移』がある筈だ。
もしかしたら、聖撃を受ける寸前に転移して回避したのかも知れない。
「………」
だが、だとすればセーレは今、どこにいるのだろう。
攻撃を躱すだけなら、マナの傍にでも転移すれば良いだけだ。
咄嗟にどこか遠くに転移したとしても、すぐに戻ってくる筈だ。
どうして、帰って来ないのだろうか。
「現実を受け入れられましたか?」
「…ッ!」
「彼は死にました! 今度こそ、私の手で! 殺した! 殺したぞ! ギャハハハハ!」
醜悪に顔を歪めて、サマエルは狂喜する。
その言葉を聞き、マナも現実を突き付けられた。
そう、セーレはもう死んだのだと。
「…あ」
それを理解した瞬間、マナの身体から力が全て抜け落ちた。
呆然と開いた眼から、涙が零れる。
「ギヒヒ…! その絶望と悲愴を噛み締めながら、お前も奴と同じ場所へ行け!」
マナの絶望を嗤いながら、サマエルは片腕を振り上げる。
「放て『聖釘』」
その瞬間、サマエルの腕に見覚えのある光の釘が突き刺さった。
続けて、間髪入れずにサマエルの全身に次々と釘が撃ち込まれていく。
「マナ様! こちらへ!」
サマエルが硬直した隙をつき、セシールがマナの手を引く。
その光景を見送りながら、サマエルは先程より深い笑みを浮かべた。
「そっちは、まだ諦めて無いようですねェ」
「………」
サマエルの視線の先には、無言で佇むバジリオとオズワルドがいた。
混乱していたバジリオの兵達も、今では落ち着きを取り戻している。
セーレ達がサマエルの相手をしている間に、準備を整えていたのだろう。
「だが、全て無意味ですよ。こんな物で時間稼ぎをしようと、もう彼はいない」
バキバキと聖釘を素手で壊しながら、サマエルは言う。
「私を数回でも殺せるのは彼だけ。お前達など、私を一度殺すことすら出来ない」
サマエルの言葉は、蛇の毒のように心を蝕む。
「お前達がやっていることは、目の前の死から目を逸らし、悪足掻きをしているに過ぎない。無意味に! 無価値に! ほんの数分、寿命を延ばす為だけに!」
不安と恐怖。
こんな化物に勝てる訳がない、と言う諦観が心を支配する。
殺せない、と言うことはそれだけで絶望だ。
セーレとサマエルの戦いを見ていた者達は、思わず戦いの構えを解きそうになる。
「それの、どこが悪いんだ」
その時、誰もが恐怖に包まれる中、声が上がった。
マナを連れてサマエルから距離を取っていた、セシールだった。
「死の運命を前に足掻いて、必死に生きようとすることの何が悪い!」
セシールは叫ぶ。
恐怖を押し殺し、目の前の絶望に立ち向かおうと勇気を振り絞る。
「セシール…」
マナは自分の前にある小さな背中が、僅かに震えていることに気付いた。
怖くない筈がない。
それでも、恐怖に屈しないのは守りたい物があるから。
「お前は。確か、シュトリの…」
セシールを見つめ、サマエルは呟く。
すぐに、その口元が三日月のように吊り上がった。
まるで面白い玩具を見つけた子供のように。
「人は決して抗えない運命を前にした時、二つの反応を見せる」
「………」
「一つは諦観。もう一つは『怒り』だ」
嗤いながら、サマエルは言葉を続ける。
「理不尽な運命に対する憤怒。何故、私だけがこんな目に遭わなければならない? 何故、生きることはこんなにも辛いことばかりなのか?」
サマエルの吐く毒は、セシールの心に入り込み、腐らせていく。
今まで辛いことばかりだった人生が、走馬灯のように頭を過ぎる。
「半魔として人間の中に生きるのは苦しかったでしょう? 誰もがお前を疎み、憎み、嫌悪する! それは一体誰のせいですか? お前のような紛い物が生まれてしまったのは、一体誰のせいですか?」
「サマ、エル…!」
「ギャハハハハ! その通り! 悪魔と言う世界の毒を作り出したのも! 人類と悪魔が憎み合う世界を作ったのも! 全て全て私の仕業だ!」
その憎悪を煽るように、サマエルは嘲笑する。
それは、セシールの中に燻ぶっていた火種を燃え上がらせ、復讐の炎となる。
「お前だけは、絶対に…うぐっ…!」
怒りに身を任せて飛び掛かろうとした時、セシールは胸を抑えて呻いた。
胸が苦しい。
全身が燃えているかのように、身体が熱い。
「セシール? セシール、どうしたの!」
「…始まりましたかァ」
企みが成功したことを確信し、サマエルは言った。
セシールの肩を抱きながら、マナはサマエルの方を睨む。
「何を、何をしたの…!」
「悪魔ってどうやって作り出すか、知ってます?」
焦るマナを馬鹿にするように、サマエルは呑気な口調で言った。
「基本は私の分身から作り出すのですが、別の方法もあるのですよ」
「別の、方法…」
マナの脳裏に、オセと名乗っていた悪魔が過ぎる。
彼は変身能力を持つ悪魔だったが、元々は普通の人間だったと聞いた。
「…まさか」
「悪魔ってのは増殖するんですよ。人を悪魔に変えることでねェ!」
げらげらと嗤いながら、サマエルは両手を広げる。
「我が名はサマエル。司る悪法は『憤怒』」
サマエルは使徒であると同時に悪魔でもある。
七柱最後の一体、憤怒のサマエルだ。
「あらゆる怒りは私の支配下だ。この私に対し『憤怒』を抱く者は、自らの怒りによって悪魔へ堕ちる」
苦しむセシールの姿が変わっていく。
肌に奇妙な痣が浮かび上がり、その髪から山羊のように捻じれた角が生えてくる。
「さあ、再誕の時だ!『憤怒』」
「う、ああああああああああ!」
絶叫と共に、セシールは黒い魔性に包まれる。
「―――――」
その毒々しいカーテンが消えた時、そこにいたのはマナの知るセシールでは無かった。
「…やはり、こうなってしまうのか」
離れた場所からそれを見ていたシュトリは、小さく呟いた。
セシールはサマエルの手で、完全に悪魔化した。
最早、彼女に人間だった時の心など残っていない。
記憶は少し残っているかも知れないが、価値観が変わった。
今のセシールの眼に人の命は映らない。
大切だったと言う思い出はあっても、心からそれを大切に思うことが出来ない。
「何も変わらないんだよ。何も」
シュトリの司る物は『色欲』だ。
『愛』ではなく、単なる『欲』だ。
人の欲は理解できても、本当の意味で愛を理解することが出来ない。
その価値観の違いが、悪魔と人が分かり合えない理由だ。
『私に近寄るな、悪魔!』
傷つけてしまうくらいなら、初めから出会わなければ良かった。
どうせ受け入れられない、と理解していたなら初めから近付かなければ良かった。
そうすれば、誰も傷付くことは無かったのに。
「せ、セシール…?」
変貌したセシールを前に、マナは呆然と呟いた。
こうなって欲しくなかった。
セシールには、自分と同じ目に遭って欲しくなかったのだ。
だが、コレで全て終わりだ。
「マナ…さ、ま」
たどたどしくセシールは言葉を吐く。
不気味に光る黄色の眼は、ぼんやりとマナを見つめていた。
その瞳に、マナはどう映るのか。
飢えを満たす魂か。
ただの肉の塊か。
目障りな蠅か。
「私を………信じて、下さい…」
「ッ!」
セシールの口から吐かれた言葉は、懇願だった。
身体が悪魔に変わってしまっても、それでも信じて欲しいと願う言葉だった。
どんなに姿が変わっても、心はマナと共にあると。
「勿論、信じるよ。友達だからね…!」
セシールの変貌した手を握りながら、マナは大きく頷いた。
今の言葉で確信していた。
セシールは、何も変わっていないと。
悪魔であろうと無かろうと、友達であることに変わりはないと。
「…………………」
(信じて、欲しい…?)
姿は変わり、心まで毒されながらも、セシールはそう口にした。
悪魔であっても、受け入れて欲しいとそう願った。
(…我輩、は)
そう口にしたことがあっただろうか?
受け入れられることは無い、と諦めて一度も口にしなかった。
拒絶されることに怯え、悪魔であることを打ち明けることが出来なかった。
(拒絶していたのは、我輩の方ではないか…!)
何故、受け入れてくれないと最初から諦めていたのか。
何故、悪魔であると打ち明けることが出来なかったのか、
あの心優しい聖女を、どうして信じられなかった。
少なくとも、セシールならそうしただろう。
自身が愛した人物を信じ、自分のことを正直に話しただろう。
セシリアがシュトリを憎んだのは、彼が悪魔だからでは無い。
シュトリがセシリアを信じなかったからだ。
(我輩は…!)
「ギャハハハハ! その茶番がいつまで持ちますかねェ! 悪魔化は心にも影響を与える! いずれ、お前は愛しい聖女を喰い殺しますよ!」
「ぐ、ううう…!」
必死に本能を抑えるセシールを、サマエルは嘲笑う。
理性で悪魔の本能を抑えるのにも限界がある。
生まれたばかりの悪魔は腹を空かせているのだ。
本能が理性を超えた途端、セシールはマナの魂を喰らうだろう。
「権能『神の慈悲』………そんな、どうして!」
セシールに掛けられた悪法を解こうとマナは権能を使う。
しかし、何故か何も起こらなかった。
黄金の光も、蝶も現れない。
まるで、マナの権能が失われてしまったかのように。
「さあ、そろそろ限界ですかねェ! ショータイムの始まりだ!」
セシールの身体から魔性が噴き出す。
メキメキと音を発てて、姿が変わっていく。
今度こそ完全に、怪物に変貌してしまう。
「悪法『色欲』」
その時、セシールの手を掴む男がいた。
男の手から黒い煙が噴き出し、それに触れたセシールの変貌が止まる。
時が巻き戻るように、セシールの身体が人の姿へと戻っていく。
「お前は…」
「悪いね、サマエル」
男は朗らかに笑った。
「やっぱり、娘を見捨てることは出来ないや」




